いつも通りの電子音が鳴ると、手は自然と横に伸びるし、それを鳴らしている原因の姿は捉えていないのに止めることができるなんて、一種の魔法かもしれない。いつもならこのまま世界一落ち着く香りと空間にうだうだするのに、今日はぱっちりと目が開いた。本当に寝たのか不思議なくらい寝覚めが良いのは、夜中に何度か起きてしまう浅い眠りだったからだろう。いくつ、夢を見たのだろうか。休校だから、アラームの設定は消したはずなのに。ああ、でもよく見たらもう八時だ。いつもより遅い。念のため、かけておいたんだった。
昨晩は、案の定ラウンジには誰も来なくて、他にいた寮生も副寮長たちの許可で帰ったりで、三人の空間だった。それからは、私が寂しくないように、夜よく眠れるようにだろうか。お風呂から上がったらまた髪を乾かしてくれるし、ローカフェインの紅茶も淹れてくれた。私が欠伸をするまで、マンカラで遊んでくれた。気、遣わせちゃったな。
騒動が落ち着くまで、深い眠りにはつけそうにない。エペルたちだって、もし寮長たちの行方を掴んだとしても、撃ち落とされたりしていたらどうしよう。そう考えながらも上体を起こすと同時に、ベッドがぶるぶると揺れた。地震とかじゃなくて、振動っていう感じの。身に覚えがあるこの揺れは、アラームと同じだ。充電ケーブルに挿したままのスマホに目を向けると、液晶には『フロイド先輩』の文字があった。えっ、電話? こんなに朝早くに、何か、あったのだろうか。心臓がドクンと鳴って、恐る恐る手を伸ばして、十秒経った頃、ようやく画面をタップした。
「もしも――」
『あ、おはよー。寝てた?』
「……いえ。起きてました」
『そっか。今ね、ナマエちゃんの部屋向かってるから準備して待ってて』
いつもはもっとふにゃふにゃしているのに、寝起きとは思えないほどしっかりと発音をするフロイド先輩に違和感を覚えた。それに、向かってる? 準備? 視線を上の方に向けては泳がせて、もしかして、また過保護が発動しているのだろうかと推測する。それから、いや、そんなに心配してもらわなくても大丈夫です。そう言おうとしたとき、ふ、と小さく息を零した音が電話越しに届くと、上から被せるように言った。
『……アズール、戻ってきたっぽい』
「えっ!?」
柔らかい声色で、私を安心させるようにそう言ったフロイド先輩に、思わず大きな声を上げる。今、なんて言った? 寮長が、戻ってきたの? なに、どうやって? 無事ってこと?
まって、まって。そう繰り返して頭の中で整理しているのをフロイド先輩が「誰も急かしてねーし」と笑うと、コツコツという靴音が近づいてきたのがわかった。それから、三度のノックが鳴って、自らの格好なんて意識している余裕なんてなく、すかさずにドアノブを捻ると、目を細めてこちらを見るフロイド先輩とばっちり目が合った。きっと、今の私はとてつもなく目を丸くして、それに加えて、
「おい、なんで閉めんだよ」
声は、私から通話終了ボタンを押したことで二重に聞こえることはなかった。目が合って、お互い姿を認識してから時間は経ったのに、勢いよくバタン! とドアを閉めたのだから、そりゃあそういう反応をされても当たり前だ。むしろ私が喧嘩を売ってしまったまでもある。いや、だって、
「駄目駄目駄目……パジャマだしすっぴんだしボサボサだし」
「全部見たことあんだけど」
「寝起きとは違うんです! ビジュが!」
ドアにもたれかかって、ドアノブがガチャガチャ捻られる音を聞きながら、どうにかフロイド先輩より短い腕でブラシを手繰り寄せてはせめてもと髪を梳かす。寮長が帰ってきた、のはすごく気になる。気になるし、それが本当なら早く会いたいけれど、それなら尚更このだらしなさで会いに行けるわけがないでしょ。
やがてドアのガチャガチャ音が止んだと思えば、はあ〜、というわざとらしくもありつつ大きな溜息が聞こえたので、これはまずい、と身体が強ばった。
「じゃあオレとジェイドでアズール迎えに行くから、ナマエちゃんはゆっくりお化粧してから来たらいいよ」
「えっ」
「なんなら別に来なくてもいいし……足、痛いでしょ?」
「……」
気を遣われているようだけれど、これはきっと、煽られている。というより、確実に煽られている。いや、流石に私だってここでフロイド先輩の言うことを鵜呑みにしてメイクにヘアセットにその他諸々を優先するようでは、人の心がなさすぎる。オクタヴィネル寮生失格だし、寮長が無事という言葉でどこか安堵しているけれど、直接見て確認するまでは安心できない。フロイド先輩は、まだそこにいるだろうか。愚かな私を内心叱りながら、ドアを勢いよく開けると、先程とほとんど同じ表情のフロイド先輩と目が合って、金色が揺れた。
「あ、出てきた」
「……魔法でパパッと着替えるので待っててください」
「はいはい。なに、寝起きもかわいいけど」
「お世辞」
「ちげーし」
寝起きがかわいいわけないでしょ。けれど当然のようにそういうフロイド先輩は、趣味が悪いのかもしれない。それとも、私だからかわいいのか。後者の説の方が濃厚ではあるけれど、そんなことより着替えなきゃ、とサイドテーブルに置かれたマジカルペンを手に取ったところで、フロイド先輩は後ろを向いてくれていた。着替えといっても、魔法を使えば肌が露出することはないけれど、やっぱり紳士的だ。ペンを一振りして、壁にかかっている寮服に着替えると、パジャマは床に散乱した。今日はまあいっか、と放置して、日々の楽しみのメイクも軽く魔法で済ませてしまえば、痛みが引いてきた足を動かして開きっぱなしのドアに手をかけた。
「フロイド先輩」
「もうできた?」
「……はい」
「……顔も綺麗にしてんじゃん」
本当に、ベースメイク程度だけれど、フロイド先輩にも伝わってしまったようだ。私の返事を聞くまで振り返らなかったフロイド先輩は、まだ魔法の腕が未熟で、少し着崩れた寮服を見てはフロイド先輩がタイを結んでくれて、ずれた帽子も真っ直ぐにしてくれた。わざわざ目線を合わせてくれるから、首も痛くない。
「ん、完璧」
「フロイド、ナマエさん。準備できました?」
「できたできた。はい、ナマエちゃん」
本当は歯磨きもしたいけれど、それこそ悠長すぎる。副寮長が靴音を鳴らしながら廊下の奥から現れたのを確認すると、フロイド先輩が私を呼びかけたので、咄嗟に両手を伸ばすと、二人は左右対称の目をぱちくりさせた。しまった、甘えすぎた。昨日まで何かあるごとにおんぶやら横抱きやらで運んでくれていたから、癖になったのかもしれない。二人の口角が上がると同時に手を引っ込めると、その手はあっさりフロイド先輩に掴まれた。
「なぁにナマエちゃん。マジで稚魚ちゃんみたいでかわいいね」
「いや、やっぱり自分で歩けます……」
「遠慮なさらなくても良いのですよ。稚魚さんなら仕方ありませんから」
「いい、いいです」
やめて、恥ずかしい恥ずかしい。手は拘束されたままにふいと顔を二人から背けて、壁しかない空間を視界に映す。ターコイズブルーはずっと見切れていて、手を離してくれる気配はない。いや、それより寮長の安否を確認しなくては。そもそも何を根拠の「戻ってきた」なのだろう。スマホには特になんの通知も入っていなかったし。
「ほら、早く――うっ」
「フロイド、ナマエさんが苦しそうな声を出していますよ」
「ごめん、痛かった?」
「大丈夫……」
早く行きましょう。言いきる前に手の拘束が解かれたかと思いきや、私の身体がふわっと宙に浮いて、膝と背中に手を差し込まれていた。そのせいで色気も何もない変な声だって出る。まただ。結局、これだ。昨日は一度だけおんぶにこだわっていたけれど、結局あれはなんかのかわからずに、その後はこれとおんぶが半々だったような。思わずぎゅっとフロイド先輩の首に掴まると、至近距離で目が合った。
「足、イシダイせんせぇが短くても一週間くらいは痛むって言ってたしさぁ。これが一番効率良くね?」
「まあ確かに……重くないですか?」
「全然」
「優しい」
ひょいと軽々持ち上げてくれるのは事実だし、フロイド先輩にとっても軽いのは本当だろう。香水の匂いは今日はしない。フロイド先輩も、寮長が戻ってきたってわかってから急いで出てきたのかも、なんていうのが想像できた。二人とも、あの様子でやっぱり心配だったんじゃない。
「どうして戻ってきたってわかったの?」
「なんかすげぇ音したの。聞こえなかった?」
「全然……」
「おや、爆睡だったのですか」
昨日よりは少し早いけれど、それでもゆったりした揺れ。それでも、寮長に会いたいことが伝わってくる。きっと寮外の音なのだろうけれど、まったく聞こえなかった。どんな音だったのか尋ねれば、音波がどうのだと話し始めたから、まあ、そんなの私に感知できるわけがない。しかも、それだけでなく。
「まあ、一番は勘だけど」
「ええ。しかしこういうときの勘は当たりますから」
勘、だなんて。きっと、三人の関係が長くて深いからだ。時折、三人の間柄が羨ましくなるときがある。そんな人魚同士のコミュニケーションとか、幼馴染の関係なんて、勝てるわけないじゃん。
「連絡くらい入れてくれてもいいのに……」
フロイド先輩に身を預けたままぼそっと呟くと、二人は何も言わずに笑った。
◈◈◈
向かった先は運動場だった。確かに、鏡舍を抜けてからあちらが騒がしいような気はする。まだ朝で静かなメインストリートをゆっくり歩いた、グラウンドの入口。何やらシンプルでどデカい、背が低い魔導ビークルらしきものがあって、どう見てもあのフォルムにデザイン、一昨日見たS.T.Y.X.のものだろう。遠目だけれど、攫われた人たちと、それからラギーさんにハウルがいて、ああ、本当に皆帰ってきている。ほっと胸を撫で下ろすと、頭上から「ね、言ったでしょ」と降ってきた。
すると何やら、私たちの横を走っていく影があり、三人は反射的にそちらを向く。
「ジャミル〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
「あれ、ラッコちゃんじゃん」
「先を越されてしまいましたね」
「ジャミルさんものすごい吹っ飛びましたけど」
広々としたグラウンドに、カリムさんの声が響き渡る。そのままジャミルさんに思いきり抱きつけば、ジャミルさんは芝生にカリムさん諸共倒れ込んだ。下が芝で良かった。硬いコンクリートなら怪我をしていたかもしれないから。
「フロイド先輩」
「ん、わかってるって。早くアズールに会いに行こーね」
「運んでもらっている分際で我儘なものですね」
「言い方言い方」
分際って。副寮長の方がやっぱりなんか、尖ってるよねえ。結構好きだ。一度歩みを止めていたフロイド先輩が私をよいしょと安定させてから、また歩き出す。やっぱり、重かったんじゃないかなあ。不安になってじっと見ると、目が合った瞬間に笑いかけられたので、心配無用、ということかもしれない。
徐々に姿をはっきりと捉えられるようになってくると、周りの視線を集めているスカラビアコンビの会話も鮮明に聞こえるようになってきた。
「――ジェイドは『もしかしたら既に命が――』とか言って不安にさせてくるしさ!」
あれ、何か物騒な言葉が聞こえたような。私には安心させるためかそんなこと言ってこなかったのに、他の人にはそんな感じだったの!? ばっ、と隣にいる副寮長を見れば、眉を八の字にした副寮長が笑顔で自然とその会話に入っていった。
「僕はただ可能性を提示しただけで、皆さんの不安を煽りたかったわけでは……」
「やれやれ。だとしても、勝手に人を亡きものにしないでもらいたいですね」
「……ピンピンしてる」
オクタヴィネルの中で、私が心配しすぎだっただけ? きょろきょろ副寮長と寮長の間の視線を往復させていると、副寮長がほっとひと息をついて、「ご無事で何よりです」と言ったので、その様子を見て、ああ、この人もこちら側だった、と安堵した。しかし、やはり三人の信頼関係は出来上がっているらしい。フロイド先輩はまだ私を下ろす気配なく、寮長に声をかける。
「戻ってくるの早かったじゃん。敵ぶっ飛ばして自力で戻ってきたの?」
「話せば長くなりますが、概ねフロイドの言う通りです。僕がいない間も、ちゃんとモストロ・ラウンジは休まず経営していたんでしょうね?」
ええ、嘘でしょ。ピンピンしているとはいえ擦り傷だらけの身体にボロボロの寮服。それに構わず、ラウンジの方を心配するなんて、寮長らしくて良い、どころか普通に呆れしか出てこない。それは他の二人も同じらしかった。はあ、と三人揃えて溜息をつくと、フロイド先輩は「何言ってんだこいつ」という表情を寮長に向けた。
「うーわ。出た。言うと思ってたけど」
「店は開けていましたが、この二日は学園内でも混乱が大きく来客はゼロという結果です」
「それにほら、ナマエちゃんも怪我して動けねーし」
「う、動けます!」
しまった。次は私たちオクタヴィネルが注目を浴びているせいで、必然的にこの異様なお姫様抱っこの状況も見られていることになる。噂で通っている「ナマエ・ミョウジのバックにはあのリーチ兄弟がついている」が本当だとしても、この状況は非常に恥ずかしい。偶然目があってしまったレオナさんがにや、と笑ったので、途端に恥ずかしくなってバタバタすると、フロイド先輩は仕方なしといったように下ろしてくれた。
「見せつけてくれるじゃねぇか」
「今日もおアツいッスねぇ」
「いい、そういうのいいから」
ラギーさんとレオナさんがそれぞれにやにやしながら、既にフロイド先輩に解放してもらった私を見てそう言うので、本当、ハウルがどれだけ良心的なことか。動物さんたちの痛い視線を避けながら、再度寮長の方を見ると、信じられないといった表情で「は?」という低音を零した。ああもう、この寮長は。
「つまり二日連続で赤字だと!? なんてことだ。……ハッ、もしかしてナマエさんの怪我も――」
「あー……あの鎧に刃向かって捻挫して」
「なんだって!? 後日きっちりS.T.Y.X.に損害賠償を請求しなくては」
慌てた様子で言う寮長に、捻挫ごときで大袈裟な、と思ったけれど、好き放題作ったスフレパンケーキ代と思えばチャラだろう。そう考えた私たち三人の目が見事合って、一斉に細められた。あーあ、もっと感動の再会のはずだったのに、寮長がこの調子じゃ感動が湧いてきそうにない。
まだ怪我で不自由であろう寮長が、誰よりも先にラウンジに戻ろうとしたところで、落ち着きのある透き通った声がそれを引き止めた。
「待つんだ、アズール。まずはキミも保健室で手当てを受けるべきだよ」
「リドル先輩!?」
そう、それは紛れもなくリドル先輩の姿、だったのだけれど。
「ウワッ!? 金魚ちゃんが白メダカになってる! ナニソレ? どしたの?」
フロイド先輩の言う通り、特徴的なさらさらのワインレッドの髪から完全に色素が抜け落ちて、しかもカリムさんやクルーウェル先生の右半分みたいに艶のある元気な髪ではなく、生気の感じられない髪だった。白メダカ、という表現が適当だとは思えないけれど、相変わらずよく回る頭だ。リドル先輩に、何があったのだろう。
「アズールも言っていただろう。話せば長くなるくらい、色々あったんだ」
「……無事で良かった。リドル先輩、大丈夫?」
「ああ。大丈夫だよ。ナマエも怪我をしたようだね。すまなかった」
「ううん。自業自得です。火傷もしてません」
「そう。キミもゆっくり休んで」
ぽんと優しく肩に置かれたリドル先輩の手。白い髪も似合うけれど、もし戻るのなら早く綺麗なワインレッドに戻してほしい。頷くと、リドル先輩がほんのわずかながら口角を上げて、すべての力なさに、万全の状態ではないことがわかった。
その後来たケイトさんにトレイさんがリドル先輩の安全を確認して、どんどん集まってくるなあ、なんて呑気に考えているものなら、リドル先輩が何やら意味深な発言をして、それから――
「ううっ……もうイヤ。元の姿に戻れなかったらどうしたらいいの?」
見覚えのないお爺さんが、見覚えのある寮服を身にまとって嗚咽する。ポムフィオーレの寮服で、でもポムフィオーレ寮生とは思えないほど髪がバシバシになっていて、いや、そもそも年齢がここの生徒じゃない。しかし、連れ去られた面々と、あの頭の王冠を照らし合わせると、答えはすぐに出た。
「えっ……」
「ウッソあれベタちゃん先輩なの?」
「ええ。……こちらも話せば長くなります」
言い方は悪いけれど、完全にヨボヨボのお爺ちゃん。アレが他人でなくてヴィルさんなのだとすれば、想像以上に壮絶な何かが繰り広げられていたに違いない。そもそも、アレは元に戻るのだろうか。リドル先輩の髪の色は回復しなくても、最悪染めてしまえばいいとして、老いは、どうしようもない。ヴィルさんが本来の歳の取り方をしてあの年齢になれば、もっとお綺麗だと思うけれど、本当、何があったのか。
ヴィルさんのしわがれた声が響く中、私たちを取り囲むように光がパッと散ったかと思うと、瞬きをする間にその場に元からいたかのように立っていたのは、リリアさんと、マレウス・ドラコニアだった。もう会うことはないと思っていたのに、この距離感、二度目だ。
「なにやら騒がしいと思ったら、お主ら戻ってきておったのか! 皆無事で何よりじゃ」
リリアさんがにこにこと相変わらずのかわいらしい笑顔を向けてそう言うのに、きっとほぼ全員が抗議したかったと思う。もちろん啖呵を切ったのは、『無事じゃない』代表だった。
「無事? どこをどう見たら無事に見えるのよ!」
どうやら妖精のお二人はヴィルさんの姿が目に入っていなかったらしく、彼の声を聞き、姿をはっきり捉えてようやく目を真ん丸にした。流石のリリアさんや、茨の谷の次期当主でもびっくりだったらしい。
「お前たちが攫われて、まだ二日ほどしか経っていないと思っていたんだが……。いつの間にか七、八十年ほど過ぎていたのか?」
「えっ」
「人間は短命な種族だとは思っていたが、よもやこれほどとは……」
思わず素っ頓狂な声が洩れる。マレウス・ドラコニアが真剣な表情で、長い睫毛を伏せてそう言うものだから、これは本気か冗談なのかわからない。えっ、えっ、と小さく何度も洩らしていると、フロイド先輩が小さく笑っては私のうるさい口を塞ぐように頬を摘んだ。皆当然、マレウス・ドラコニアの方に注目しているから、あくまで小声で、背伸びしてフロイド先輩の耳を借りようとすれば、屈んで私に背を合わせてくれた。
「何あれ、マレウス・ドラコニアのジョークですか」
「さあ。オレあの人のこと詳しくねーもん。本気なんじゃね?」
「だったら周りが老いてないのおかしいでしょ」
マレウス・ドラコニアって、もしかするとド天然なの? これが煽りや冗談でなくて本気なのだとしたら、まあ、距離が近ければ鼻につくだろうなあ、という感じだ。お爺さん――ヴィルさんは、その妖精ジョークで自分の姿を省みたのか、今まで見たことがないくらい、子供のように泣きじゃくった。その様子を冷静に見ていたリリアさんが、ハッと口を開くと、冷やかしの表情でなく、真剣にヴィルさんの方を向き直る。
「――ヴィル、お主さては『嘆きの島』に封じられた『冥府』に立ち入ったな?『冥府』は生者が立ち入れば、たちまち生気と魔力を奪われて命を落としてしまう」
妖精族は、人間に比べて寿命が長い。この状況把握能力と冷静な分析、もしかすると十八だと思っていたリリアさんも私たちより何年も人生の先輩なのかもしれない。
リリアさんの推測を聞いたルークさんが、落ち着いた様子で昨晩に起こった出来事を私たちに説明する。どうやら、『冥府』とやらの門の封印が解かれて、世界中にブロットとファントムが撒き散らされようとしていたらしい。何、それ。そんなに壮大な、フィクションみたいなこと、信じられない。ブロットについてもファントムについても、魔法史の授業程度での知識しかないけれど、それでも世界中が危機的状況に陥るところだった、というのは幼子でもわかることだろう。そして、それを止めるために攫われた人やエペルたちが行動をして、ヴィルさんはやむを得ず冥府に立ち入った、ということらしい。
「つまりシェーンハイトは時を重ねて老いたわけではなく……生気と魔力が枯渇し、そのような姿になっているということか」
「ああ。『嘆きの島』では処置ができず、急いでここへ戻ってきたんだ」
「花の盛りの若者が、なんと不憫な……」
こちらに戻ってきたのは良いとして、こちらにヴィルさんを元通りにすることができる人はいるのだろうか。あれだけ美にこだわってきたヴィルさんの気持ちを考えるといたたまれない。すると、つい今まで悲しげに同情するような表情をしていたリリアさんが、状況に合わずいつも通りの笑顔を取り戻すと、マレウス・ドラコニアの方を向いた。
「のう、マレウスよ。――『茨の谷』の次期当主として、かの者の労に報いてやるべきではないか?」
「ふっ。お前が何を望んでいるのかわかるぞ、リリア」
リリアさんが妖しげな笑みを浮かべると、陽の光でアイシャドウがきらきらと反射した。何やら、世界を救ってくれたために、マレウス・ドラコニアに何かを働きかけるように言ったのだけれど。マレウス・ドラコニアは、世界でも屈指の魔法士だ。つまり、私が都合良く解釈すれば、ヴィルさんを元の十八歳の姿に戻せる、ということだろうか。つい、フロイド先輩と副寮長の袖をきゅっと握って、二人の間からその様子を窺うと、薄く笑った綺麗な顔の妖精が、余裕のある笑みを深めた。
「――僕にとっても時間を巻き戻すことはできない。だが、少しばかり魔力を分けてやることはできる」
「え?」
状況を呑み込めていないらしいヴィルさんと、にこにこ笑っているリリアさん。それから、状況が把握できそうな私たちの中央にいるマレウス・ドラコニアが手のひらを広げると、そこに白い光が次々と集まった。まるで、魔法をこれから使うときのような。
「シェーンハイト、お前に祝福を」
それから光はどんどん強くなって、大きな粒となってマレウス・ドラコニアの胸の前に集まっている。彼は、それでもなお余裕綽々の笑みを向け、手をさらに高く上げた。
「……さあ、あるべき姿に戻れ!」
その光は次第にヴィルさんを取り囲み、一際強く光ったと思えば、気がつけば、ヴィル・シェーンハイトがそこに立っていた。うそ、本当に、元に戻った。まるでさっきまでのがCGみたいに、髪はツヤツヤのシャンパンゴールド。肌は毛穴ひとつなく、指も細くて長い。ぶかぶかだった靴はぴったりヴィルさんに合っていて、本当に、いつも通りの芸術作品のようなヴィルさんが、いた。
「え……あっ? ア、アタシ……。嘘っ!! 元の姿に戻ってる!?」
あのしわがれた声も、ステージの上でよく通る綺麗な声に戻っていて、頭ではわかっていても、上手く状況が整理できない状態だった。ルークさんはいつもの姿だと喜び、先程まですっきりしていない顔をしていたエペルも最高の笑顔でヴィルさんに声をかけると、あのヴィル・シェーンハイトが、子供のようにはしゃいでは、勢いのまま芝生に倒れた。
「なんだか、すごい瞬間を見た気がする……」
安心しきったヴィルさんを囲うように、ポムフィオーレの三人で笑い合っているのを遠目に、ひとつ呟くと、寮長や副寮長も同意をしてくれた。思っていた何十倍も壮絶な二日間に、フィクションのような話。それからこのハッピーエンド。すべてがノンフィクションなのが、信じられない。何より、遠くで役目を果たしましたと言わんばかりに一歩引いている、ライムグリーンの瞳の、誰もが恐れるマレウス・ドラコニアだ。名だけでなく、皆に恐れられる存在だという証明がたった今行われ、あんな人と一対一で話していたのかという現実離れした事実を思い出してはまた震えた。
「でもまあ、皆無事で良かったじゃん」
未だ遠目でマレウス・ドラコニアの方を見る私にそう声をかけたフロイド先輩に頷くと、副寮長も息を洩らした。ポムフィオーレの三人も楽しそうだし、他の人たちも無事で――
「……あれ、イデアさんとオルトは?」
何か足りない、話に聞いていた面々で、まだ足りない。そう思って、思いあたる名前を挙げれば、寮長とリドル先輩が顔を見合わせてから、「また後で話しますよ」と言った。