ラウンジの盛況具合? とんでもない。バレンタインデー当日ということもあって一般開放されたモストロ・ラウンジには、外までズラリと列が成されていた。文化祭が宣伝になったり、なによりマジカメに上げた写真映するフォンダンショコラやパンケーキのせいで、捌くのが大変だ。
「ナマエ! ソースの注文!」
「はぁい」
「終わったらあっちのテーブルな!!」
「了解です〜」
寝不足だとかは関係なくて、ひたすらに大変。もう、明日明後日が休みでもいいんじゃないか? ってくらい、回る回る。私の目も、お客様も。チョコソースがけのスフレパンケーキに、フォンダンショコラ、チョコケーキに、チョコレートパフェ。どれも試作品をいただいたけれど、チョコレートっていくら食べても嫌いになることがそうそうないから不思議だ。そう思いながら、空いたテーブルからすぐに食器を回収して、また新しいお客様を案内していた。
「ナマエちゃん、働きすぎ。休んでくる?」
「大丈夫です。少ししたら休憩なので」
「そう? 無理しないでね」
「ふふ、自分の体調のことは一番自分がわかってるのに」
「はぁ……わかってねーから言ってんじゃん」
キッチンに下がってきた私の頭にいつもと同じ、顎を乗せると心配そうな声色を向けてくれた。いや、本当に大丈夫なんだけど。皆が露骨に心配しすぎ、だと思う。テスト期間と同じくらいのしんどさだし、それに今回は仮眠がないだけの話だから、まったくもって問題ない。フロイド先輩が私にくっついて離れないので、人手不足で大変なのにさらに二人も減るのはなあ、と思っていると、ホールの方から「フロイド」と声がかかった。この忙しさだから、今日は支配人もホールに立ってくれている。
「呼んでますよ」
「はいはーい。じゃ、稚魚ちゃんたち。ナマエちゃん倒れねぇように頼むわ」
「了解しました!」
「大袈裟〜」
今日を乗り越えたら、明日は授業も少し早く終わるし、ラウンジも後半から……まあ、前半は部活だから、なのだけれど、だからそんなに心配しなくても十分に休息はとるつもりだ。それに、前に倒れたときのように熱があるわけではないし、テスト期間と同じ寝不足でも、今日の私は何人もに喜んでもらえたり、褒められたりという、気分が違うわけで。それを糧に、なんて言うと綺麗事のようかもしれない。けれど、この嬉しさを糧にして最後までしっかり働くつもりだ。
「よ〜し、頑張るぞ」
両手でガッツポーズを作れば、周りの寮生たちも、「無事に捌ききろうな」と一緒に意気込んでくれた。
◈◈◈
「皆さん……お疲れ様です……」
「は〜……マジ無理疲れた。明日休んでいい?」
「明日ラウンジを休みにしても問題ないでしょ」
「いけません!」
閉店後のモストロ・ラウンジは、全員がソファやらカウンターやらで伸びていた。売上が普段の平日の五倍くらいになっていて、もう五日間休んでも良いと思ったが、うちの支配人はどうもそれを許してくれないらしい。ブラックだ。らしくもなくソファに思いきり座って、三人がけのこれを一人で支配していた私の手をよいしょと退けると、遠くで伸びていたフロイド先輩が隣に座ってきた。
「お疲れ様です」
「あーもう、マジ疲れた」
「……去年もこんな感じでした?」
「いや、去年よりひでぇ」
大繁盛を、「ひでぇ」なんて言い草、そちらも大概ひでぇ、と思う。しかし、今日の忙しさからそう言いたくなる気持ちはわかる。ぐったりした様子で私の肩にぐりぐりと頭を押しつけてくるフロイド先輩にはもう労いの言葉をかけるほかなく、何もしないのもなあ、と頭を撫でてあげれれば、驚いたようにこちらを見上げてきたので、反射的に目を逸らした。それにしても、柔らかくてさらさらな髪。
「てかナマエさ、めちゃくちゃ今日チョコ配ってたじゃん。俺にはないわけ?」
「……あるけど、寮生一人一個か二個くらいだよ」
「マジか〜。でも俺らの体が糖分を欲してるわけだし、早くくれね?」
「強欲だなあ」
寮生にまでラッピングをしていられる余裕なんてなかったから、サムさんのところで買った、三つでなくていくつも入るタイプの箱に三種類しかないチョコレートを詰めたものを机に出すと、その場の寮生が集まってきた。三種類だけれど、シートの種類が違ったり、それに箱に入れるだけで高級感が出るなあ。話を真横で聞いていたフロイド先輩がきょろきょろしたかと思えば、「なんでくれなかったの?」とふてくされながらも、すぐににこにこしながらチョコレートに手を伸ばしたので、ついその手を引き止めてしまった。
「フロイド先輩はだめっ」
「……は? なんで?」
腕を引っ張ってチョコを取るのを制止した私を見て、座っている状態で、表情を落として私を見た。それから、レオナさんに匹敵するくらいの低音で、私を威圧する。それを見た寮生たちはチョコを口に運ぶのをやめたり、つい飲み込んでしまったりして、私をじっと見る。心の声が聞こえてくる。何言ってんだよ、とか、なんでそんな余計なことを言うんだよ、といったふうに。これまた私のミスだ。フロイド先輩と、それから寮生を安心させるために、フロイド先輩の腕を掴んでいた手を滑らせて、手の甲に重ねると、耳元に唇を寄せた。
「……別のやつ、あるので」
「……へ」
「綺麗に、できたやつ。寮長と、副寮長と、それからフロイド先輩は」
そこまで言って顔を離すと、フロイド先輩がフリーズしてから、口をぽかんと開けると、数秒後に「へぇ」と言ってにこにこ、とは違う、愉しそうな笑顔に戻った。それを見た一同はほっとして、「心臓に悪いわ……」と小さく呟いていた。ごめんね。
「じゃ、オレ部屋で待ってるから渡しに来てよ。ジェイドとおんなじ部屋ね」
「今じゃなくて?」
「そーいう気分」
そこまで言うと元気に立ち上がってはひと房の長い髪と鱗みたいなピアスを揺らして、寮の方へと消えていってしまった。それを見てあからさまに周りの生徒は大きく息をついた。溜息だけで合奏ができそうなくらいに。フロイド先輩はどういうわけだか、「そーいう気分」で部屋に行ってしまったので、頭を抱えて売上に誤差がないか計算する支配人――寮長と、それを眺めて、珍しく疲れたように溜息をつく副寮長のもとに、紙袋の中に残された、かわいい箱を持って駆け寄った。
「寮長、ハッピーバレンタイン」
「は? ……ああ、チョコレート。……って、あなた、いつの間に作ったんですか!?」
「昨日の夜……今日の朝? かな」
本当に売上の計算に集中していたらしく、さっきまでの盛り上がりの一連を見ていなかったらしい寮長には、私と副寮長で顔を見合わせて苦笑するしかなかった。寮長の方が、私なんかよりも相当お疲れみたいだ。
「あなた……寝る時間を削ってチョコレートを作ったのに、あんなに働いて……」
「皆過保護すぎです。実際、今こんなにピンピンしてる。それに、寮長の方が疲れているじゃないですか」
「本当にそうですよ。アズール、あなたナマエさんのこと言えないくらい酷い顔をしているじゃありませんか」
「まだ週末じゃないのがありえないですよね……」
多分、私もだし、ラウンジの皆もかなりお疲れだと思う。オクタヴィネル寮生だけ、明日は特別休暇をいただいてもいいのではないだろうか。寮長は私が差し出したチョコレートを受け取ると、小さく「ありがとうございます」と言ってからそれを眺めて、一度机によけた。
「言ってくれれば、今日は休みにしたのに……いやでもそれでは売上が」
「もう、慈悲深い。私の都合なので気なんて遣わなくて大丈夫です。寮長の方が、休んで」
「わかりました……もう少しすれば終わるので」
寮長が支配人をするだけあって、抜かりない。責任が自分にあるからなのだろうけれど、やっぱり寮長だなあ、とまた副寮長と微笑み合っては、背の高い副寮長の方にもチョコレートの入った箱を持っていった。すると、わざとらしく驚いてから、営業スマイルを向けてくれた。
「僕にも? ありがとうございます」
「ふふ、どういたしまして。いつもありがとうございます」
「見てもよろしいですか?」
「……ダメ出し、しないならいいです」
「まさか、僕がダメ出しなんて」
「いつもするじゃないですか」
副寮長や寮長は、遠回しにグサグサと刺してくるタイプだ。上手くできたとしても、トレイさんや、普段から作るタイプの人には粗が見えるだろう。だから、絶対に何も言わないでください、と念を押して副寮長をじっと見ると、にこにこと胡散臭い笑みを浮かべながら蓋を開けた。すると、今度は作られたような驚き顔ではなく、本当に驚いているかのような顔をしたので、私まで同じような表情をしてしまったと思う。
「これは……なかなかよく作れていますね」
「えっ、本当ですか?」
「ええ。レーズンバターを作っていた様子からは想像もつかないです。まさか、こんな特技があったとは」
「……上手くできるまでやったからです」
今、何気に刺されたよね。とはいえ、本当に驚いてくれているらしいので、素直にありがとうございますとお礼を言うと、チョコレートひとつひとつを見てから、蓋を閉じた。早く皆食べてほしいなあ。味の方の感想は、まだ誰にも聞いていないから。
「今度から一緒にキッチンに入る回数を増やしましょうか」
「えっ! 本当に?」
「ええ。ここ最近は特に、ホールの方で大活躍なので。たまにはキッチンもどうかと」
「わあ、嬉しい。手取り足取り教えてください」
「ふふ、ナマエさんは真面目ですね」
真面目、というより、キッチンにもっと入ってみたかったのと、料理の経験も増やした方が、今後にもよく活きると思うから。来年のバレンタインも、もっともっと上手に、ミスすることなく作ることができるかもしれないし。ふん、と意気込んでいると、副寮長がにこにこと微笑んで、そのままもう一度蓋を開けると、急に思いついたように「そうだ」と言った。
「アズール。来年はナマエさんの手作りチョコレートを提供してはいかがですか? モストロ・ラウンジでのお土産として」
「……少し静かにしてくれないか」
「……ちなみに私は却下です」
「おや、それは残念ですね」
まだまだ締めに追われている寮長と、それから、こんなに大変な思いをして、しかもテイクアウト用でわざわざ日持ちの悪い手作りをお客様に提供するほど心は広くない。まあ、収益が入るのは悪くないと思うけれど、商品化しようとは思わないかなあ。
副寮長がちっとも残念じゃなさそうに、眉を八の字にしながらギザギザの歯を見せて笑うと、また思い出したようにこちらを見た。
「そろそろフロイドのもとに行ってあげてはいかがですか? きっとものすごく待っていると思いますよ」
「あ、そうだ。そろそろ行こうかな」
「ええ。僕が戻らないうちの方がいいかもしれませんね。フロイド、あなたに何をするのかわからないので」
「ふふ、フロイド先輩は私の嫌がることはしないですよ」
副寮長の提案は正しい。フロイド先輩にチョコレートを渡すのは、人前……副寮長だけの前だと緊張するし、早めに撤収させてもらおう。寮長には何も言わないように、少し離れたところに置かれた紙袋を覗けば、フロイド先輩の分の箱がまだ入っていることを確認して胸を撫で下ろす。
それから、寮長のお邪魔をしないように静かに、寮生たちに「お疲れ様でした」と言いながら、足音を鳴らさずに去っていけば、寮長がこちらを見ずに、「ありがとうございました」とまた言ってくれた。お疲れなのに、これまた律儀だなあ。
◈◈◈
ノックを三回。『ジェイド・フロイド』と書かれたネームプレートを確かめて扉を叩くと、すぐに「はぁい」と声が聞こえてきた。フロイド先輩の部屋に来るのは、久しぶりかもしれない。前に一度だけ来たことがあるけれど、そのときは業務連絡、だったし。
声が聞こえてから三秒もしないうちに、ガチャ、と音が鳴って、それからまたすぐに扉が開いた。ドアの隙間から見えるフロイド先輩の陣地は、前より綺麗になっている気がする。
「遅かったね、待ってたよ」
「ごめんなさい。あの、これ……ハッピー、バレンタイン」
「へぇ、かわいい。ありがと、ナマエちゃん」
それを取り出したことで紙袋はクラスメイトに貰った市販のものだけで、ほとんど空になり、残った方はまた明日。配れていない部活の人や適当にトレイン先生にでもお渡ししよう、と考えてから、フロイド先輩の方を見ると、甘い。チョコレートなんかより、甘ったるい表情で私の方を見ていたから、ああ、もう、心臓に悪い。すっと目を逸らしても、金色の視線を感じたままだから、仕方なしに合わせると、また目が細められた。
「見てもいい?」
「……どうぞ。不器用なりに、ですよ」
さっき、寮生にあげたときに見たと思うけれど、何せ完成度が違う。なんて言われるだろうとドキドキしながら、フロイド先輩が蓋を開ける様子を薄目で見ていると、それに気がついたフロイド先輩が、私の表情を笑った。それから、すくに蓋を開けてくれた。
「……うわ、すっげ」
「……頑張ったんです。昨日……というか、朝まで」
「テンパリングちゃんとやったんだ。めちゃくちゃ上手にできてるから、そんなに怯えんなって」
不安になって、ジャケットをぎゅっと握ると、フロイド先輩が笑いながら帽子を隔てた私の頭を撫でる。今日一番、緊張しているのは、多分、フロイド先輩は料理が上手で、才能マンだから。そんな私を安心させるように、「そんなに弱気になんないでよ」と頭を二回優しく叩いた。
「てか、マジでよくできてるから自信持って」
「それは、綺麗なのを……渡したから」
「あー、なんで今日はそうネガティブなわけ? ……ってか、オレに綺麗なのくれたの、めちゃくちゃ嬉しいんだけど」
そしてまた、頭を撫でられる。何を弱気になっているんだ、私は。フロイド先輩の前だと、どうも日によっては調子に乗れたり乗れなかったりするらしく、今は後者だ。頭から手を離すと、チョコレートを見ながら「これで寝不足だったんだねぇ」と納得したように洩らした。寝不足ということまで気がつかれていたとは。
「ね、食べていい?」
「!! どうぞ!!」
「あは、急に元気。じゃあお言葉に甘えて」
私の顔を、わざわざ屈んで、身長を合わせて覗き込んでくれたフロイド先輩からは、今日はどこか甘い匂いがする。チョコレートの匂いと混ざって、もっと甘い。
フロイド先輩が、真っ赤なハートのチョコレートを手にとると、まじまじと眺めてからぽい、と口に放り込んだ。中に、ベリーのソースを入れた、甘酸っぱいの。それを確かめるみたいに、やや上を向いて、舌の上で溶かしているしいフロイド先輩を見ていると、喉が鳴って、それと同時に口角を上げた。
「うん、美味しい。めちゃくちゃ美味しいよ。ナマエちゃんって感じの味がする」
「ふ、何それ。レシピ通りだから、特有の味ではないですよ」
「んー、でも、ナマエちゃんの味」
美味しい、という言葉が嬉しくて、一気にほっとして息をつくと、私の味、という言葉で笑みが洩れた。私みたいな味ってなんだ。あくまで真剣に、柔らかな声色でそう言ってくれるから、おかしくてまた笑った。一つ食べて、蓋を被せると、それを手のひらに収めてから、扉の枠の部分に長い手を置いた。
「ホワイトデー、お返しするから待ってて」
「ひえ、絶対私よりすごいやつ……」
「は? ナマエちゃんのが一番に決まってんじゃん」
「やだ、急に怒らないでください」
ホワイトデーに、フロイド先輩もお返しをしてくれる。もっとプロの、本場のチョコレートみたいなのを貰ったらどうしよう、と顔を青ざめさせると、フロイド先輩が何故だか不機嫌になった。それに同じようにむっとすれば、フロイド先輩はまた、目を細めて、金色を輝かせて、情緒不安定、なのかな。すると、フロイド先輩が私の髪を軽く触れると、チョコレートの箱を持って、私と交互に見た。
「ねえ、ぎゅーってしていい?」
「え、な、なんで」
「んー、そーいう気分」
「駄目です!」
「は? 前はナマエちゃんから抱きついてくれたじゃん」
「それでも駄目!」
フロイド先輩が私に手を伸ばしてきて、また甘い香りが到達して、「そーいう気分」で振り回されるのはごめんだから断らせてもらって、身体の前で腕を交差するように見せれば、フロイド先輩は眉を下げて、腕を引っ込めてくれた。ほら、やっぱり、私が嫌がることはしない。
フロイド先輩が、諦めたように私を見て「じゃあおやすみ。ありがとね」とドアを閉めようとしたので、チョコレートを持っていない方の、ドアノブに手をかけた方の腕を不意に引くと、目を丸くした。反射だった。
「……なに?」
「……また、今度なら、いい……かもしれない」
「え、……ほんとに?」
「おやすみなさい」
私は何を言ったのか、まあ、元気のないフロイド先輩を見たくなかったから、といっても正しいけれど、やっぱり口と体が勝手に動いたというのが正しくて、逃げるように私から扉を閉める。また開いてしまったらどうしよう、と思ったけれど、一度閉まってから開くことはなくて、はあ、と息を吐いた。落ち着くために深呼吸をしていると、三度目の深呼吸で、副寮長が「あなたも悪い女ですね」と声をかけてきて、一気に顔が熱くなった。
「ふ、不可抗力!!」