一度教室に教科書やらを置きに行ってから、エペルと食堂へ向かった。もちろん食堂でも、お昼休みにも人と会うことを考慮して、新しい紙袋を手に提げながらだ。相変わらずだな、という周囲からの声に、当然です、と鼻を鳴らした。封筒にも何も入れずに渡されたアフヌンチケットは、近くの席のポムフィオーレ寮生にレターセットを借りることで丁寧に保管することに成功した。
「クルーウェル先生何くれるんだろ。めっちゃ楽しみ」
「うーん……でもすごく良いものくれそうだよね」
「はっ! まさか婚約指輪!」
「またそんなこと言って……」
焼きたてのパンの良い香りにぎゅるる、という音を大きく鳴らしては、食堂の外まで伸びそうな列に並ぶ。これが授業中、特にトレイン先生の授業だったならば、公開処刑となっていたに違いない。実際私を含めた何人もが、お昼前の魔法史の授業でそういった辱めを受けているのだから。
それも仕方ない、今日は麓の町から有名ベーカリーが来ている日。紙袋を提げながらこの列に並ぶことに、なんだかデジャブを感じて、うーんと唸る私にエペルは首を傾げた。なんだったっけ。あっ、丁度一ヶ月前のバレンタインと同じだ。悩んでいたかと思いきや、その謎が解消されていきなり晴れやかな顔になったであろう私の百面相を、エペルは口もとに手を当てて笑った。
「所作、綺麗になったよね」
「え?」
「なんか、やらされてる感がなくなった」
「そう、かな?」
エペルが綺麗になった。VDCが終わったあたりか、その少し前からなんとなく思っていた。前までは制服のネクタイをリボンにするのも嫌そうで、座っているときの姿勢だって思いきり脚を開いては、ハッとしたように閉じて、少し気を抜くとまた開く。そしてヴィルさんに指摘される度に、男らしくない、と不満を零す。そんな感じだったのに、今では指先まで気を遣ったような所作をしていて、半年前とは見違える程だった。
「僕のこの見た目を活かすのも悪くないのかなって思って」
もちろんサバナクローは憧れだし、ムキムキになりたいけど。そう言って笑うエペルは、見惚れてしまうほど綺麗で、後ろから声をかけられるまで、列が少し進んでいるのに気がつかなかった。
前々から思っていたけれど、エペルに筋骨隆々なのは似合わない。エペルの憧れはハウルだったはずだけれど、とても顔のかわいらしさとはアンバランスさが生まれてしまう。エペルはサバナクローみたいな明らかなムキムキより、ヴィルさんみたいな綺麗な鍛え方の方がい似合うのだ。
「エペルがこれからどうなるか楽しみだな〜」
これからのエペルの成長を想像しながら、鼻歌混じりにそう言うと、間もなく先頭が見えてきた。もうほとんど売り切れたかしらと思えば、意外とそうでもなく、ラスト一つのフォンダンショコラパンが目に入る。すごく美味しいのは、もちろんその名前だけでも想像がつく。それに加えて有名ベーカリーのパンだ。ひと目見ただけで、もう完全に口がフォンダンショコラになってしまった。今まで見たことのないパンだったので、バレンタインだからかな? と思ったけれど、今日はホワイトデーだった。じゃあ冬季限定かなと思ったけれど、三月は冬季とは言えないし、少し考えてから、考えるのをやめた。
「フォンダンショコラってだけでなんでも食べたくなるよね」
「そうなの?」
「女の子だけなのかな」
フォンダンショコラ、フォンダンショコラチュロス、フォンダンショコラドーナツ……どれも名前だけでよだれが出ちゃうくらい美味しそうなのに、エペルはそうでもないらしい。ミドルスクールのときから女友達はカラオケでもフォンダンショコラを必ず食べていたから当然だと思っていたけれど。いや、それでもラスト一個になっているということは、それなりに人気に違いない。
あと三人、あと二人と列が進んでいく。フォンダンショコラパンと、あとは何か惣菜パンにしようかなとオープンラックを覗く。もうすぐだ! そう思ってフォンダンショコラパンに目を遣ると、最後の一つが綺麗になくなっていた。
「えー!!!」
「うわっ、びっくりしたじゃねぇか! どうしたんだナマエ」
「フォンダンショコラパンが……」
ちらりと前の人を覗くけれど、手に持っているのはホットドッグとメロンパン。どこで消えたんだろうと思えば、そのもう一つ前のハーツラビュル寮生がわかりやすく美味しそうな茶色くて丸いパンの入った袋をひらひらさせた。紛れもなく、私が目をつけていたフォンダンショコラパンだ。
「後ろからフォンダンショコラフォンダンショコラって言われたら俺もその口になっちまってよ」
「ショックー! そこはレディファーストにしませんか!」
「嫌だね! 連呼してた自分を恨むんだな」
なんて性格の悪い! と思ったけれど、実際後ろにラスト一つのドーナツやホットスナックを欲しがっている人がいたら私も遠慮せずに取ってしまうだろうと冷静に考えては、悔しくて唇を噛んだ。前のハーツラビュル寮生こそ、この学園の生徒のあるべき姿だし、そもそもこういうものは早い者勝ちだし、とわざとらしく背を丸めて、サンドイッチとミニあんパンを手に取って会計をした。
機嫌が戻るわけもなく、ぐずぐずと泣き言を言いながら空いている席に移動していると、視界にビスケットブラウンが飛び込んできた。
「あらら〜、可哀想に」
どうやら一部始終を見ていたらしい、腕いっぱいにパンを抱えたラギーさんは、どう見ても「可哀想」なんて思っている様子もなく、耳はピンと主張しており、表情筋も緩みきっていた。こっちの気も知らないで! この人もやっぱり性格が悪い! と思ったけれど、この学園で性格が良いに分類される生徒は片手で数えるほどしかいないことに気がつき、またしても反論する気力が削がれた。深く溜息をつくと、ラギーさんが軽く顔を覗き込む。
「フロイドくんに作ってもらえばいいじゃないッスか」
「できると思うけど……せっかくだし食べたかった」
だってあの有名ベーカリーだよ、口の中がとろけるくらい美味しいに決まっている。それにフロイド先輩がフォンダンショコラパンを焼いてくれるとして、もしフロイド先輩が私のために超本気を出してしまった場合、このベーカリーのフォンダンショコラパンの美味しさを超えてしまう可能性だってゼロじゃない。もしそうだった場合、「あれ、フロイド先輩のやつの方が美味しい」なんてことになってしまえば少し気まずい状況になってしまう。
きっと私が獣人族ならば、今頃耳も尻尾もとてつもなく垂れ下がっていたに違いない。残念だけど席に向かおう、そのような視線をエペルに向ける。エペルが小さく頷いて、歩みを始めたところで、シシシッと息だけで笑う音が聞こえた。
「じゃあこれあげるッス。オレ、まだ口つけてないんで」
そう言ってラギーさんは、腕いっぱいに抱えたパンの山から茶色くて丸くて、上にアーモンドスライスがトッピングされたパンを出してきた。それって、もしかして、もしかしなくても、今の私の気分を一番上げてくれるフォンダンショコラパン! おそらく生気がなくなっていたであろう目に光が宿ったのか、それを見たラギーさんはまたシシシッと笑った。
「えっ! ほんとに!!」
「やだなぁ、嘘つくように見えます? はい、どーぞ」
そう言うとパンが差し出されて、紛れもなくどこからどう見てもあのパンだったので、何度もお礼を言いながら、鼻にそれを近づけて甘い香りを楽しんだ。以前監督生やグリムが、ラギーさんのユニーク魔法は怖いだのデラックスメンチカツサンドがどうだの言っていたのを聞いていたため、いったいどういう風の吹き回しだろう、と考えていると、ラギーさんは壁にかかった時計に目を遣っては「げ」と声を出した。
「じゃ、ハッピーホワイトデー!」
「あ!」
ラギーさん片腕にたくさんのパンを抱えて、私たちに軽く手を振りながら食堂の外へと早足で向かう。なるほど、あのときのツヤツヤチョコレートのお返し代わりに、この手のひらサイズのパンを。たった今、困っている私を見て思いついたのであろうけれど、それにしては、とても嬉しいお返しだ。もう背を向けてしまったラギー先輩に届くように、この賑やかな食堂でも負けないくらいの大きな声でお礼を言うと、ラギー先輩のかわいらしいお耳がこちらを向いた。
◈◈◈
「うわ美味しい」
「すごい、チョコレートが溢れてきてる」
「手汚れちゃう、ナプキンナプキン」
無事にゲットできた――ラギーさんに貰った小さなパンを、すぐに食べきってしまわないように少しずつ食べていく。ひと口目では普通のチョコレートの蒸しパンのようだったのに、ふた口目で、とろりとしたチョコレートが姿を現した。間違いなく、フォンダンショコラだった。チョコレートも濃厚で、いくらでも食べられるなあ、と考えながら、口の周りが汚れないように慎重に食べ進めていく。
すると、エペルしか映っていなかった視界に、挙動不審な影が揺れた。
「ん?」
「どうしたの?」
一人だけならば、席を探しているだけなのかな、と考えて無視するところだけれど、それは三人……と一匹のこの学園でも有名な影だったので、思わず目を細めた。エペルもその様子に振り返ると、髪がふんわり揺れて、優しい香りがした。
端正な美少女のような顔立ちが目立ったのか、その中でもテラコッタの彼が、こちらを見て、手を振った。ところで、挙動不審な影は、どうしてだかその中でも一番背の高いスペードだった。トラッポラの様子に気がついた三人もこちらを向いて、空いている席ではなく、私たちの方に向かって歩いてきた。
「おーい! ナマエちゃん、エペル!」
「どうしたの?」
「探してたんだよ。なぁ?」
「あ、ああ」
トラッポラが率先して話しかけてきて、なぜだかスペードに同意を求める。スペードが、私たちを? なんだろう、と一瞬考えて、頭をフル回転させるまでもなく、彼の様子を見ては、きっとホワイトデーだろうなと思って、きょとんとした表情を浮かべた。私の表情管理能力はヴィルさんにも劣らないかもしれない、なんて。
「何か用?」
「えっと――」
トラッポラに肩を組まれたスペードの視線が私と合うことはなく、宙を彷徨わせて、すう、と大きく息を吸い込んだところで、また違った灰色の塊が目の前に飛び込んできた。
「ナマエー! こないだのチョコレート、美味かったんだゾ! これ、お礼のツナ缶」
「これもどうぞ。ミステリーショップで買ったチョコレートだよ」
「わあ、ありがとう〜」
結構色々な人に餌をまいた甲斐があった、とグリムからのツナ缶三つと、監督生からのキャンディのように包まれたチョコが詰められた箱を貰った。当分夜のお菓子には困らないから嬉しいなあ。そう思いながら紙袋にそれらを入れていると、監督生がこそっと耳打ちした。「グリム、相当奮発してくれたんだよ」だなんて言われると、そのアザラシちゃんがかわいく見えてきて、ありがとう、と頭を撫でた。ごわごわとふわふわの間の触り心地が気持ちいい。グリムはやめるんだゾ、と目を細めて手をバタバタさせた。
それから、先ほど遮られてしまったらしいスペードのことを監督生とトラッポラ、エペルまでもがじっと見つめていたので、私も小首を傾げて言葉を待った。私相手に何をそんなに緊張することがあるのだろう。
「これは僕から……んん゛っ」
「ふふ、落ち着いて」
やっとのことで絞り出した声が予想外にも掠れていたらしく、咳払いをする。それについ笑みが零れてしまったのもつかの間、透明なガス袋に入った、形が良いとはいえないクッキーが差し出された。アイスボックスクッキー、かな? ラッピングもどこか不器用で、失礼ながら売り物とはとても思えないので、目の前のネイビーを反射した黒髪の彼が作ったに違いない。堂々としていれば良いのに、反応が気になるのか、そわそわしている様子だ。
「作ったの?」
「ああ。トレイ先輩に教えてもらいながら……不格好だけど、味見もしたし味は大丈夫! だと思うが……」
「自信なさげなのうける。ありがとう、嬉しいよ」
トレイさんのお菓子は食べたことがないけれど、リドル先輩やハーツラビュル寮生の話を聞く限り、とてもお菓子作りが得意らしいので、トレイさん監修なら間違いないだろうと受け取った。スペードからの手作りなんて、もしかするとレアかもしれない。というか、今日一日で手作りを貰うのが初めてだったから、素直に嬉しかった。それも紙袋の隅っこに寄せてから、手を合わせて軽く謝罪をした。
「ごめんね皆、あんな大変な時期に渡しちゃって」
「いや、まったく問題ない。チョコレート、すごく美味しかった」
「それが聞きたかったあ」
もっと崇めよ、とでも言うように両手で自分のことを仰ぐと、その場にいた四人と一匹が笑ってくれた。
そうこうしている間に、この後はわざとらしく三年生の教室あたりをうろうろするという予定があるため、急いで残っていたフォンダンショコラパンを口に入れる。もちろん、汚れないように丁寧に。トラッポラが「そんなんあったの!?」と羨ましがっていたけれど、残念でした、と勝ち誇ったように無事に平らげた。そこからは時間勝負。わざわざ教室まで行かなくとも、律儀に三年生たちは私の教室まで来てくれることも考えたけれど、待ちきれなくて、教室に向かうことにした。急いでいるため、上品さの欠片もなく、パンの袋を手の中でぐちゃぐちゃと丸めた。
「じゃあ皆、ありがとうね! エペル、着いてくる?」
「ううん、僕は教室に戻ってるよ」
「わかった。また後でね」
「じゃあねーナマエちゃん」
紙袋を手に持って、時計に目を向けて、少し早歩きで皆に手を振っては、食堂を後にした。
最後にトラッポラが声をかけてくれて、そういえばトラッポラに限ってお返しがないのは予想外だったなあ、なんて考えながら階段を上る。息を切らして、それを隠すように早足で向かっていると、ジャケットの中でピコン、と音がしたため、スマホを取り出すと、マジカメに一件のメッセージが来ていた。
『また後で渡す』
その送り主は誰でもない、エース・トラッポラ。これまた予想外で、つい足を止めてしまい、目をぱちぱちさせる。状況を呑み込んでようやく、思わず大きな笑いが零れてしまった。
「あははっ、本命じゃん」
不思議なことに、少し軽くなった足取りで、三年生の教室に向かった。