「おお、ナマエ」
流石は私、ナイスタイミング。丁度通りがかったところでお手洗いから出てきたリリアさんは、セベクとは反対に、洗った手をハンカチやハンドタオルで拭くことはせずに、周囲に撒き散らすように手を振っていた。通常ならば不快感を抱くであろうその行動は、リリアさんの愛らしさもあり、かなり緩和されていた。
彼は手袋をはめ直しながら、美味しそうなラズベリーの瞳を二回、三回とぱちぱちさせて私を見ると、はて、とかわいらしく首を傾げた。
「一人でこんなところまで何用じゃ? 誰か探しているなら呼んでこよう」
「あ! それが……」
私もそこまでがめつくはない。先輩相手に「バレンタインのお返しください!」なんて言うほどではないし……いや、本当は言いたい。がめつくない、ではなく、がめついと思われたくない、が正解である。でも言わなければ、私がここにいる意義がわからなくなってしまうだろう。もしかすると今まで会ってきた生徒たちが律儀だっただけで、お返しを用意していない可能性だってあるし。けれど、リリアさんはチョコレートケーキを振る舞ってくださるという話だったし、密かに楽しみにしているんだよねえ。
ううーん、と唸っていると、リリアさんが私の提げている紙袋の中を覗き込んでは、まん丸の目を更に丸くした。
「なになに、ツナ缶にチョコレートにクッキー……。おおそうじゃ。わしも今日はバレンタインデーのお返しを持って来たぞ」
「ええ! 嬉しい!」
思い出したかのようにお返しをくれると言ったリリアさんに、つい食い気味に返事をすると、目を細めてけらけらと笑った。うわあ、恥ずかしい。
「なんじゃ、それが目当てなら早く言えば良かったのに」
「えへへ、ちょっと厚かましいかなって」
「なに、遠慮することはない。少し待っておれ」
相変わらずのエペルとは違ったかわいらしい笑顔を向けると、これまたかわいらしく小走りで、自分のクラスへと向かって行った。ジャケットがふわふわ揺れる。あれ、どうやって羽織った状態でキープしてあるんだろう。前に逆さまになって私の前に現れたときだって、落ちることなく保たれていたなあ。
そんなどうでもいいことをぼんやり考えたのは一瞬で、すぐさま思考はリリアさんのくれるらしいチョコレートケーキのことへと移り変わった。シルバー先輩も以前、よくリリアさんにお菓子を振る舞ってもらっていたと言っていたし、見た目の通り女子力も高いんだなと一人無言で頷いていると、視界に人間離れしたスタイルの持ち主が現れた。
「あらナマエじゃない。良いところに」
「ヴィルさん!」
もちろんそれは、傷みなんて知らない、艶のあるシャンパンゴールドを輝かせ、毛穴のない陶器のような滑らかな肌をもつ、スーパーモデルのヴィル・シェーンハイトだった。レオナさん同様、何度見てもこの美貌には慣れそうもない。ぼうっとその美しさに見惚れているけれど、当の本人は、そんなの当然でしょというように慣れきった態度を見せた。
「今丁度アンタの教室に行こうと思っていたの」
なのにここで会えるなんてグッドタイミングね。ヴィルさんは口角を上げながらそう言うと、私に小さな紙袋を差し出した。あ、これって!
「ハッピーホワイトデー。以前は美味しいチョコレートをどうもありがとう」
癖はないのに、煌びやかで、フローラルな香りがふんわり届いた。手渡された紙袋は、私が提げている大きなプチプラのクラフト紙でできたものとは反対に、小さいけれど光沢のあるコート紙で、それもまた見覚えのあるロゴが印字されていた。まさかとリボン結びされた隙間から紙袋の中を覗くと、人差し指くらいの長さをしていそうな小さな箱と、それからまた別の正方形の金色をした包みが入っていた。
「これ、有名なブランドのリップ! こんな高価なものいただいちゃっていいんですか!?」
「あら、返品をご希望なら受けて立つわよ」
「返品なんてとんでもない! 嬉しい! ありがとうございます!」
ラウンジで稼いでいるとはいえ、得た給料の大半は毎月の食費や基礎化粧品やなくなったファンデやアイブロウなんかに消えてしまう。多少の仕送りはあるけれど、デパコスを買うほどの余裕はないし、欲しくたってどうしても「わざわざ買うほどでもないかな」という優先順位の関係でどんどん後回しになってしまうのだ。前に自分へのご褒美! ということでヴィルさんがイメージキャラクターになっていたブランドのリップをつけていたけれど、気分で変えたいときもあるし、ここで新しいリップを手に入れたのは大きい。
それが、まさかこんなところで、しかもデパコスの中でも人気ブランドのものを、さらにはヴィル・シェーンハイトに貰えるなんて。もしかすると、今日は一生分の運を使い果たしてしまう日かもしれない。まあこれも、一ヶ月前の私のおかげだ。
嬉しさが隠しきれずに紙袋を胸に抱きながらくるくるとその場で回っていると、「まあ」と眉をひそめたヴィルさんが私の肩を掴んでは回転を止めた。
「アンタ、丁度リップが落ちているわね。せっかくだから、ここで塗っていきなさい」
視界がぐるぐるして、それと同時に思考もぐるぐるさせる。あっ、急いで食べてきたせいでリップを塗り直すのを忘れちゃったんだ。
いひひ、と笑うと、はあ、と溜息をついたヴィルさんは、私の腕から紙袋を取り返しては、勿体ぶらずにしゅるるとリボンを解いた。それからリップを取り出すと、緩んだ私の両頬をぐっと大きくて上品な左手で抑えながら、慎重にリップを塗ってくれた。精巧な蝋人形のような造形に、思わず心臓が跳ねた。手袋が汚れることを厭わず、ちょんちょんと指先で塗り広げられる。毛穴開いてないかな。肌荒れてなかったっけ。色々な考えが頭を巡るが、結局は目の前の彼の虜になるのだ。ヴィルさんが、ふ、とわずかに息を零して微笑んだ。
「――思った通り、よく似合う。流石はヴィル・シェーンハイトってところかしら」
ヴィルさんのジャケットのポケットから、コンパクトミラーが取り出されたので、鏡の中の自分と目を合わせた。すごいすごい! 自分で長考して選んだリップの何倍も、私の顔に馴染んだ色が控えめに主張していた。つい鏡像に見惚れてしまう。新しい下着、新しい服、新しいリップ。新しいものはなんでもテンションが上がるものなので、これから数日はあらゆるモチベーションが上がってくれそうだ。
そういえば、この金の包みはなんだろう? 見たところチョコレートだと思うけれど……。
「これは?」
「あら知らないの? アタシの周りのモデルやインフルエンサーは御用達のチョコレートよ。小さいけれど、味は保証するわ」
「ひええ、ありがとうございます……」
小さな包みには何やらそのチョコレートの名前だかブランドだかが書いているけれど、普段使わない文字なので、どうしたって読めそうもなかった。ヴィルさんの言い方からするに、芸能人は御用達だけど私たち一般人にはまったく馴染みのない、高級チョコレートなのだろう。恐れ多い。大事に食べます、と再度紙袋に入れると、ヴィルさんが薄い唇を開いた。
「ところでどうしてここに? 教室まで行く手間が省けたのは良かったけれど」
そうだった。ヴィルさんに出会えた喜びでリリアさんを待っていたことを忘れていた。
「えっと、リリアさんを――」
「待たせたのう」
リリアさんを待っているんです。そう言う前に、ヴィルさんの背後からひょこっと幼さの残る顔を出した。ゆったりとした動きで足を出したリリアさんは、後ろで手を組んでいるようだった。チョコレートケーキだ!
うきうきと身体を揺らしていると、ヴィルさんがリリアさんの背後に視線を向けてはぎょっとした表情を浮かべて、肩を震わせた。
「……もしかして、ナマエ」
「ええ、リリアさんがお返しをくださると言うので」
顔を引き攣らせたヴィルさんに、どうしたんだろうとほんの一瞬だけ疑問を抱いたけれど、そんなことよりリリアさんからのお返しだ。……あれ、そういえば、シルバー先輩とセベクがリリアさんからのお返しは受け取らなくて良いって言っていたような。
「ハッピーホワイトデー! ナマエに貰ったチョコレート、美味しかったぞ」
「あっ、ありがとうございます! ……あの、中見ても?」
「ああ。今回も自信作じゃ」
誕生日ケーキを買ったときのような大きなホールケーキ用の箱を手渡されると、ずっしりとした重みを感じた。自信作のチョコレートケーキ。今までもお菓子作りや料理をよく振る舞っていた。そして自信満々なリリアさんの表情。それとは裏腹に、なぜだか不信感がふつふつと沸き立ってくる。ヴィルさんの表情に、それに――
『リリア先輩からのお返しは受け取らなくてもいい』
『お前がどうなっても、僕たちは責任を取らない』
ディアソムニアの王様の護衛二人のいつかの声が頭の中でこだました。いやいや、そんなまさか。そんなことない、と思いたいのに、冷や汗がこめかみを伝った。
ヴィルさんからの心配とドン引きの混じった視線と、リリアさんからのわくわくした視線の中、恐る恐る箱を開けると、妙な空気がもわっと溢れた。……気がした。
「……」
「どうじゃ? よくできておるだろう」
本当に、本当に申し訳ないのだけれど。
チョコレートケーキとは思いがたい色。ナッペを使った形跡のないクリームのガタガタさ。これはまだ良い。一番に目を引いたのは、苺のごとくトッピングされている、魚の頭だ。アジ? 鯖? 魚の種類なんてどうでもいい。普通甘い香りが食欲をそそるはずなのに、甘い香りなんてそのうちの一パーセントほどしかなく、生臭さや辛さが共存した匂いがしている。イモリの尻尾のようなものまで見える気もするけれど、気のせいであってほしい。
このケーキをひと目見て、今までの周りの言動が腑に落ちた。そんなはずないのに、怪しい煙まで見えるような気がする。
どういう反応が正解だ? 今の私はきっと、この世の終焉のような顔をしているに違いない。けれどリリアさんがあまりにも私の反応に期待した様子でにこにこしているから、正解はもちろん――
「わあ〜!! 美味しそう! 寮に戻ったら早速いただきます!」
まるでサプライズをうけたかのような、オーバーすぎないリアクションで声のトーンを二つくらい上げる。ある意味サプライズではあるが。口角を思いきり上げて、頬を持ち上げて、目を細めては目の奥が悟られないようにした。ひくひくと頬が痙攣している。リリアさんにはお世話になっているし、悲しい表情をさせたくない。お願いだから見抜かないで。
その祈りが通じたのか、はたまた私の演技力のおかげか、リリアさんは私を疑うなんてことを知らずにお馴染みのかわいらしい笑顔でうんうんと頷いた。
「くふふ、気に入ってもらえたようで何よりじゃ」
感想待っているぞ、と言ったリリアさんは、満足げな表情のまま、軽やかな足取りでその場から去っていった。
リリアさんの背中が消えたことを確認すると、良かったあ、と息をつくと同時に、このチョコレートケーキ、食べきれるのかなと顔を歪めた。せっかく真心込めて作ってもらったのだから、廃棄なんてことはせず、シルバー先輩に食べきるコツでも聞くかあ。
そろそろ午後の授業も始まるし、早めに退散させてもらおうとヴィルさんに軽く会釈をしようと目を向けると、呆気にとられたような表情をしていた。
「……アンタのこと、映画研究会にスカウトしようかしら」
おお、どうやら私の演技力はヴィルさんのお眼鏡にかなうほどだったらしい。
◈◈◈
午後最後の授業に体力育成って、ラッキーなようなそうでないような。バルガス先生の指導のおかげで、半年前に比べると随分体力がついてきたような気がするけれど、やはり男の子には負ける。
日中は春の陽気が気持ちいい季節になっており、少し前に比べると、グラウンドでの授業は苦ではなかった。ただ、どうしても激しい運動のせいで、汗をたくさんかくのは避けられなかった。
「うわ、汗臭」
「仕方ねぇだろ」
体力育成後の教室にむわっとした空気が立ちこめる。もう放課後なので、帰宅する人なり部活がある人なりは運動着のままホームルームを受けるのだ。臭いよ〜ということをアピールするように鼻をつまむと、「ミョウジも汗くせぇ」とノンデリ発言が飛んできたので、ショックを受けた。私のその様子を見たクラスメイトが、ノンデリ発言の生徒を軽く叩いた。
そんなに臭いかなあ、と襟元を引っ張って嗅ぐけれど、自分の体臭だからか、はたまたそれ以上の匂いがこの場に充満しているからかでよくわからなかった。すると、ピコン、ピコンと二回通知が来たので、ああ、そういえばと通知の内容を確認する前に教室の入口に目を遣る。予想通り、チェリーくんがひらひらと手を振っていた。
「ポラ、待ってたよ」
「そこ略すのかよ」
今日もらったたくさんのお返しをまとめてから、そこに今からまたプラス一されるんだなあとトラッポラのもとになるべく早足で向かう。わざわざ呼び出してくれたし、人目につかないところの方が良いかなと考えては呼び出された私が柱の裏まで先導した。既読ついてないけど、と言われ、まあトラッポラだと思ったよ、と言うと、眉を八の字にして笑った。
「私汗臭いらしいんだけどわかってるから言わないでね」
「わかんないけど……。つかこの教室が汗臭いんじゃん!」
「え! やっぱり私臭くないよね!」
「どっちなんだよ」
そこそこノンデリの気があるトラッポラが私に気を遣ったのか、本当に思っていないのか、もしくは教室の匂いが強烈すぎたのかでナマエ・ミョウジ汗臭い説を消してくれたことに激しく頭を振る。このままいつもの雑談の流れにもっていきたいところだけれど、ホームルームも間もなくで、今日はクルーウェル先生のところに用事があったり部活があったりと忙しい。そんなゆっくりお話している時間もないので、こちらから話を切り替えることにした。
「それでそれで? もしかしなくてもトラッポラくんの用事は?」
「あー、そう。はい、バレンタインデーのお返し」
「やったあ」
そうして差し出されたのは、スペードのくれた手作りのクッキーとは違って、丁寧にラッピングされたものだった。
「……何がいいのかわかんなくてさ、結構悩んだんだけど」
柄にもなく自信なさげなトラッポラだけれど、袋の中身は悩んでくれたおかげか、女ウケ抜群のものだった。ヴィルさんとは反対で、誰もが知る有名店のチョコレートに、チェリーの香りと書いてあるハンドクリーム。嬉しくないはずがない。私の反応をちらちらと窺いながら、決して目は合わせず、「あー」なんて言ってつま先を見ている。そんなトラッポラを安心させるように、顔を下から覗き込んだ。
「トラッポラ?」
「……どう?」
「めっちゃ嬉しい!」
手の乾燥はラウンジでの業務においても、もちろん見た目においても大敵なので、ハンドクリームほど実用的なものはない。恐らく酸味のあるあの香りだろう。チェリーパイの香りとかパンケーキの香りなら反応に困ったかもしれないけれど、あのすっきり爽やかな甘い香りなら大歓迎だ。
私の様子を見たトラッポラは、深く安堵の息をついて、その場にしゃがみ込んだ。もちろん内容も嬉しいけれど、それ以上に――
「そこまで頑張って選んでくれたんだな〜っていうのがほんとに嬉しいよ」
「はぁ〜良かった。つかなんかそこまで褒めてくれんの、ナマエちゃんらしくないよね」
「どういうこと?」
「……監督生に影響されてんじゃん?」
それはトラッポラもでしょ、と言うと、まあそうかもね、と笑う。もともと私だって、嬉しいものは素直に嬉しいって言っていたと思うんだけれど。トラッポラの歳相応の男の子の笑顔は、なんというか、嬉しくなってか、胸の奥がじんわり温かくなった。その余韻のまま、受け取ったものを軽く振って話題を戻す。
「ハンドクリーム、ほんとに嬉しい。毎日使わせてもらうね」
「なら良かった。じゃ、そろそろホームルームだから戻るわ」
「そうだね。クルーウェル先生に怒られちゃうからね」
スマホを確認すると、あと一分ほどでホームルームの時間だった。いや、ホームルームは割と適当な時間に始まるから正確ではないけれど、教室の様子を見るにはまだ始まっていないらしいし、先生の姿も見ていない。今のうちに戻るかあ、とA組の前でトラッポラを見送ろうと、再度ありがとうという言葉と共に手を振ったところで、トラッポラが口を開いた。
「クルーウェル先生にはなんか貰った?」
「ううん、この後」
「うーわ、負けたくないなあ」
「なに競ってんの」
そうそう、クルーウェル先生のお返しが一番楽しみまである。けれど、今回の皆からのお返しに勝ち負けとかは存在しなくて、皆平等くらいに嬉しいのは事実だし、競われるものでもない。まあ、リリアさんは少し違ったかたちなのだけれど。まあ、その中でもクルーウェル先生は確かになかなか上位層に入りそうだよねえ。
ふふ、と笑いながらトラッポラからのお返しも嬉しかったよと伝えると、よく熟したチェリーレッドが、どこか熱っぽい視線を向けた。先ほどとは打って変わって、恥ずかしげもなく、じっと私の目を見つめるので、今度は私が逸らしたくなった。けれど、この後に続く発言のせいで、それは叶わなかった。
「せっかくならナマエちゃんの一番になりたいと思って」
それだけ残して、そそくさと教室の中に入っていった。私はというと、予想外にその場に数秒立ち尽くすこととなった。冗談なのか本命なのか、それにしても、いつも上手な私がトラッポラに一本とられるなんて。今度は胸ではなく顔に集まってしまった熱を誤魔化すように、ふう、と息を吐き出した。