滄海想起

 モストロ・ラウンジを覗いてみると、一ヶ月前のバレンタインイベントのときとは打って変わって、盛況はしているものの、寮生は余裕がありそうなくらいだった。ヘルプに入る必要はなさそうだ。それを確認するや否や、一度荷物を置きに談話室に戻ろうと踵を返すと、ぽふ、と目の前が暗くなった。

「あっ。お疲れ、ナマエちゃん」

 嗅覚よりも視覚よりも、先に聴覚からその正体が告げられた。この聞き馴染みのある、ゆったりとした声はもちろん、フロイド先輩だ。機嫌が良いのか、いつもより声が少しだけ高い気がする。顔を上げると目尻がくっと下げられて、優しい微笑みを向けられた。この時間帯の帰宅、それからほんの少しだけ感じる制汗剤の匂い。メントールのようなスッとした香りが鼻を通った。フロイド先輩も私同様、部活が終わったところだろう。

「フロイド先輩もお疲れ様です」
「ありがとぉ。てか何そのすげぇ荷物」
「ホワイトデーです」

 終業式でもセールでもない、こういう普通の日の大荷物は、どうしたって目を引くらしい。目の前の大きなウツボさんは、左右違った色をした、わずかに眠そうな瞳をぱちぱちさせると、「ああ」と納得したような声を出した。
 フロイド先輩もモストロ・ラウンジの様子を見に来たのか、それとも寮長や副寮長に何か用事があるのか。どうしたのかと首を傾げると、口角をにい、と上げた。

「ナマエちゃんの後ろ姿見えたから、着いてきただけ」

 あらかた予想通りだ。学園内でもフロイド先輩は、目が合うとぶんぶんと元気よく手を振って、そうでなくても、気がつけば私の後ろに立っていることがある。私の姿を見つけると着いてきてしまう習性でもあるのだろう。
 フロイド先輩が私の顔を見てまた笑うと、私の荷物を見てから、今度は彼が小首を傾げた。

「紙袋に収まってないそれ、なに?」

 フロイド先輩が長い腕を使って指差したのは、私の手に 提げられている箱だった。崩れないように慎重に持っている様が、余計に疑問を抱かせたのだろう。じいっと向けられる視線の先には、セベクからもシルバー先輩からも対処についての答えが出なかった、「それ」があった。

「ああ、これは……」
「ケーキっぽいけど、手作り?」
「えっと……」
「なんか言いづらいもんなの?」
「うーん……」
「おい、勿体ぶらず言えよ」

 いつもの調子で単純な疑問を向けられていたのに、歯切れの悪い返事をする私を見て、目をカッと開いてはギザギザの歯を見せつけた。そして片手で首の後ろを押さえたまま、瞬きすらせずにこちらを見ていた。ひい、絞められる。
 特段言いづらいものではないし、けれど、今冷や汗が流れているのは、このケーキと向き合わなければならないことを思い出したからだ。覚悟を決めて、ごくりと喉を鳴らした。

「リリアさんに、いただいて」
「メンダコちゃん? へぇ、メンダコちゃんもケーキとか作るんだ」
「どんなケーキか見ます?」
「うん、興味あるかも」

 セベクとはまた違った種類の金色の四白眼をしていたフロイド先輩は、すっと機嫌が戻ったのか、リリアさんのケーキだと知ったからか、関心がそちらに向いた。その様子を見てほっと息をついた。リリアさんは、メンダコちゃん。少しイメージが湧きにくいから、後で調べておこう。
 とりあえず談話室にでも移動しようと提案すると、手に感じていた重さが消えた。どうやら、フロイド先輩が荷物を奪ってしまったらしい。私が女の子だからか、この学園の男の人は荷物を持ちたがるらしい。性格や思いやりのあまりない生徒が多い学園にしては、紳士的だ。
 私の一歩前を歩いていたフロイド先輩に追いつくように少し早足になると、それに気づいたのか、先輩の方が私に歩幅を合わせてくれた。

「その前にまずご飯食べよ。作ってあげる」
「わーい!」
「何がいい?」

 フロイド先輩の手料理はいつ食べたって美味しい。グラタン、オムライス、パスタにピザ。色々食べたいものはあるけれど、あまり負担になるのもなあ。頭を悩ませる様子を、隣を歩くフロイド先輩は、ひと房色の違う髪を揺らしながら目を細めて見ていた。

 ◈◈◈

 結局フロイド先輩からの提案でたこ焼きを食べた私たちは、談話室のソファを荷物置きと、そして私が座るために占領すると、いよいよ例のケーキを開封することにした。具体的には、もう開封はしているのだけれど、再びその封印を解くときが来てしまったのだ。

「……うわっ」
「…………でしょ?」

 やっぱりそういう反応になるよねえ。箱を開けた瞬間に禍々しいオーラを放つそれに、フロイド先輩が珍しいくらいドン引きした様子を、もちろん隠すことなく顔に出していた。
 あらためて見ても、酷いものだ。ケーキの形になっているのが奇跡だというくらい、生地も見るからに粉っぽさが残っていて、やはり魚やよくわからない生き物の姿も見えて、何よりこの匂いがたまったものではない。
 ちらりとフロイド先輩の様子を確認すると、まだドン引いている様子で、もちろん解決策が出るはずもない。リリアさんからの「マジカメに載せてくれてもいいんじゃよ」という幻聴を聞きながら、スマホを構えていると、背後からまた別の「うわっ」という声が聞こえた。

「なんですかこの呪物は!!」
「はは……」
「メンダコちゃんが作ったらしいんだけどさ、ヤバくね?」

 いきなり現れては「呪物」なんて失礼なことを言っているのは、オクタヴィネルの慈悲深い代表、アズール寮長だった。こんなにたくさんの人に絶望的な表情をさせるリリアさんは、間違いなく今年のホワイトデーのハイライトだ。
 寮長はケーキを見ながら口をわなわな動かすと、またしても失礼ながら鼻を押さえた。

「ヤバいどころのものじゃない! ナマエさん、処理はあなた一人でお願いします」
「慈悲がない!」
「そりゃそうでしょ。冷蔵庫使うのも禁止ね。匂い移るし」

 前言撤回。やっぱりうちの寮長には慈悲の欠片もない。せめて私のことが大好きなフロイド先輩は私と一緒に処理の方法を考えてくれるか、はたまた一緒に食べてくれるかも、と期待を込めた視線をさり気なく送ったところで、見事散ってしまった。私の最後の希望が、こんなにも呆気なく。
 食べる勇気なんてまったく湧かないのに、どうすれば良いのかとケーキを箱に戻していると、ごほん、と咳払いをした寮長が眼鏡をかけ直す。

「契約さえしてくだされば……ええ……考えないこともないですが」
「しないです!」

 やっぱり契約がすべてなんだ! その割には寮長も乗り気ではなさそうなのが、リリアさんのケーキの力を示している。せめて味を変える魔法とかが使えればいいのに、そんな都合のいい魔法が存在するとも思いがたい。
 はあ、と溜息をつくと、流石に気の毒に思ったのか、寮長がある提案をした。気の毒、というのもリリアさんに失礼ではあるが。

「まあ、どうしてもと言うならハーツラビュル寮のトレイさんをあたってみてもいいかもしれないですね」
「トレイさん?」

 トレイさん、といえばお菓子作り。しかし流石にこのケーキをどうにかしろというのも酷な話だ。それに、完成品であるこのケーキをどうにかできるなんて到底思えない。しかし寮長のことだから何か考えがあるのだろう。後でトレイさんのマジカメのアカウントでも探そうかな。
 すると寮長が、先程までとは一変した笑顔で、私に白い箱に赤いリボンが結ばれた、ザ・プレゼントという感じのプレゼントを差し出した。

「そうだナマエさん。僕からもバレンタインデーのお返しです」

 皆律儀だなあ。バレンタインにチョコレートを渡した人から、ほぼ百パーセントの確率でお返しが貰えている。リボンはどうやら飾りらしく、蓋との切れ目で線が入っていた。それを開けると、純白という文字が相応しいほどの真っ白なティーカップが、これまた真っ白なシルクの上に置かれていた。手に取ってみると、厚みがしっかりしている。けれど特にこれといった目立った装飾はない、本当に真っ白なティーカップだ。

「見た目はごくシンプルですが、品質は保証します」
「へえ〜! ありがとうございます」

 素人目にはわからないけれど、寮長がこんなところで嘘をつくはずがないし、きっと本当に品質のいいカップなのだろう。普段は寮のカップで紅茶を飲んでいるけれど、今日からこれを使うことにしよう、と箱の中に戻した。

「モストロ・ラウンジで出す食器の候補としてどうかと思いまして」

 ああ、なるほどね。

「顧客の反応が気になると」
「もちろんそれもあります。しかしそちらのティーカップ、まだ世間に見つかっていないんですよ」

 僕が見定めに見定めた代物です、と自慢げに言った。つまり、寮長は「次に来る」「世間に見つかるかもしれない」と考え、かつモストロ・ラウンジで顧客の反応を確かめたいものを私にくださったと。実に寮長らしいけれど、きっと品質の良いこのティーカップを何個も発注するのは難しいだろう。せいぜいVIPゲストに出すものになるのだろうな、と考えると、かなり良いものをいただいたような気がする。嬉しいなあ。セベクに貰った茶葉もあるし、これから重宝することになりそうだ。
 するとまたまた背後から、細くて長い影がにゅっと伸びてきたので、声が聞こえる前からその正体がなんとなくわかった。

「おやナマエさん、良いところに」

 オクタヴィネル寮のトップが談話室に、しかも私を囲うように集合してしまった。傍から見ればまるでリンチ会場だ。ずん、と私の頭にのしかかったフロイド先輩は、後ろ手にあからさまに何かを隠している副寮長を見ては、声をかけた。

「なにジェイド。ジェイドもナマエちゃんにホワイトデー?」
「おや、バレてしまいましたか」

 そうしてくすくすと笑った副寮長は、ガラスのボールのようなものを私の両手に載せた。私とフロイド先輩と寮長が、一斉にそのボールを覗き込む。
 なんだろう、これ。ガラス製の容器の中に、苔のようなものが――いや、緑の苔が敷き詰められていて、その上に白くてふわふわしたものが不均等に置かれている。これってまるで――

「雪のようでしょう?」「カビみてぇ」
「あっ!」

 私が思ったのはフロイド先輩が言ってしまった「カビ」の方で、せっかく口を噤んでいたのに、綺麗に代弁されてしまった。せっかく言わなかったのに! とフロイド先輩の方に目を遣れば、「どうかした?」と悪びれる素振りなんてないようだ。
 見方によれば確かにふわふわした雪のようにも見えなくはない。けれど、初見だと完全にカビだ。以前にも副寮長の作るキノコのテラリウムを見せてもらったことはあるけれど、このような形状のものは初めて見たかもしれない。
「カビみたい」という言葉を受けた副寮長は、目を瞑って「しくしく」と嘘泣きを始めた。ああ、またこの茶番だ。

「失礼ですね。せっかく真心込めて作ったというのに……。それにこれはカビではなく『ヤマブシタケ』という立派なキノコです」
「初めて聞きました」

 初めて見るだけあって、やはり初めて聞くようなマニアックな名前のキノコのテラリウムだった。正直嬉しいと嬉しくないの間でせめぎ合っているけれど、よくよく見るとふわふわ揺れるそれに愛着が湧いてこないこともない。

「ありがとうございます、部屋に飾らせていただきます」
「気に入っていただけたようで何よりです」
「え〜。ナマエちゃんの部屋、土臭くなっちゃうよ?」
「んー、でもせっかくいただいたから」

 にこにこと目を細めて喜ぶ副寮長と反対に、眉を八の字にするフロイド先輩。顔は似ているけれど、本当に性格も趣味も違うよねえ。
 寮長と副寮長にあらためてお礼を言うと、二人とも「どういたしまして」と言って、夕食の準備に取りかかるようだった。残ったフロイド先輩は私の横にどん、と座ったので、もう少しここにいるのかな、と今日貰ったものを次々と紹介していく。それでも、一番インパクトがあったのはどう考えたってリリアさんだ。
 そういえば寮長が、トレイさんがなんとかって言っていたので、マジカメを開いてはそのアカウントを探す。

「これじゃね? カニちゃんのフォロワーにいる」
「ああ、本当だ。…………ええ?」
「なにこれ」

 トラッポラのフォロワー欄から無事にトレイさんを見つけ出すと、投稿はさまざまな手作りの綺麗なお菓子や、ハーツラビュル寮でのお茶会の様子が載っていた。……のだけれど、その鮮やかで美味しそうなお菓子の中で、一つだけ異彩を放つ投稿が目に入った。歯ブラシだ。おそらく、新品の。それからその歯ブラシに添えられた文言がこれだ。

『甘いものを食べた後は特に念入りに』

 お茶会と同日のその投稿に、つい目をぱちぱちさせてから、フロイド先輩と顔を見合わせる。それから、また二人でテンポの合わない瞬きをした。なんだ、この異質な投稿は。

「わけわかんね」
「いやほんとに」
「ウミガメくんってもしかしてさぁ、めちゃくちゃ歯磨きオタクなんじゃね?」
「ええ、あんな温厚な人が? そんなまさか」

 あの温厚でこの学園でも珍しい常識人のトレイさんがそんな一面を持っているはずがない。けれどもしそうだったら面白いなあ、なんてフロイド先輩とそんな冗談を言い合いながら盛り上がっていると、寮長がなにやら私たちの席に戻ってきた。
 
「二人とも。お話するのは良いですが、寮服に着替えてきなさい。それからナマエさんの荷物も」

 他の寮生の妨げになる。その言葉に、残念ながら一度お開きにするというかたちで、その場を立った。

 ◈◈◈

 ドレッサーの前で、銀の髪すき――ではなく、ヘアブラシを髪に通す。ヴィルさんにいただいたリップの発色が良く、強く目を引いた。引き出しに新たにそのリップを入れると、そのパッケージだけでも強く主張をしていた。
 そういえばフロイド先輩は私にお返しをくれなかったなあ。お返し目当てで渡しているわけではないけれど、期待を強くしてしまっていただけに、少し残念だ。もしかすると、今日がホワイトデーであることを忘れていただけかもしれないし、ホワイトデーの存在を知らないなんてこともある。
 今更そんなに期待しても仕方ない! そう考えてハットを被ると、丁度そのタイミングでノックが三回鳴った。

「ナマエちゃん、着替えた?」

 この心地良い、声にゆったりとした口調。間違えるはずもなく、私がたった今聞きたかった声だ。急いで椅子から立ち上がって、忙しなくバタバタと足音を立ててはドアを勢いよく開けると、ゴールドとオリーブがそれぞれ揺れた。

「フロイド先輩、どうしたんですか? もしかして!」
「あはっ、そうそう。待ってたの?」
「へへ、少しだけ。……いや、めちゃくちゃ待ってました」

 私のテンションの高さで「待っていた」事実を誤魔化せるわけがなく、すぐさま訂正すると、より目を細めて私の目をじっと見た。先程までの制汗剤の匂いではなく、ほんのり爽やかなマリンの香りがした。
 するとフロイド先輩が一歩、二歩と私の部屋に入ってきそうなほどまでに近づくと、少し屈んで私の目線に合わせるようにした。実際、フロイド先輩の脚が長すぎて変わらずフロイド先輩の方が目線が高いのだけれど。その距離の近さに思わず心臓が二回ほど跳ねた。フロイド先輩って、落ち着きがあるわけではないのに、いつも私より上手だ。

「いいよって言うまで目瞑ってて」

 サプライズだろうか。一体何が貰えるのだろう。わくわくした気持ちと同時に、とてつもない緊張が押し寄せてくる。これ、少女漫画だったらキスされる流れだ。そう考え出したら途端に心臓がバクバク鳴って、さらには追い討ちのようにフロイド先輩の香りが強くなり、ついには髪が顔に触れたから、反射的に目を開けてしまいそうになった。しかしそうしなかったのは、首もとにひんやりと冷たい感触が降ってきたからだった。
 それから間もなく、「もういいよ」と掠れ気味の低音が聞こえたので、こわごわ目を開けると、ぼやけた視界が次第にはっきりした。フロイド先輩の手の感触を覚えてから、首に違和感があったので、ゆっくりと顎を引いていくと――

「わあ、綺麗……」

 銀色に縁取られた、小さな真珠が鈍く光った。コンクパールよりはるかに薄く、しかし自然な発色でピンク色を反射するようなものだった。じっと見ていると吸い込まれそうになるほどで、女の子なら誰もが憧れるようなネックレスだ。
 それからゆっくり顔を上げると、もしかすると私の目がやたらキラキラしていたのか、フロイド先輩がふ、と息だけで笑った。

「ナマエちゃんに似合うと思って。街に出たときに買ったんだぁ。これならいつでも身につけられるし、いいと思って」

 上機嫌な様子でそう言うフロイド先輩に、「高かったんじゃないですか?」なんて聞くのは野暮だと思った。それだったらハグの一つでも返す方が良いのではないかと思った。けれど、もちろんそれもすることはなく、口をぱくぱくとさせてから、なんて言うか迷った挙句に「ありがとうございます」とだけお礼を言うと、「ナマエちゃんが金魚ちゃんじゃん」と頬を軽く摘まれた。

「他の奴に同じようなの貰ったりした?」
「いいえ、アクセサリーはフロイド先輩だけ」

 身につけられるという意味では、ヴィルさんやトラッポラ、クルーウェル先生がそれに値すると思うのだけれど、ここまで本気感のあるお返しはフロイド先輩だけだ。つい、顔に熱が集中すると、またしても、フロイド先輩の冷たい手が頬に添えられた。それは熱を吸収することはなく、火照りを助長するだけだった。その様子を見たフロイド先輩は、また優しい表情で微笑んだ。

「それ、毎日つけてね」

 それだけ言ったフロイド先輩は、また後でね、と手を振った。毎日つけたら、その度にフロイド先輩の香りや声色を思い出してしまいそうだ。さっきの距離の近さが、フラッシュバックしそうだ。そう思ったけれど、実際にそうなってしまうのが怖くて、もうこれ以上は考えないようにした。珊瑚の海のように透明感のある香りが、未だに残っている。
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