温かい海に沈んでしまった

 服装を変えたことで、もちろん周りの反応は変わった。エペルは、昨日も今日も反応が一緒だったけれど。もちろん口々に言われるのは、「どうして女がこの学校に」「女っぽいと思ってたけど本当に女だったなんて」の二択である。だからといって周りから話しかけてもらえることが多くなったわけではないけれど、変化といえば私の心が少し軽くなったくらいだ。
 自分の性別を隠すかどうかっていうのは、それなりにストレスの原因だったらしい。以前より寝つきが良くなった気がするし、私の日々の憂鬱がバルガス先生の授業とうちの寮のことだけになった気がする。といっても、そのオクタヴィネル寮に関してが要因として大きいものの、入学して二、三日の頃に比べるとマシになりつつあったし、女と公表し始めてからほんの気持ち程度だけ、体力育成のメニューもやさしいものになった。

『おやナマエさん。制服変えたんですね』
『あっ、……はい。変えました』
『似合っていると思いますよ。ただ、もしその服で生活することを決めたのならサバナクローの方たちには気をつけた方がいい』

 制服をスカートにしてから初めて寮長に会ったときに言われた言葉だ。サバナクローに気をつけろ、の意味はいまいちわからなかったけれど、それ以前にこの服で、女だと公言して生活するのは男子校ゆえにそれなりのリスクを伴うだろう。だからあくまで、堂々として。舐められないように。ヴィルさんの教えを守るのだ。

「ナマエ、お昼ご飯食べに行こう」
「お腹空いてると思ったらもうそんな時間かあ。うん、行こう」

 クルーウェル先生がクラスメイトに幾度となく「Bad boy!」と言っていたので、今回は私は当たらなかったけれど、次の授業はしっかり予習をしておいた方が良さそうだ。ただでさえ目立っているのに、間違えて恥をかくようではさらに目立ってしまう。もっとも、オクタヴィネル寮生は先輩たちは性悪に見えるけれど、学力としては優秀揃いだそうで、仮に転寮するにしても泥を塗るわけにはいかない。ああ、寮長やあの双子が私を馬鹿にする様子が目に浮かぶ。

 今日は何にしようかな、とトレーを持って列に並ぶ。パエリアとかも美味しそうだし、無難にパスタがやっぱり外れないよね。前に並ぶエペルを見ると、びっくり。肉祭りだった。確かに焼肉が好きって言ってたけれども。「前食べてたのと随分違うんだね?」と言うと、「ポムフィオーレの先輩が近くにいないから」と言った。前のおしゃれなランチって、趣味じゃなくてヴィルさんの言いつけだったのだろうか。やっぱりエペルって、多少無理してるのかなあ。
 周りの視線がやっぱり、制服を変えたあの日よりはマシだけれどちらちらと盗み見るようなものは感じた。早く料理をとって席に着こう。そう思ったとき、向かってきた生徒と軽く肩がぶつかった。

「わっ、ごめんなさい」

 肩幅がもちろん私よりしっかりとしていて、軽くぶつかったはずなのに料理を落としてしまいそうな勢いではあったけれど、なんとか足を踏ん張ると、私よりも大きなその人の顔を確認するまでもなく、遠くから澄んだ瞳でこちらを見ている美少年のもとへと向かった。

 ◈◈◈

「今日のナマエさんはホールをお願いします」
「はい、わかりました」

 放課後すぐにエペルに手を振って、初日のように遅刻をしてくどくど言われてしまえば精神的にくるものがあるので、決して遅れないようにモストロ・ラウンジへと向かった。簡単な魔法だけれど、一瞬にして制服から寮服に着替えることができて便利だし楽なので、魔法のある世界に生まれてきて良かった、と呑気なことを考える余裕すらあった。
 ステンレストレーと伝票ホルダーを手に持って、開店の準備をしている双子たちを見ていると、寮長がこちらに歩いてきたので、自然と顎が引けた。

「ナマエさんは遅刻や欠勤がなくて優秀ですね」
「えっと、ありがとうございます……?」
「褒めているんですよ。新入生は少しずつどうしてだか休む人が増えているようだ。今日は僕とジェイド、フロイドがいるから回せますが、人手が少ない」

 ああ、確かにもう開店時間なのに今日は人が少ないと思ったらサボりだったんだ。二年生や三年生が無断欠勤をしてフロイド先輩に何やらをされているのはたまに小耳に挟むけれど、やはり新入生にとってもこの生活が厳しくなってきた頃合なのだろう。私は性別を隠すというしがらみのようなものが解けたおかげもあってか、怖いけれど以前ほど憂鬱ではない。やはり、慣れは恐ろしいものだ。転寮なんてしなくてもいいかな、またすればいい、なんて考えへと変わっているのだから。

「今日はフロイドもジェイドもキッチンですから、ナマエさんのことは頼りにしていますよ」
「わ、わかりました」

 寮長はもちろん支配人だから表に出てくることは少ない。キッチンは割と楽しいし、フロイド先輩も思ったよりは怖くなかった……はずだから、今日はホールなのが少し悔やまれる。しかし、注文をとって料理を届けるだけなので、倒れないように、零さないように、だけに気をつければ問題はないはずだ。

「すいませーん!」
「はーい!」

 開店して、一○分もすればぞろぞろと客が入店する。カラン、とベルが鳴る度に席に案内して、オーダーをとって、そんな繰り返しだ。放課後のこの時間は一般客もナイトレイブンカレッジの生徒もティータイムだそうで、スイーツ系の注文が多く入る。私も言えばまかないとして作ってもらえるかな、なんて私欲は一度頭の中から飛ばして、それでもキッチンの方から甘い香りが漂う度に引き戻され、そんな繰り返しだ。そういえば、私の住んでいる町にも美味しいレストランがあったはずだから、また今度そこの味も提案できれば、なんて淡い考えがよぎった。

 人手が少ないから、色々なテーブルを回らなくてはいけないし、すごく目が回る。寮長も手伝いくらいしてくれたらいいのに、とは思いながら、もちろんそんなことを言ってしまえば何をされるかわからない。それにキッチンの方も忙しいだろうし、弱音なんて吐いていられない。仕事が終わったら部屋でいくらでも吐けばいいし、明日エペルに聞いてもらえば良いだろう。

「すいませーん!」
「はーい、ただいま!」

 客が帰ったテーブルの後片付けとして布巾でテーブルを拭いていると、本当に今日は忙しい。手に持っていた布巾を一度置くと、ホルダーを持って六番テーブルへと向かった。端の方だから、ちょっと遠いなあ。我ながら、バイト経験がないとはいえ様になってきた気はするけれど。
 どうやら別の先輩が既にオーダーは取っていたらしく、オムライスがテーブルの上に置かれていた。この時間からオムライスなんて珍しい。それに、フロイド先輩の作るオムライスって美味しそうだから、羨ましいな。お冷の補充かしら、と思ってウォーターピッチャーを手に持つと、そこに座っていた三人組の男子生徒はこちらを見て口角をぐぐっと上げた。この体つきから察するに、あとは黄色だから、サバナクローの生徒か。

「あの、何か注文は?」
「ナマエちゃんの愛をこのオムライスにお願いしまーす!」
「えっ?」
「ぎゃはは! マジで言いやがったコイツ!!」

 えぇ〜。第一印象なのだけれど、治安悪。というかナイトレイブンカレッジが治安悪。モストロ・ラウンジってこんなに落ち着いたお店なのに、時々騒ぎ立てる客がいると思えばまさか私があたることになるなんて。それにきっとこれは、私が女だからゆえのいじりだろう。

「あの、そのようなサービスは当店……」
「なんだよねぇのかよ。てか冗談だろ」
「ナマエちゃん、寮服はスカートじゃないんだね?」

 これは俗に言う迷惑客だ。私が女と公表し始めてから、初めてのあからさまな弊害かもしれない。私が困っているのを楽しんでいるのか、はたまたそれに気がつかずなのか、三人はただただ騒ぎ立てる。どうすればいいのかわからなくなった私は、とりあえず空になりかけのグラスにお冷を補充した。これだけ騒がれると、私が何を言っても無駄な気がした。他のお客様に迷惑になるからお静かにお願いします。もしこれを言ったとて、私の立場から考えるに滅茶苦茶な反論をされるに違いない。けれど、物は試しだ。

「あの、他のお客様の迷惑になるので……」
「は?」
「じゃあ静かにするからさ、ナマエちゃんがほっぺにちゅーでもしてくれよ」
「おっ! やるなぁお前!!」

 き、きつ〜。怖いとかではないけれど、なんか、全体的に反応に困る。男子校のノリっていうのだろうか、これ。お冷を注ぎ終わった私は、どうすればこの人たちを黙らせられるのかと考えて、カウンターの方を見ると支配人である寮長が勘定をしているし、とても助けを呼べる状況ではないことがわかった。もしかすると、このサバナクローの頭の悪そうな先輩方もそれを見越して私に突っかかっているのだろうか。どうしよう、私では静かにさせることができない。

「おい何とか言――」

 バシャ。

 多分、今の私は相当疲れている。もう少し別の判断があったのではないかと思ったけれど、今の私にはその別の方法や判断なんて到底思いつくはずがなかった。頭が回っていなかった。オクタヴィネル寮生失格かもしれない。私は、注いだばかりのグラスに並々入った水を、このサバナクローの連中の中で一番うるさい人にかけた。冷たさを感じるように、首から服にかけて。さっき氷を補充したばかりだから、冷たいでしょう?

「冷っ……めてぇ! 何すんだよこのアマ!!」
「申し訳ございませんお客様。手が滑ってしまいました。それと、ここは私たちオクタヴィネルが経営するカフェです。もう少し場所を考えて発言はできませんか?」

 私もオクタヴィネルに染まってきた証拠なのかもしれない。無意識のうちに、見て盗んでいたのかもしれない。まるで寮長のように、あくまでもこちらは下手に出るふりをして、丁寧な言葉遣いを保ったまま。そこから副寮長や寮長お得意の、あの笑顔を顔に張り付けた。怖さか緊張か、さては興奮かで頬がぴくぴくと痙攣して、少し引きつっている気がする。

「どう落とし前つけてくれんだよ!! ベストまでしっかり濡れちまったじゃねぇか!!」
「っ、スカラビア寮にでも行ってきたらいかがです? 暖かいしすぐに乾くと思いますが」

 怖い。怖いけれど、私ってこんなことも言えたんだ、なんて嬉しくもなる。そんな私の気の昂りを汲み取ったのか、きっとそんな知能も勘も持ち合わせていないだろけれど、その水を被ったサバナクローの男は私の寮服の胸ぐらを掴むと、ぐっと引き寄せた。怖い。でも、日和っちゃ駄目。ヴィルさんに言われたように、堂々と――あれ? この肩幅の広さとか、ちょっとむさ苦しい感じの匂いは知っている。思い出した。今日大食堂で少しぶつかった、あの人か。

「テメェ……!!」
「っ……」

 いや、これは流石に怖い。怖い怖い。ごめんなさい、調子に乗りました。寮長の言っていたサバナクローどうこうって、こういうことだったの? 目の前の男は空いている片方の腕を振り上げると、私目がけて飛んでこようとしたので、ぎゅっと目を瞑る。これ、明日学校行けなくなるかも。歯がなくなるかも。せっかく開き直ってメイクだってしっかりしてるのに、私の技術ではカバーできない跡が残るかもしれない。

 顔から身体にかけての強い刺激を待って目を瞑ったままでいると、私の背後から手を叩くような、パンパン、という乾いた音が鳴ったので、目を薄らと開けてそちらを向くと、寮長が立っていた。どうやら白い手袋に包まれたままの手を合わせて叩いた音らしかった。

「そこまでです。まさかモストロ・ラウンジにこんなに質の悪い客が来るだなんて」
「あ? なんだお前」
「寮ちょ、……」
「うちの従業員に手をかけるなんて、これは重大なルール違反だ。ねぇ、フロイド?」
「ん……?」

 なんだお前、なんて、うちの寮長相手に、他寮にしても仮にも寮長相手によくそんな大口叩けたものだ。サバナクロー寮の寮長は一体どんな教育をしているのかしら。エペルが入りたがっていたサバナクロー寮だけれど、エペルがこんなのだったら嫌だな。寮長の声と姿に安心しきっていると、何やら私の頭上に乗っかるような感覚があった。首を少しずつ曲げて、上に視線を移していくと、見慣れた金色の瞳と視線が絡んだ。やっぱり、香水の良い匂いがする。

「やるじゃん」
「ぁ、フロイド先輩……」
「だいじょーぶ。あとはオレらに任せて」

 どうやらフロイド先輩の顎が、大きな手と帽子を挟んでのかたちだけれど、私の頭に乗っかっていたらしい。怯えていたはずの砂糖を煮つめたような甘ったるい声色が、いつもは怖かったはずの寮長たちの存在が、今はこんなにも安心感を与えてくれる。どうしよう、力が抜けそう。
 腰からくずおれそうな私をすかさず支えると、背中をぽんぽんと叩いてから、フロイド先輩は私の頭から少しずれた帽子を被り直させた。それも、今まで一度も見たことがないくらいの柔らかくて優しい表情で。
 そして私の前に一歩、二歩と出ると、それに合わせてサバナクローの男子生徒も一歩、二歩と後ずさりをする。その、フロイド先輩が私の前に出る瞬間の表情の変化が、怖い。そこにはもはや表情なんてなくて、完全に抜け落ちていた。これを向けている対象がもし私だったならば、メデューサに石にされてしまったみたいに、動けなくなっていただろう。フロイド先輩は右肩の方を左手で押さえて、表情を保ったままに、ギザギザした凶暴な歯を覗かせた。

「で、どこのどいつがうちの稚魚ちゃんに手出した? あぁ?」
「ひっ……リーチ……」
「ち、違ぇ。元はといえば喧嘩をふっかけてきたのはそっちの女で……」
「おや。こちらの注意を聞かなかったのはあなた方だと思いますが」

 フロイド先輩が今まであまり聞き覚えのない声を発すると、わかりやすく相手は怯んだ。少しずつテンションが上がっていくような声色だ。双子のもう一人の声が聞こえたかと思ってまた後ろを振り向くと、相変わらず数歩離れた場所で、胸に手を当てているのは副寮長だった。にこにこと目を細めているけれど、高圧的な笑顔だった。オクタヴィネル寮で一番作り笑いが上手なのはきっと、寮長か彼だろう。確かに先に喧嘩を売ったのは私になるのだろうけれど、頭が良さそうかつ学園内でも有名な双子の片割れ、副寮長の言葉だからなのか、正論のように聞こえるそれはサバナクロー寮生の顔を怒りか恥ずかしさで赤くさせた。

「う、うるせぇ! テメェらがどれだけ偉いのか知らねぇが、オレが実力でわからせてやる!」
「そ、そうだ!」
「いや、お前らやめといた方が……」

 捨て鉢なのか、身の程知らずにも程がある。もっとも、三人の中で一人だけは身の程をわきまえているように見えなくもないが。入学式や集会で散々私闘は禁止、と言われたのにまったくこの学校の治安といったら。本当に名門校なのか不安になるのだけれど、黄色い魔法石がついたマジカルペンの先はこちらを向いていた。フロイド先輩とか、寮長とかでなくて、私を。
 けれど、そんな私を庇うように、少し後ろで傍観していた副寮長が私の前に出る。私を守るというより、私にそのサバナクロー寮生たちを見せないように。

 そこからは、私からは何も見えなかったけれど、「絞めていい?」とフロイド先輩が寮長に許可を取ると間もなく苦しそうなサバナクロー寮生の掠れた声が聞こえて、その声が止んだ頃には三人ともその場で意識を失って倒れ込んでいた。それを、双子がモストロ・ラウンジの外へと文字通りつまみ出す光景は異様だった。
 丁度キッチンにいた二人も、カウンターにいた寮長も手が空いたから来てくれたのだろう、辺りを見回すと、ティータイムが終わったのか客はすっかりいなくなっていた。何が起こったのかは未だに整理がつかないけれど、謎の安堵感にその場にへたり込んだ。

「まったく……あなたも無茶な真似を。あれが水だったから良かったものの、ジュースならば完全にこちら側の責任でしたよ」
「ごめんなさい……」
「あれぇ? 稚魚ちゃん震えてる。怖かった? よしよし」

 そんな私を見て深いため息を零す寮長と、私と同じ目線にしゃがみ込んでは帽子越しに頭を撫でるフロイド先輩。やはり丁度ティータイムの提供が終わった時間だそうで、副寮長はモストロ・ラウンジの入口に看板を立てかけているらしかった。未だにさっきの、緊張や怖さや高揚感が抜けなくて震えていると、フロイド先輩は目を細めて笑った。私が女だって確信を得たときの狂気的なそれではなくて、コットンキャンディーみたいに甘い、動物を可愛がるみたいな。なんだろうこれ。初めて向けられた表情に、顔に熱が集まるような感じがする。

「慣れないことはするもんじゃありませんよ、ナマエさん」
「だって、今日は人手が少なくて皆さん忙しそうだったから……」
「大事な従業員であり寮生のピンチは見過ごせませんね」
「ま、見てて面白かったけどねぇ」

 ついでにフロイド先輩は、ボウタイと掴まれて少し乱れた襟を直してくれた。自分はもっと乱れているというか、だらしないのにそれが不思議で面白かった。副寮長と寮長はあくまで私と目線を合わせずに、見下ろすようなかたちになって話を続ける。こう、副寮長の威圧感がすごい。

「ナマエさんの行動、予想外だったのでとても興味深かったですよ」
「そーそ。ビビってすぐに助け呼びに来ると思ったもん」

 いつもと変わらない笑顔を映したままの副寮長と、それに賛同するフロイド先輩。表情だけを見るとちっとも似ていない二人だけれど、ギザギザの歯が覗くとやっぱり、双子なんだな、なんて思う。髪色は生まれつき、だろうか。もっとも、そんなことは今はどうでも良いのだけれど。というか私、寮の中で嫌われてるんだと思っていた。すぐ絡まれては脅されるし、もしかするとたった今その評価が裏返ったのだろうか。うーん、と悩んでいると、副寮長が「どうかしました?」と声をかけてきた。

「あ、その……えっと、言いにくいんですけど」
「はい、どうされました?」
「……私ってその、女……だし、皆さんに嫌われてる、と思ってて……」

 女、という言葉は自然と小さくなってしまったのだけれど、私のこの言葉を聞いた三人は数秒間、目を合わせたと思うと同時に笑った。うわ、三人とも笑い方が違って個性的。フロイド先輩の狂気的じゃない笑い方、初めて聞いたかも。なんか、無邪気というか。他の二人はあくまで上品に。というか、仲良しだな、この三人。

「まさかとんでもない。誰もそんなことは言っていないでしょう」
「あ、でも、なんか絡まれたり……脅し? かけられたり、とか」
「脅してるつもりはなかったんですがね……。特にフロイドは以前からナマエさんのことを気に入っていたと思いますが」
「だっていちいちおもしれぇんだもん。でもオレ、今日のでもっともーっとナマエちゃんのこと気に入っちゃった」

 ギューってしていい? と最後に添えられたので、もし意味合いが違えどさっきのサバナクロー寮生みたいにはなりたくないから、丁重にお断りするとつまらなそうな顔をした。それより、どさくさに紛れて名前を呼ばれた。稚魚ちゃん呼びに慣れつつあったから、まさか名前を呼ばれるなんて思わなくて、なにこれ、フロイド先輩って天然たらしってやつ? 不満げなフロイド先輩に、ジェイド先輩は私を困らせないようにと窘める。どうしよう、楽しい。気に入られたからっていうのもあるのかもしれないし、一時的なものかもしれないけれど、オクタヴィネル寮、すごく楽しい。それで思わず口角を上げていると、フロイド先輩に頬を抓られた。

「ねー、何笑ってんの?」
「い、いひゃい、ふみません、」
「こらフロイド。ナマエさんも。ディナータイムまでもう時間がない。さあ、早くこのあたりの後片付けを済ませてしまいましょう」

 手を叩いて統率をしようとする寮長を見て、私とフロイド先輩は腰を上げた。特に私は騒ぎを大きくしてしまった原因でもあるのだし、ディナータイムも集客率や回転率、頑張って上げないと。怖い思いをした後なのに、今までで一番軽い、楽しい気持ちでいっぱいになった胸を高鳴らせながら、準備に勤しんだ。私、転寮の必要なんてないのかも。お母さん、お父さん。私、もう少しこの学園で頑張れそうです。
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