バターと蝋燭

「……来ない」
「来ないんじゃね?」
「こらフロイド」

 店内BGMはかかっているし、音量も何もかもがいつも通りなのに、遠くの壁掛け時計の秒針の音が鮮明に聞こえるような気がする。それくらい、静かだ。それもそのはず、週の中日で繁盛していた店内も、ディナータイムを終えるとガラッと人が減り、特に空いている時間を好む落ち着いた層のみが残っているのだ。確かにすぐには来れないと言っていたけれど、このままではラストオーダーの時間が終わってしまう。人目を気にせずお客様用のソファに腰かけると、フロイド先輩もどか、と横に腰を下ろした。

「ナマエちゃん今日かわいーのにかわいそー」
「えーん」
「よしよし」

 一滴も涙なんて零れないけれど、目元を押さえて嘘泣きをすると、フロイド先輩が長い腕を伸ばして私の頭をぽんぽんと軽く撫でる。人目が気にならないのは、今のお客様の層がこれに慣れているか気にしないかだからだ。しくしく、副寮長のように涙は出せないけれど、あえての棒演技を繰り返すと、遠くで引いて見ていた副寮長がこちらにやって来た。

「間もなくラストオーダーの時間が終わりますが……ナマエさんもアズールも残念でしたね」
「ちょっと」
「どうされました?」
「まだ来ないとは決まってないでしょ」
「来ないって言ってたじゃん」
「現時点の! 状況を述べただけです!」

 確かにもうこの時間になってしまえば来るという可能性はほとんどないけれど、それでも私はクルーウェル先生を信じてる。あの完璧な男が、そもそも約束を破るはずがないし、なんとしてでも来てくれるはずだ。というのは、私の願望でもあるけれど。
 とはいえ、やはり願望は願望止まりだ。営業終了後に出てくる副寮長の紅茶。私の知り合いが何人か来たこともあり、繁盛したからか、まだ閉店していないのに私を労うように喉を通る。

「……でも、エペルもリドル先輩も来てくれたし」
「ナマエちゃん、嬉しそうだったねぇ。金魚ちゃんも喜んでたし」

 いやあ、フロイド先輩のダル絡みで結構迷惑がってたと思うけれど、あれがフロイド先輩の目線から見た「喜んでいる」ならば、そういうことで良いだろう。開店前にさり気なく手首や首裏に振り直した香水は、時間が経って丁度良い香りへと変化していた。甘くて、さっぱりした、私にとっては背伸びしていない香り。

「裏返しますよー……」
「ええ、仕方ないことです。期待させた分、来たときは多めに払っていただきましょう」
「クルーウェルめ……」

 忙しいのは仕方ない。しかし、乙女の気持ちをこうして弄ぶなんて、とんだCruelだ。なんなら明日は昼食くらい奢ってもらおうかしら。

 頬を膨らませながら、入口付近に設置してある看板の前の札を『ラストオーダー終了』へと裏返そうとしたときだった。忙しなく扉が開いて、チリンチリンと何度もベルが鳴る。反射的に、以上に反射的に扉の方を向くと、今まで見たことない、クルーウェル先生。

「はぁ……もうラストオーダーの時間は終わったか」
「先生! えーっと……」
「これはクルーウェル先生。いえ、ギリギリでしたよ。さあ、お席にご案内します」

 時計をちらりと見ると、ギリギリラストオーダーの時間を過ぎていた。こういったことに厳しいのは寮長や副寮長だし、フロイド先輩なんてまだ時間中なのに「はいしゅーりょー、残念また明日」なんてにこにこと閉め出すくらいなのに、今日は流石オクタヴィネル寮生、といったところだった。
 ほんの少し息を切らして、コートを手に持ち、額にセットした髪を少しばかり張り付けたクルーウェル先生は、大人の男の人だ。寮長が直々に席までご案内しているのをどうしてだかぼうっと眺めていると、フロイド先輩に軽く肩を押された。

「ほーら、ライカちゃんのだーいすきなおじさん来たよ」
「ふ、ふふふ」
「なに、ちょっとキモイ」
「嬉しいんです」

 約二ヶ月だ。その程度の短い期間だけれど、体感はもっと長かった。いや、エペルのことはもっともっと念願だったし待っていたけれど、それでもクルーウェル先生のためのメニューだってあるくらいだし、うん、嬉しい。ていうか、キモイは酷くない? 振り返れば背の高いフロイド先輩が私を見下ろしていて、金色の瞳が「早く行けって」と言っているようだった。
 いひひ、と笑えば、フロイド先輩は無反応で、今度はもう、と頬を膨らせてから、二、三人がけのソファに腰かけるクルーウェル先生の元へと歩み寄った。

「先生! いらっしゃいませ」
「ミョウジ。行くと言っておいて遅くなってしまって悪かったな」
「ほんとですよ。待ってた。忙しかったの?」
「ああ。……予想外に残業がな」
「お疲れ様です」

 副寮長がお水とおしぼりをテーブルに置くと、早速クルーウェル先生はぐっと喉に流し込んだ。やっぱり、約束は守ってくれるんだ。いつもかっこいい先生の額に滲むわずかな汗までも素敵に見える。珍しい、少し崩れた先生の姿に見惚れてしまっていると、氷をカランと鳴らしながら視線を流した先生とばっちり目が合ってしまい、照れくささからさっとメニューを広げて、先生の前に提示した。

「先生、オーダーお決まりでしたらお伺いします。レーズンバターは召し上がりますよね?」
「もちろんだ。後は特に決まっていないが……何かおすすめは?」
「夕食はまだですか?」
「ああ、昼から何も食べていない」
「じゃあぺこぺこだ」

 といっても、私たち従業員も今日は忙しくて先程少し添え物をつまんだくらい。まあ、先生とは忙しさが段違いだろうけれど。まだ週の真ん中なのに疲れた顔をしているクルーウェル先生の横に立って、まずはドリンクを伺うと、紅茶を選んでくれたので、胸の中でガッツポーズ。副寮長の紅茶、飲んだことあるのかなあ。

「私のおすすめはオムライス……だけど、先生召し上がります?」
「ん? ああ、おすすめならぜひいただこう」
「わぁい。あとは、サラダとか付いてないからそのあたりで一品と……デザートも決められます?」
「そうだな……ではバニラアイスを」
「かしこまりました」

 やりい、オムライスだ。時間が時間なのもあって、がっつり食べてもらうとか、財布の底を突くくらい搾り取ることはできないけれど、これだけ頼んでもらえればまあまあ上出来だ。サラダとはいえ、それなりのお値段はするわけだし。さらさらとオーダーを書き留めて、私の後ろについていたフロイド先輩に手渡しすると、「承りましたぁ」と言って厨房の方に消えていった。
 本来ならば、もうとっくにお客様は帰っている時間だ。ラストオーダーまでいる人はそもそも少ない。後片付けに取りかかれるはずの時間なのに、寮生たちは今からお料理に取りかかってくれるそうで、申し訳なさから手伝いにいこうかと思ったけれど、それを引き止めたのは大きなわんちゃん。

「知ってはいたが、随分と馴染んだようだな」
「先生、うちの担任より私のこと気にかけてくれてますよね。今日ね、エペルやリドル先輩たちが来たの。嬉しかった」
「ほう」
「セベクやシルバー先輩も誘ってはいるんだけど、なかなか……」
「ジグボルトか。……あいつがここに来るところは想像がつかないな」

 うぐ。確かにその通りではある。そもそもそんなに汗をかかない体質なのであろう、クルーウェル先生の額からは完全に汗が引き、いつも通りの余裕そうな表情で水をクイッと飲む。来たときにそれなりに飲んだおかげで半分以下になったらしいので、ピッチャーから水を注ぐ。

「先生、今日……私かわいいでしょ」
「なんのことだ」
「んー……なんでもない。準備してきまぁす」

 今何時間も働いた後だからもう色々残念になってしまっているかもしれないけれど、今日はそれなりにかわいい。髪はポニーテールにしてもらったし、メイクもいつも通りかわいい。それに良い匂いがするので、かわいい、と思うんだけどなあ。自画自賛のための勇気は、泡となって消えることになった。
 まあ、クルーウェル先生のことだし、わざわざ褒めることはないだろうと肩を落としてキッチンの方へと向かうことにした。のだけれど。

「そういえば」
「んー……?」

 今度はなんだ? 次の授業の話か、今日の錬金術についてか、ラウンジの状況についての口出しか、まあ、クルーウェル先生が来てくれて最高になった気分がこれ以上上がることはないだろう、とゆっくりゆっくり踵を返せば、長い脚を組み直しては光沢のある銀色をこちらにゆっくり、ゆっくりと向けた。

「ポニーテールは珍しい。よく似合っている」
「……ひぃ」

 このおじさん、わかっている。上がることのないと思っていた気分は限界突破、心拍数と共に上がる、上がる。まるでどこかの寮長さんみたいな反応しかできなくなってしまった私は、やはり余裕そうなクルーウェル先生に対して口を金魚のようにパクパクとさせて、軽く会釈をしてから早足で裏に消えることしかできなかった。

 ◈◈◈

 居酒屋か、ここは。

 イデアさんがいつか私に「オクタの姫」と言ったのはあながち間違いではなかったらしく、寮生たちはクルーウェル先生のため――もとい私のために声を張り上げていつにもなく急いで料理を作っている。それも、「オムライス入りましたーっ!」「っしゃー!」「あざーっす!!」のノリで。あまりモストロ・ラウンジとしては好ましくないノリだ。

「あなたたち、手際が良いのは結構ですが、雑にならないように」
「はい!!」
「まったく……」

 ガチャガチャ、トントン、色々な音がそれはそれは賑やかにリズミカルに奏でられていく。まあ、変にゆっくりゆっくり作りすぎても私たちも明日は学校だもんねえ。
 まずはワンドリンク。蒸らし終わった紅茶がトレーに乗っかったので、それを零さないように、クルーウェル先生の待つテーブルへと運んでいく。

「お待たせいたしました。こちらストレートティーになります。お砂糖などお好みでどうぞ」
「ありがとう」
「……うーん、やっぱりちょっと照れる」

 トラッポラやエペルの前で接客するのすら照れるのに、いつもお世話になっている大好きな先生の前なんて尚更だ。むーん、口を尖らせると、クルーウェル先生は小さく笑った。あ、その顔もかっこいい。忙しそうにしている寮生のことはこの瞬間ばかりは忘れながら、ベンチソファに腰かけては頬杖をついた。

「先生来ないと思ったよ、本当に」
「すまなかったな。予定ではあと二時間ほど早くは来れる予定だったが」
「若いのに大変ですね」
「俺よりひと回り以上若い仔犬が達観した物言いを」
「先生がおじさんなのを隠さないの、すっごく好き」
「何か言ったか」
「いいえ、何も」

 先生がおじさんなのは私たちの年代から見た場合、だし、年齢だけがおじさんでクルーウェル先生の価値観やらは若い。なんなら流行への敏感さは私たち生徒に引けを取らない。ポムフィオーレ寮生と新作コスメで盛り上がっているところを、さり気なく液晶を覗き込んでは「ああ、新作か」なんて言ってくるくらいだし。
 そうして話している間に、サラダやスープが運ばれてきて、ああ、そろそろかとキッチンの方に行くと、今日はフロイド先輩が直々にオムライスを作ってくれているみたいだった。

「うわあ、ふわふわさがレベチだ」
「当たり前じゃん、オレが考えたんだし」

 焦げ目なんてまるでない。高級ホテルのシェフ並の腕前をお持ちらしいフロイド先輩は、さも当然のようにふわふわ卵を仕上げる。洗い物の仕事も終わった寮生たちも歓声を上げる。私はケチャップとアレだけが担当だから、作っているところをじっと見たこともあまりないけれど、作れるようにはなってみたいなあ。
 その薄らとした願望が眼差しとして伝わったのか、フロイド先輩は横目で私を優しく見てから、息を洩らした。

「いつでも教えたげるって」
「え、ほんとに?」
「ほんとほんと。……はい、でーきた。ほら、イシダイせんせぇのとこ行こーぜ」
「早い〜! 行きましょ行きましょ!」
「目に見えてルンルンじゃん、うける」

 そりゃあ、クルーウェル先生の魔法か何かのおかげだろう。疲れは吹き飛んだ。周りの寮生たちは、「相変わらず我儘な……」なんて目で見てくるものだ。まあ、学生の間は、一年生の間は許してほしい。
 かわいいティーカップに入った紅茶を口に運んでいるクルーウェル先生は遠くから見ても優雅で、ケチャップを持ってそちらに向かうと、私とフロイド先輩、二人で来る様子に眉をひそめていた。

「お待たせいたしましたぁ」
「これね、すっごく美味しいんです。……先生、犬好きですか?」
「確かに美味そうだが……唐突だな」
「何の絵描こうかな〜って思って」
「そういうサービスか」

 そういうサービスです。ふんふん、鼻歌を歌いながら、初めて描くダルメシアン。だったのに、描いてみればただのシマウマになってしまった。描き上がってから、何かが違うなあ、と違和感を抱いたのだけれど、私自身ではその答えには辿り着くことができなかったので、不思議に思っていると、双方から声が飛んできたわけである。

「いや、ダルメシアンはそんな柄じゃねぇし」
「そもそも体型から違うと思うが」
「てかダルメシアンはそこに毛そんな生えてねぇし」
「どうして無理にリアルに描こうとした」
「オーバーキル……」

 確かにデフォルメで描けば良かった。海出身の、陸歴たった二年のフロイド先輩よりも陸の生物の生態に詳しくないだなんて、なんという失態。デフォルメで描くにしても何にしても、クルーウェル先生が来るというのは前々から確定事項であったし、オムライスを無理にでも頼ませるのも決まっていたことだったので、その頃から練習しておけば良かった。というか犬好きな先生がシマウマコートを来ているのが罠じゃないか。

「では、いただくと――」
「あ〜、ダメダメ。ダメでぇす。魔法かけないと」
「魔法?」
「ほーら、ナマエちゃん」

 先生がスプーンを持ち、ケチャップはぐちゃぐちゃにせずにぷるふわオムライスを崩そうとしたところを、フロイド先輩が阻止をしてくれた。そうそう、今日何度目かのこれが本題だ。なんなら、クルーウェル先生のために練習してきたといっても過言ではない。頭の中で、寮長の「過言ですよ」という声が聞こえた。
 ちらり、キッチンの方を見遣ると、今日シフトに入っている全寮生がこちらを覗いているようだった。わかるわかる、皆クルーウェル先生の反応、気になるよねえ。こほん、と咳払いをして、緊張と興奮で速くなる鼓動を感じながら先生の前にハートを作れば、先生は嫌な予感を汲み取ったのか顔を歪めた。閉店間際、貴重にもまだ残っている他のお客様も、気になってこちらを見ている。さあ、いくのよナマエ。

「美味しくなぁれ、萌え萌えきゅ〜ん!」
「……」
「……」
「…………ハァ」
「……えっ」

 決まった。今世紀最大のかわいさが凝縮できた。声のトーン、テンポ、表情管理、すべてが完璧だった。のに、目の前のお綺麗な男性は、頭を押さえて深く溜息をついた。どんな姿でも様にはなるけれど、その反応は私的には本当に本当に傷つくというか、なんというか、滑ったようで。フロイド先輩と顔を見合わせれば、先輩は口角を上げるだけだ。オムライスにスプーンを入れたクルーウェル先生はそれを口に運ぶと、こちらをじっと見た。

「……仔犬たちがやたらとオムライスを支持していたのはこれが理由か」
「あら、そんなに好評でした?」
「てかそれ酷くね? 味も超美味いけど?」
「それは文句なしだが、どうしてリーチ弟がミョウジの横についているのかと思えば……なるほどな」

 そう言うと、また溜息をついた。ああ、幸せ逃げちゃう、吸わないと。味は本当に美味しいらしく、手と口は動いており、合間合間に言葉を紡ぐ。

「まあ、懸命な判断だな」
「でしょ?」
「なんでナマエちゃんが得意げなわけ? 発案はアズールだし」
「まあオクタヴィネル全体の手柄ということで……」
「しかし、いくらガードが固くなったといえそのあたりはしっかりするんだな。ミョウジも調子には乗るな」
「わかってます」

 あの一件から、色々ガチガチになった。だから、私が一人の時間は寮にいるとき以外はほとんどなくなったし、そもそもマレウス・ドラコニア以外の寮長と接点がある時点であまり変な考えをもつ人間は近寄らなくなったわけだけれども。ある意味で自由が奪われていないこともないけれど、変なことに巻き込まれなくなるのはありがたい。

「まあ、それがモストロ・ラウンジの収益ならば俺からは何も言うことはないが」
「収益です」
「シュラウドもたまに通っていると聞くが……なるほど、これか」
「そーそ。ナマエちゃん来てからすげー売れんだよ」
「オルトがイグニハイドの引きこもりも外に出るようになったって」

 接客なんて忘れて、ベンチソファなんかでなく、普通にお客様用のご立派な三人がけソファに、先生と向かい合うように座って談笑をしていると、クルーウェル先生は私とフロイド先輩を交互に見てからわずかながら目を細めた。

「お前たち二人もどうなるかと思ったが、今は特に問題なさそうだな」
「……あのときはありがとうございました」
「見ての通りちょー仲良し、心配しなくてもだいじょーぶ」
「リーチ弟とミョウジの性格だとまだまだ不安だが」
「弟じゃねぇし」

 本当に、先生には迷惑をかけた。お互いに担任でもない、顧問でもない、ただ理系教科を受け持っているだけの関係で。深く頭を下げる私とは対象的に、これまた長い脚を組んだフロイド先輩は、仲良しアピールなのか、肩を抱いた。
 それから、クルーウェル先生も上品ながらやはり男の人。オムライスを食べるペースの早いこと。決して汚い食べ方ではないのに、もうお皿はパセリのみになっていた。はあ、と感心していると、かつかつと靴音と杖の音を鳴らしながら登場した寮長は、眼鏡を光らせた。

「こらあなたたち。何をサボっている」
「げ」
「『げ』じゃない。……さてクルーウェル先生、そろそろデザートをと思いまして。アイスクリームとレーズンバターを」

 半年前の私ならばビクビクしていただろうに、とっくにオクタヴィネル寮に染まりオクタヴィネル寮のことがわかってきた私は、フロイド先輩と足取り重く退散するだけだ。しかし、『レーズンバター』の単語を聞けば、ソファから立ち上がりそのまま締め作業の準備を始めようとした私は、再びソファへと引き戻された。
 カチャリ、音を鳴らしてテーブルに置かれたレーズンバターとアイスクリームを見た先生は、口端をほんの少しつり上げて、寮長たちの方を向く。

「ああ、ありがとう」
「紅茶のおかわりはいかがなさいます?」
「ぜひお願いしよう」

 一年生のレシピが採用されることなんてそうそうない。それどころか、レシピやメニューを提案する人すらいないので、尚更だ。綺麗な楕円にまだら模様の入ったレーズンバターはそれこそダルメシアンみたいで、今日の接客の合間を縫ってお手伝いした甲斐があった〜。
 しかし、舌の肥えたであろう、それも好物のレーズンバターのことになると殊更であろうクルーウェル先生の反応を見るのは楽しみより緊張が勝るもので、バクバクと心臓を鳴らしながら先生がレーズンバターを口に運ぶのを見る。バニラアイスと合わせれば、確かに美味しそうだけれど、先生ならばお酒の方が良かったかしら。そもそもカフェなのでお酒はない。色々な煩悩を始めとした考えが頭の中をぐるぐる。耳の中に心臓があるみたい。先生はゆっくりと咀嚼して、目を伏せて、長い睫毛を揺らすと、おかわりの紅茶を口に流し込んだ。

「美味いな」
「!」

 にっと口角を上げたクルーウェル先生は、未だ客のようにソファに座り、客とは違い背筋をぴんと伸ばした私に向かってそう言った。

「ミョウジ考案だったか?」

 それから続けて、もう一つを食べては無言で頷く。それを見る私の身体はもちろん嬉しさによって震えてしまっていて、フロイド先輩は他人事のように「良かったじゃん」と腕を組んだ。半分くらい、半分以上はフロイド先輩のおかげなんだけど、それどころではない。

「ほ、ほほほ本当に!?」
「俺が嘘をつくと?」
「いや……ないからこそ疑ってるんです」
「よく研究してある。今まで食べた中で一番とは言わないが、とても美味しい」

 クルーウェル先生からのお褒めの言葉は、授業中でもテストのことでもなんでも嬉しいのに、私の提案したメニューにすらくれた。それも、今まで高級なレーズンバターを幾度となく食べてきたであろうクルーウェル先生が、購買にある普通の材料で作ったレーズンバターに対して、だ。いやあ、私の腕様々だ、と言いたいところだけれど。

「フロイド先輩がたくさん手伝ってくれて」
「ナマエちゃん頑張ってたんだぁ。大好きなおじさんが来るから〜って」
「捏造です」

 頬をつんつんしてくるフロイド先輩の手を払い除けるように手を振り回せば、それはただ何もない空間を切るに終わった。クルーウェル先生はフロイド先輩の言葉で一瞬こめかみをぴくっとさせたものの、仕方なさそうに息をついては、優しく息を零す。

「テイクアウトはやっていないのか?」
「残念だけどうちやってないんだぁ。アズール、どう?」
「ええ、申し訳ありませんが。しかしまた検討しておきます」
「んふふ」
「にやけすぎ」

 いやあ、だってねえ。社交辞令でもない「美味い」に引き続きテイクアウトをご所望だなんて。にやにやするしかないでしょ。ゆるゆるの頬を手で押さえながら、ラムレーズンのアイスクリームも作ってみる、だとか、そろそろ眠くなってきた、だとか会話をしていると、そろそろ寮生がうんざりしてきた頃だったので、切り上げることとした。ほんっとうにごめん、皆。

「遅くなってしまってすまなかった。明日はオクタヴィネル寮生は当てないことにしよう」
「っしゃー!!!」

 さっきまでの、「クルーウェルとミョウジ早くしろよ」ムードから一転。席から立ち、暖かそうな毛皮コートを羽織った先生が言い放った言葉に寮生が歓喜する。今度は私に「いい加減にしろよ」の目を向けていた人たちが、「良い仕事したな」という視線を向けてきた。手のひらくるくるだ。
 しかし、皆が歓喜する中、顔を歪めてショックを受けている者が一人。

「なんだって! 明日の範囲は完璧なのに!」

 うげえ、と舌を出すフロイド先輩と、眉を八の字にする副寮長。そんなオクタヴィネル寮生を横目に見ながら、私がご勘定をとカウンターへと移動して、そこまでは搾り取れなかったなあ、と伝票と睨めっこする。カード払いをした先生は、当てられないということにお祭り騒ぎの成績上位寮生たちを眺めては仕方なさそうに、どこか柔らかい笑みを向けてから、私の方を向いた。

「ミョウジ」
「はい」
「お前が楽しそうで良かった」
「……ふふ」

 私も、先生が来てくれて良かった。ずっとずっと待ってた。手を握りしめたいし、抱きつきたい衝動はもちろん押さえながら、代わりにじんわりと温かくなったような自身の胸を押さえて、手を組み替えては頭を下げる。

「では先生、お気をつけて。またのご来店をお待ちしております」
「ご馳走様。良いひとときだった」

 先生が踵を返せば、大人で、男の人。そんな香りの乗った風がふわっと漂った。ハイテンションだった寮生たちも頭を下げて、チリリンとベルが鳴り止むと、片付けに取りかかる前にまた辺りは喧騒に包まれる。それでも未だ心に灯った火は消えないようだった。
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