前髪を押さえたまま、バタバタと忙しなく走る。楽しみ、でも緊張もする。魔法は万能じゃないとはいうけれど、魔法って便利だ。鏡に飛び込んだ瞬間に、マジカルペンを振って寮服に着替えて、鞄を置きに行く時間すらも惜しいから、今日は裏に置いておこう。
「お、おはよ、ございます」
「めっちゃ息切れてんじゃん。おかえりー」
ぜーぜー息を切らして、いつもはかなり余裕をもって、今頃とっくに準備に取りかかっているというのに、必死に走って十分前の到着になってしまった。最悪だ。それを見てサボっていたフロイド先輩はにこにこ笑いながらこちらに寄ってきたので、反射的にさっと前髪を隠すと、「あ?」と低い声が降ってきた。ひい、威圧感。多分、ものすごく崩れていると思う。
「なに」
「……走ったから前髪が」
「あー、ほんとだボッサボサ」
「うぅ」
「てか前髪だけじゃねーし」
朝からいつもあんなに必死でアイロンを通してセットしているのに崩れてしまっているなんて。明日からはもっとガッチガチにしよう、と思うけれど、洗うときに嫌なんだよねえ。おまけに髪全体がボサボサときたか。
バッグからブラシを取り出して、少し外れたところで髪を梳こうとすると、フロイド先輩が私の手に握られたブラシをひょいと取り上げてから、私をお客様のソファに座らせた。
「ポニーテールにしたげる」
「ええ、今日はキッチンに入る予定ないですよ」
「気分。馬術部だし丁度良くね」
フロイド先輩が、ここ最近は私専用のスタイリストになりつつある気がする。ネイルに髪に、女子力ボロ負け。髪くらいは自分でできるし、少し整えるだけで良かったのに、「そーいう気分」らしいフロイド先輩に今日も甘えるしかない。今日も稚魚ちゃんのままだ。ここ最近ではフロイド先輩にしかしてもらったことがないけれど、他人に髪をアップされるのって首がぞわぞわするんだよねえ。
「あなたたち、開店間際にお客様の席で何をしているんだ」
「ん? 見りゃわかんじゃん。かわいくしてる」
「遊んでいる場合か! さっさと終えて準備を進めてください」
「別に遊んでねーし。ほら」
フロイド先輩に身を任せていると、支配人自ら注意においでだ。寮長が一番正しいけれど、フロイド先輩にどうこう言えるような人が他にいないので来てくれたのだろう。結び終わったのか、フロイド先輩がポケットからスマホを撮り出すと、「はいチーズ」と言ったので、合わせてダブルピースをすれば、私と寮長にそれを見せてくれた。あ、取れかかってたけれど、毛先の緩い巻きがいい感じでかわいい。
「ああもう! さっき席を整えたところなのに!」
「そんなすぐ客来ねぇし」
「二人でもう一度綺麗にしておいてください!」
「なんか酷くね?」
「ね」
S.T.Y.X.からの賠償金も得たことだし、そうピリピリしなくていいのに。それも多めに得たというのに。綺麗に、なんてまるで私が汚いかのように言われてご立腹だ。もちろんそんな意図はないだろうけれど。しかし髪や埃が落ちたのかも、と布巾をキッチンの方から取ってきては、ソファと机を私だけで拭き直していると、寮長が眼鏡をくい、と上げてから「そういえば」と言った。
「ん?」
「ホームルーム後に廊下を走っていましたが……何を急いでいたんです?」
「うわ……見られてました? リドル先輩に見られてなかったらいいなあ」
結局堂々と遅刻してはエペルと二人揃ってクラスで注目を集めた上に軽い説教を受けることになってしまった。まあ、皆の帰りを遅らせたのだから当然だ。クラスメイトたちには「せっかくのオフを」「明日の昼飯奢れよ」「課題やってくれよ」なんて言われてしまったけれど、運が悪いことに遅れたのが私とエペルだったので、全力でぶりっ子をして万事解決だった。まさかエペルが乗ってくれるとは思わなかったけれど。
「まあまあ、諸事情で遅刻しそうだったってことです」
「あなたが? 珍しい」
「ここでいいお知らせです」
「は?」
特に詳しく遅刻した理由を言っても面白くないし、私たちだっていつの間に時間が経っていたのかわかっていない。そんなことよりこちらの方が喜ぶだろう、と布巾をぎゅっと握った反対の手で人差し指を立てると、了解は眉をひそめて、「いきなり何を言ってるんだこいつは」の表情をした。ふふふ、寮長、喜ぶぞ。
「今日、クルーウェル先生来てくれるんですって」
「なんだって?」
「今日、クルーウェル先生来てくれるんですって」
「二回も言わなくていい。聞いていましたから」
寮長じゃなくて、一番嬉しいのは私なんだけどね。しかしちらりと見れば、寮長は「それは大仕事をしてくれました」なんて悪い笑顔をしていた。生徒のためだと払ってくれるか、ケチケチなのか。寮長じゃあるまいし、大人の男の人だし、なんだかんだ前者タイプだろう。
布巾を戻しにキッチンの方に行くと、後ろからぽん、とポニーテールにした髪を弾かれて、こんなことをするのはフロイド先輩しかいない。
「なぁに、イシダイせんせぇやっと来んの?」
「そうそう。あとエペルと――エペルが来ます」
「は?」
ぶん、と髪を振るように振り返ると、それと同時に私と目線を合わせるように屈んでくれていたので、首を反射的に上げたのは失敗だった。髪は顔に当たらなかったらしいし、良かった。
危ない危ない。リドル先輩が来ることを言ってしまうところだった。先程『フロイド先輩には内緒にしておくので』と送ったところだったのに。けれど早かれ遅かれ来店するならバレるよねえ。リドル先輩、ケイトさんとトレイさんの後ろに隠れていればなんとか大丈夫かな。いや、バレる。
「何言ってんのかわかんねーけど良かったじゃん。あと、親戚のおじさん来るなら髪かわいくして正解」
「あ、確かに。ふふ」
かわいく、にしてはただのポニーテールで、けれどフロイド先輩がしてくれると特別かわいく思えるから不思議だ。私も髪は朝に巻いたし、共同作品ということにしてもらおう。
るんるん、かわいい私を見せつけるように堂々と歩いていると、そういえばとハッとして、開店間際にもかかわらず裏にすっと隠れては、ルージュを塗る。せっかく色々な人が来てくれるんだし、唇もぷるつやでいきたいよねえ。
「今日は一段と気合いが入っていますね」
「えへへ。そうなんですよ。かわいいですか?」
「ふふ、かわいいですよ」
「ありがとうございます〜」
下準備をしている副寮長からの「かわいい」ゲットでプラス十ポイントだ。まあ、嘘なんだろうけれど。今日はレーズンバターが結構いるかもしれない旨を伝え、私は悔しながら今日はホールメインの日なのでお皿に盛ったりはできないけれど、前日から仕込んであるものが置いてあるし、楽しみ〜!
そうこうしている間に、カランコロンとドアの方で音が鳴ったので、接客準備をと定位置に待機していると、イグニハイド寮生、イグニハイド寮生、ハーツラビュル寮生、イグニハイド寮生。うーん、エペルやリドル先輩はまだみたいだ。そういえばオルトが、「ナマエ・ミョウジさんがいるからって今年度はモストロ・ラウンジに食べに行く寮生が増えているよ!」「引きこもりがちだけど皆外に出るようになって良かったよ!」「食生活も健康的になっているし」なんて言っていたなあ。一部だろうけれど、嬉しいことだ。
「ナマエちゃんほっぺゆるっゆる。なに、どしたの?」
「なんでもないです」
「ふぅん」
「……エペルまだかなあ」
「そんなそわそわしなくても来るって。多分」
また何か起こったらどうしよう。エペルが実は私よりもよっぽど悪い人間で、「簡単に騙されるしちょろい」なんて裏で言っていたらどうしよう。いや、でも仮に来なくてもエペルに得もない。最悪だ、急に悪い方向にばかり考えてはゆるゆるの自覚があった表情筋が強ばる。今度はフロイド先輩がそれを覗き見て、「カッチカチじゃん」と表情の変化の激しさに対してか、若干引き気味の表情をした。
◈◈◈
やっぱりオムライスって人気すぎる。そもそも美味しいのもあるし、私のアレもあるし。ごく稀に、私のサービスを断る人がいるけれど、あれのショックぶりは半端ではない。あからさまに眉を下げればやっぱり、注文してくれるし、リピート率は八十パーセントはあるけれど。
「ナマエさん」
「はぁい」
「エペルさんがお見えですよ」
「えっ!」
オムライスに「Thank you for today too♡」と書けば喜んでくれるのがわかってきたので、今日もそれを昨日と違うイグニハイド寮生のものに書いていると、寮長からの嬉しい言葉が聞こえて、胸がドクンと鳴った。けれどおまじないを先にやらなきゃいけないし、でも手を抜くわけにはいかないし、エペルにも早く会いたいし、と思って入口とお客様とで視線を彷徨わせていると、大事なお客様が私と店内入口を交互に見てから、あわあわした。
「ぼ、僕のことはいいから、お友達に会ってきて」
「でもそれだと悪いし……」
「いや、書いてくれただけでう、ううう嬉しいよ、あっ、ありがとう」
「え〜、ありがとう。じゃあお言葉に甘えるね。次来たときは愛情二倍にしますね」
愛情二倍って、自分で言っておいてなんなんだろう。けれど常連の彼は「ひぃ」と声を出して私に手を合わせてくれたので、了承してくれたと思っておこう。ケチャップを持ったまま入口の方をちらりと見ると、一際小さく見える美少年が佇んでいたので、そちらに駆け寄った。せっかくかわいくしてもらったのが悲しくなるくらい、天然美人だ。
「エペル! いらっしゃいませ」
「ありがとう。えっと……」
「今ね、空いてるの。一名様ですね、ご案内します」
「う、うん」
こういうところに慣れていないのだろうか。まあ、カフェっていうよりバーって感じだもんね。今日私に来ると伝えてくれた人たちは、なるべくカウンターでなくてテーブル席にご案内したいから、まだ夕飯時でもなく空いていて良かった〜。端の方がいいかなあ、と以前イデアさんを案内したところと同じテーブルにエペルを連れて行くと、メニューを渡した。
「当店ワンドリンク制なので、決まり次第お呼びください。……なんだけど、エペルは林檎ジュース?」
「うん、そうする。……あ、ありがとうございます」
「はぁい、ごゆっくり」
エペルは紅茶は飲めなくはないけれど、好んで飲む方ではなかったと思うし、エペルのご実家のものには負けるけれど、一応百パーセント果汁の林檎ジュースを勧める。うーん、でもレーズンバターなら紅茶の方が良いのか? すると、コトン、と並々の水が入ったグラスとおしぼりがテーブルの上に置かれたので、誰だろうとそちらを見ると、まさかまさかのフロイド先輩で目を丸くした。
「ありがとうございます」
「どーいたしまして。ナマエちゃんの大事なお友達だし」
「わあ、嬉しい」
「あ、それいーね」
優しい〜と思ってにこにこすると、フロイド先輩の目が細められて、口元が緩んだ。それってどれ? なんのことだろうと片眉を下げるように顔を顰めれば、「変な顔」と言って私の眉間をデコピンしてから、ふらふらどこかに行ってしまった。「それ」ってどれだったんだろう。
「仲良しだね」
「そうでしょう。どうする? レーズンバター……は食べてほしいな。オムライス……も食べてほしい。あ、でも今の時間だけこのケーキがあって――」
「ふふ。待って、ちゃんとおすすめ全部食べるから。……ナマエが接客してくれるなんて、なんだか不思議」
全部って、夕食が入らなくなるし、胃がはち切れるよ。と思ったけれど、エペルって見た目にそぐわずいっぱい食べるからなあ。私だって、エペル相手に敬語を使うのは少し照れくさい。というか、同級生だったらもれなく照れくさい。
エペルはひとまずオムライスを頼んでくれたので、キッチンの方に伝えに行ってはジュースをトレーに乗せた。
「お待たせしました〜。エペルのとこのには劣るけど」
「ううん、ありがとう。ナマエ、楽しそうだね」
分厚いグラスに氷でかさ増ししたジュースをエペルの前に置くと、早速ストローを差してはちゅー、と喉に流し込んでくれた。濃縮還元でごめん。それにしても、楽しそう、に見えるんだ。正直めちゃくちゃ楽しくて、えへへ、とエペルに向けて笑うと、エペルもふんわり笑った。
「入学したばかりの頃、ラウンジがどうのってすごく疲れていたみたいだから……」
「あー、そうそう。ちょっと難しく考えすぎてたみたい。すっごく楽しいよ、エペルもバイトする?」
「あ、はは。遠慮しておこうかな」
「うーん、残念」
入学したときは確かに、めちゃくちゃ大変だった記憶がある。それもまあ、割とこき使われてはいたって言うのもあると思うんだよね。今は寮内でも関係性は良好なのと、バルガス先生のおかげなのか体力もついてきて、それに毎週のリズムが定着しているのもあり、毎日楽しい。エペルにもぜひ体験してほしいけれど、まあ、前のイソギンチャクを見ていたり、それに寮生がだいぶ濃いからなあ。気持ちはわかる。
「なに、グッピーちゃんうちで働くの?」
「残念ながら働いてくれないって」
「えー、絶対アズール喜ぶのに」
「えっ、寮長そんな趣味あったっけ」
というのは冗談で、おそらくエペルもお客様を集められるような容姿をしているからだろう。だったら尚更楽しいじゃん。けれど器用さから、キッチンの方に抜擢されたりもしそうだなあ。ホール映えするのに。
キッチンの方から出来上がったオムライスを受け取ると、ナマエちゃんの親友グッピーちゃんでも容赦なし、フロイド先輩もセットで着いてくるので、一緒にテーブルに向かうと、エペルはフロイド先輩の威圧感にやられているみたいだった。というか、むしろ目が輝いていた。背が高くなりたいって言ってたから、そういうことだろうか。
「お待たせしました。オムライス……だけど」
「美味しそう……!」
「美味しいよ〜。……おまじない、あー……」
「別にやんなくてもいいけど……ナマエちゃんがグッピーちゃんに食べさせたかった理由の一つでしょ?」
エペルの前でやるのかあ。若干気が引ける。しかし、フロイド先輩の言う通り、おふざけ半分ではあれど、せっかくならどれだけ変な目で見られようともやっておいた方が良いよね。とっくにフロイド先輩の手から私の手にケチャップは渡っているし、トラッポラに笑われながらもやったし、大丈夫大丈夫。「I cherish you」と書いた後に林檎のイラストを添えて、ケチャップを横に立てる。それからハートを作って――
「……無理恥ずかしい」
「ウケる。今更かよ」
「無理しなくていいよ」
いやあ、具体的にはなんだか、やたら周りからの視線を受けている気がする。いつもあなたたちにやってるのと同じだよ。嫌とかじゃないんだけど、こう、いつも流れ作業のようにしていたのを改めて友達にするのは恥ずかしい。
けれどするしかない! というか、したい! なんならエペルも一緒にしてほしい! 次第にむくむく違う方の目的が湧いてきて、ハートを作っていた手を組んだ。
「えっ、なに?」
「……エペル、一緒にしよ」
「え、ええ……嫌なんだけど」
「サービスの一環だと思って!」
一生のお願い! と言わんばかりに頭を下げると、フロイド先輩が私のポニーテールをぽんぽんと弄びながら、その流れで何故だかエペルの向かい側に座っては長い脚を組んだ。なんだこの従業員は。
「いーじゃん。やってあげたら? 客相手にこんな照れてるナマエちゃんレアだし」
「やってくれたら安くするし!」
「ちなみにそれはナマエちゃん持ちね」
まさかのフロイド先輩からもお願いしてくれたことだし、これはいけるぞとよりいっそう声を上げてエペルを安さで釣る。まあ、私持ちなのは仕方ない。バレンタインでまさかの出費がなかったし、給料から引いておいてもらおう。
すると、流石にこの圧にやられてしまったのか、エペルが体勢まで押され気味になっては、口をあんぐりさせた。
「しょ、しょうがねぇなあ……」
「ありがと〜。ハート作るだけでもいいから、ね?」
「う、うん」
「ナマエちゃん圧やば」
エペルが仕方なく了承してくれたので、本気でありがとうと手を合わせる。エペルがハート作って萌え萌えきゅんするの、絶対にかわいい。最高にかわいい。けれどこれを言えばエペルはあまりいい気はしないだろうから、とりあえずハートを作れば、小さくて白い綺麗な手で恐る恐るハートを作ってくれた。アクアブルーの瞳はわずかに揺れていて、きっと困惑による揺れなのだろうけれど、すごく絵になる。
フロイド先輩と他のお客様の注目を集める中、店内BGMはあれどすごく静かに感じる中で、すう、と息を吸えば、満を持しておまじないをかけた。
「美味しくなあれ、萌え萌えきゅ〜ん」
「も、萌え萌えきゅーん……」
よくよく考えたらこれ、私がやるのでも相当な罰ゲームじゃん。今までノリノリでやっていたのが馬鹿みたいだ。これからもやるけど。エペルごめん、と思いながらなんとか終えると、恥ずかしさが襲ってきたのか、エペルがちら、とこちらを見ては「もういい?」と聞いてきた。本当にありがとう。本当に。最高にかわいかった。まさか言ってくれると思わなかった。
そう思っていると、辺りからパシャパシャとまばらにシャッター音が聞こえてきて、ハッとしてそちらを見ると、イグニハイド寮生を始めとしたお客様が私たちを撮っていた。無断撮影だ。
「はい今撮ったやつすぐ消して。消さないと絞めんぞ」
「やりすぎやりすぎ。……ごめんエペルありがとう」
「いいけどちゃんと安くしてね」
「もちもち」
まさかこの光景を撮影されるなんて。やっぱりエペル、バイトに来た方が稼ぎになるんじゃないかなあ。はあ、と溜息をついたエペルに、ほんっとにごめん。周りを怯えさせるフロイド先輩を引っ張りながらそう謝ると、サービスで林檎ジュースをもう一杯置いた。