まもなくオクタヴィネル寮には、一通の封筒が届いた。不気味にも寮の入口に落ちていたことを報告してくれた副寮長の手元を、私とフロイド先輩とが両脇から覗き込む。白い封筒の差出人には、あの幼くてかわいらしい見た目からは想像もできないような、書き慣れたであろう滑らかな筆記体があった。
『from Lilia Vanrouge』
そう、言うまでもなく、リリアさんの送別会の招待状である。濃淡のある文字は、やはり見た目にそぐわないリリアさんの達観した物言いから、マジカルペンではなく羽根ペンを思わせた。高級な紙なのだろう、甘くてどこかスモーキーな香りがする。
副寮長を見上げると、つり目をにこっと細めてから、ソファに腰かけている寮長に手渡しに行った。副寮長の入れた紅茶の香りがこちらまでふんわり漂っている。
「リリアさんから招待状です」
「ありがとうございます。送別会は一週間後……随分早い決断をされたようだ」
「寂しくなりますね」
細い指がティーカップを持ち上げる。私は未だにカップのハンドルに指を通さなければぷるぷる震えてしまうものなのだけれど、その様子を微塵も感じさせないあたり、流石はアズール・アーシェングロットだ。そちらから少し離れたソファに座り直すと、向かいにターコイズブルーが現れた。寮長とは対照的に、脚を大きく広げて座っている。
「ねー、ナマエちゃんはさっきメンダコちゃんに会ってきたんでしょ?」
「はい、会ってきました。……えっ、なんでわかるの」
背筋がピンと伸びた。おかしい。寮に帰ってきてからというもの、私は誰にもディアソムニア寮に行ったことを話していないのに、フロイド先輩は穏やかながらも見透かしたような目をこちらに向けた。やっぱりこの人、時々怖い。訝しむ様子を顰めた眉に込めると、彼は鼻をすんと鳴らした。ああ。
「メンダコちゃんの匂いがすっげぇする」
「はは……よく覚えてますね、リリアさんの匂い」
「なーんか特徴あるんだよねぇ」
そんなに匂いに敏感ならば、いつもエペルを始めとした色々な人の匂いがしているものだろう。しかし今までは指摘されなかったうえ、もう寮服に着替えているのに、リリアさんの匂いがするなんて大概だ。その正体はもちろん、あれだけリリアさんと密着していたことにあるのだろうけれど。ヤキモチ妬きのフロイド先輩は、リリアさんの匂いに不貞腐れるかと思いきや、そうでもないらしく、りんごジュースを喉に流した。
ああそうだ。リリアさんに頼まれた件について支配人に伝えないと。まだ余り余っているお返しのチョコレートを一つ摘んでからその場を立ち上がると、フロイド先輩の視線が私を追う。招待状を確認しているらしいシルバー先輩とは少し違う光沢のある銀色の髪をした彼のところに向かった。
「リリアさん、オクタヴィネル寮にケータリングサービスをご所望だそうですよ」
詳細はわからないです。そう付け加えると、寮長は目を少し丸くしてから、眼鏡を軽く上げた。それから封筒の中に招待状を戻そうとしたところで、何かが突っかかったらしい。どうやらそれは一枚の紙切れだそうで、迷いなく広げた寮長は、ああ、と小さく声を洩らした。
「ご注文のサービスの詳細が書いてあるようだ」
寮長は箇条書きされた一つずつを読み上げていった。どうやらケータリングサービスという名前の通り、テーブルセッティングから配膳、後片付けまですべてをお望みだそうだ。これは私がモストロ・ラウンジの仕事を始めてから最初の大仕事になりそうだ。何せ、全校生徒分の料理の準備だったりをしなければならないのだから。
「忙しくなりそう〜」
「ええ。僕たちもこのようなサービスはしたことがありません」
「あっ、そもそも初めての試みなんだ」
「はい。サービスとしては以前からありましたが、このような大規模なパーティを学園内で行うことは珍しいです。そして何より――お代がかかりますから」
この「お代」は、寮長がいつも使う意味ではなく、正当な意味でのものらしい。まあ、そうだよねえ。普段の校内イベントやらでは食堂のゴーストがいるし、スカラビア寮に行けば週に二、三回はタダでジャミルさんの料理が振る舞われる宴が開催されるそうだし。ジャミルさんの負担を考えると胃が痛くて仕方ない。
忙しくなりそう、と口では言ったものの、誰よりも忙しいのは支配人だ。一週間後に行われる送別会に向けて、至急段取りを組まなければならないのだから。稼ぎ時だと意気込みながらも、一週間というタイムリミットに焦るように紅茶を飲み干していた。
「お手伝いしますよ」
「助かります」
副寮長は私たちのカップをトレーにまとめて、寮長はその場を立ち上がった。フロイド先輩はというと、ゆっくりその場でりんごジュースを飲んでいる……かと思いきや、ゆったりと立ち上がり、ぐんと伸びをした。てっきり準備をサボるのかと考えていたけれど、フロイド先輩は案外こうしたイベントに向けた準備などは積極的に行うのだ。積極的に、といっても、フロイド先輩比だけれど。
まだまだ新人、さらには料理の腕前もさほどだけれど、モストロ・ラウンジの従業員の一員として、それからリリアさんにお世話になったという気持ちを込めて、精一杯準備させてもらおう。
◈◈◈
何度来ても、おどろおどろしい空気が立ち込めている。何度、といっても、まだ二度目なのだけれど。
「こわぁ……」
「ナマエちゃんビビりすぎでしょ」
そりゃビビるでしょう。送別会でありパーティなので、多少は華やかな雰囲気でもあるかと思ったけれど、あの日来たままのディアソムニア寮だった。オクタヴィネル寮生が列を成して、料理やテーブルの準備などを運ぶ様子は、百鬼夜行さながらだ。
早め早めの行動を心がけていたものの、どうしても準備物が多いため、送別会開始の時刻を少し過ぎてからの到着となりそうであった。寮長は気を逸らせながら、寮生たちに指示をするけれど、私の前にいるフロイド先輩は気に留めることなく、ゆっくりと歩いている。そうはいうけれど、脚が長いため私が料理を落とさないように慎重ながらも早足になっているスピードとそう変わらない。神様は不公平だ。
「ちょこちょこ歩いてかわいーね」
「馬鹿にしてるでしょ」
「してないしてない」
「してる」
「うるせぇ」
「すみません」
この気分屋さんに関して、本当にいつ逆鱗に触れるかわからない。幸いまだ私は本気で怒らせたことはないのだけれど、今までフロイド先輩を挑発しては絞められてきた生徒たちをたくさん見てきた身からすると、まずいと思ったらすぐに謝るという典型的雑魚ムーブをせざるを得ないのだ。それにしたって、寮ごとに明らかに雰囲気が違いすぎる。スカラビア寮は砂漠らしいし、サバナクロー寮は荒野だ。オクタヴィネル寮は海中にあるし、それぞれ寮の敷地面積自体とても大きい。そんなものが七つもナイトレイブンカレッジ内にあるなんて、地理が苦手な私は未だにそれらの位置関係を把握できていない。
そうこうしていると、次第に近づいていた荘厳な造りをしたお城が近づいてきて、中に入れば廊下の奥の談話室からはわいわいと賑やかな声が聞こえてきた。談話室に入るのは初めてだ。まるでテーマパークのアトラクションで順番が近づいてきたときのように胸を高鳴らせていると、表情に出ていたのか、隣にいたフロイド先輩が目を細めてこちらを見ていた。
談話室の中は、廊下や外観と同じ。不気味で、燭台には緑色の炎が灯っている。そんな雰囲気には似合わず、既にハーツラビュル寮生とサバナクロー寮生が手にワイングラスを持ったり、おそらくトレイさんの手作りであろうケーキを頬張りながら談笑している。トレイン先生やクルーウェル先生もいるし、さらには貴族らしき人たちの姿も認識できた。内装に目を奪われ、その場に立ち尽くしている私を捉えたらしい、ビスケットブラウンの影がひょいと飛び込んだ。
「ナマエちゃんにオクタヴィネル寮の皆さん! 待ってたッスよ!」
「ラギーさん」
何故か私たちを待っていたらしいのは、このパーティの主催者でも、ディアソムニア寮生でもない、サバナクロー寮のハイエナさんだった。小さな尻尾をぶんぶんと左右に振り回している彼の左手には、美味しそうなケーキが乗ったお皿があった。
「コバンザメちゃん、狙いはどうせ料理でしょ」
「やだなあ、人聞き悪いッスね。ま、そうなんスけど」
やっぱり。私とフロイド先輩、それから周りの寮生たちとでやれやれと呆れた目を向けるけれど、ラギーさんはまったく気にせずに歯を見せて笑った。
「普段モストロ・ラウンジに行くことはバイト以外ではないけど……タダで食えるチャンスは滅多にないッスからね。お客さんに料理を出してるとき、いつも腹の虫が鳴って仕方なかったんスよ」
「えっ、まかない貰えるでしょ」
「え!? そんなのオレ貰ったことないッス!!」
嘘でしょ。そう言おうとした口を、フロイド先輩の大きな手が覆った。手が大きすぎて目まで覆われてしまいそうだ。その行動が何を示したのかはすぐにわかった。私はラストまで働いた日は大抵何かしら豪華なまかないを出してもらっていたけれど、それはオクタヴィネル寮生特権でもあり、私特権でもあるようだった。
悔しがるラギーさんの肩越しに、寮長が何やら私の少し頭上にアイコンタクトを送ったようで、それを合図に私の口から手が剥がされた。
「僕たちは先にリリアさんに挨拶をしてきます。皆さんは準備を始めていてください」
寮長が喧騒のなかでもよく響く声でそう言うと、両隣にリーチ兄弟を連れて人混みの方へと行ってしまった。私もリリアさんと話したかった、と思ったけれど、まだ送別会は始まったばかり。チャンスはいくらでもあるだろうし、この間抜け駆けして話させてもらった。また配膳の方が落ち着いたら様子を見ながらリリアさんのところに行かせてもらおう。
◈◈◈
「あっ、お肉ばっかり」
手分けをしながらなんとかテーブルのセッティングを終えると、ラギーさんに続いて肉料理だけを厳選してお皿に盛っているのは、間違いなくサバナクロー寮の寮長だ。せっかく寮長が取り寄せた海鮮料理などには目もくれず、肉、肉、肉だ。
「別にいいだろ? メニューが決まってるわけじゃねぇんだ」
「ダメですよ、ミネラル不足でイライラしちゃう。はい」
「あ?」
ライオンは肉食動物だけれど、レオナさんはあくまで獣人族だ。お肉しか食べないとは聞いていたけれど、流石に少しは野菜を摂らなければいけないと思う。山盛りにお皿に盛られたお肉の脇にサラダを添えてあげると、レオナさんは眉根を寄せては目つきを鋭くした。私はこの「ナイトレイブンカレッジ唯一の女子生徒」という肩書きに相当甘えているらしい。
「おいどけろ」
「たまにはいいじゃないですか」
「良くねぇ」
相当野菜を食べたくないらしい、イカ耳になっていた。グルル、と喉が鳴っている。下手にこれ以上刺激するのも、とまたしても雑魚ムーブを繰り広げるように、レオナさんから一歩、二歩と後ずさりすると、レオナさんがゆったりとこちらに近づいてきた。三つ編みがぴょこんと揺れる。ええ、追いかけてくるの! 周りの寮生たちがわかりやすく慌てふためいている。
何をされるのやら、ぎゅっと目を瞑ると、もちろん殴られるなんてことはなく、何も起こらなかった。なんだ、と恐る恐る目を開ければ、それと同時に口の中に何かを突っ込まれた。さっぱりとした酸味のある味。レオナさんの手に持っていたフォークが突っ込まれたらしい。ドレッシングの味を認識するやフォークは抜き取られ、噛めばシャキシャキとした食感だ。
「美味しいです」
「はっ、そりゃ良かったな」
口をもくもくと動かしていると、それを見て鼻で笑ったレオナさんは、抜き取ったフォークで盛られたお肉を国に運んでいた。美味い、とかの感想はもちろんなしだ。レオナさん、食べようと思ったら食べれると思うんだけどなあ。正式な場なんかで野菜が出てきたときなんかは嫌々ながらも食べそうなものだし。
肉料理を取るだけ取って談話室の端の方に移動していくレオナさんを遠目に私もそろそろ何か摘もうかしらとお皿を手に取ると、後ろから声をかけられた。聞き覚えのある陽気な声だ。
「ナマエちゃん、まだ一年生なのによくレオナくんにあれだけグイグイいけるね!」
「はは、相変わらずだな」
声の主を振り返ると、ついこの間見た顔ぶれがあった。ケイトさんと、トレイさん。どうやらレオナさんがその場からいなくなったタイミングを見計らって私に声をかけたようだった。
「仲良しなので……」
へへ、と笑うと、遠くでレオナさんがこちらをじっと睨んでいた。ひい、怖い。耳良すぎるでしょ。トランプ兵の二人はその様子を見てまた苦笑した。
すると二人の間からひと際小さな影が姿を現した。それが私の尊敬する、リドル先輩であることに気がつくのに時間は要さなかった。私と目を合わせると、薄い薔薇色をした唇の端を上げた。
「ナマエ、お疲れ様。トレイのケーキはもう食べたかい?」
「まだ食べてないです」
「そう。トレイのケーキは美味しいから、ぜひ食べて」
そう言われ、我々モストロ・ラウンジの従業員がセッティングしたものとは違うテーブルに目を遣ると、ホールケーキが机いっぱいにいくつも並んでいた。苺の季節だからだろう、苺のショートケーキに苺のタルト、苺のミルクレープ、それからチョコレートケーキやチーズケーキなんかもお揃いだった。どれもプロ顔負けで、苺に艶があり、クリームにムラがない。まるで宝石箱だ。グリムやリドル先輩から話は聞いていたし、マジカメでも何度か目にしたことがあるけど、まさかこれほどまでとは。
「トレイさん、あれ全部お一人で?」
「ああ。いつも『なんでもない日のパーティ』で寮生の分は作っていたけれど、今回はそれ以上の量だったから大変だったよ」
「本職じゃん……」
見た目からしてそれはそれは美しいケーキたちだけれど、もちろん味も一級品なのだろう。どれにしようかな、と一つずつ指差しながら、流石に全部食べるほどお腹はもってくれないだろう、ひとまずタルトとチョコレートケーキをお皿に盛りつけた。
「タルトを選んだのかい。ボクもトレイの作るお菓子は苺のタルトが一番好きだよ」
「美味しそう」
「食べて食べて! 写真撮っていい?」
「肌補正かけてかわいく撮ってくれるなら」
こんなに見られながらケーキを食べることって滅多にないから、少し恥ずかしい。三人からの視線とカメラを向けられながら、タルトにフォークを突き立てる。タルト生地がもろもろと崩れて、人前で食べるにはチョコレートケーキを先にした方が良かっただろうかと半分後悔しながらも、綺麗な苺に吸い寄せられるように口に運んだ。苺の甘酸っぱさが舌の上ではじける。春の朝みたいにみずみずしい。やさしい甘さのカスタードが包み込むように広がっては、焼き上げられた生地の香ばしさが、余韻として残った。何これ、美味しすぎる。カシャ、というシャッター音が、私を現実に引き戻した。
「めっ……ちゃ美味しいです!」
そう言うと三人は同時に微笑んだ。ラギーさんの言う通り、こんなものをタダで食べることのできる機会なんてそうそうない。今日この場に呼んでいただけたことに感謝だ。
「口に合ったなら良かった」
「買収できないかな……」
「ナマエ、そういった発言は控えるのだね」
「はぁい」
残念ラウンジで売れば大盛況間違いなし! だと思ったのに。副寮長やフロイド先輩はもちろん料理がお上手だけれど、スイーツ班としてトレイさんをどうにか引き入れたい。ジャミルさんも料理が上手らしいし、ヘルプでたまに入ってほしい気持ちがあるけれど……カリムさんや寮のことで忙しそうだし、そもそもジャミルさんがオクタヴィネル寮のために働いてくれるなんてことはないだろうから、断念した。
ハーツラビュル寮の三人の手元にはモストロ・ラウンジの料理があったので、あっ、と思わず声を出すと、リドル先輩が口角を上げた。
「モストロ・ラウンジの料理も相変わらず美味しいよ」
「ありがとうございます〜」
お礼を言うや否や、ぬっと長い影が背後から伸びては、リドル先輩の端正な顔が歪んだ。それから、私にのしかかる重さ。あ、もしかしなくても。
「まあ当然だよねぇ」
やっぱりそうだ。こののんびりした話し方と、ほんのり香るマリンは、気分屋のウツボさんだった。リドル先輩の両隣のトランプ兵は、あちゃー、と言うような顔を浮かべている。
「げっ、フロイド」
「はぁい、フロイドでぇす」
リドル先輩、露骨に嫌そうだ。瞳孔がカッと開いてしまっている。フロイド先輩がフォークを私の手から取り上げると、まだ手をつけていない方のチョコレートケーキをひと口分掬っては口に運んでいた。「あ、うめ」と声を出していたので、トレイさんが「ありがとう」とお礼を言った。
またしてもだる絡みされそうなリドル先輩を助けるように、気を逸らせようと上を見上げると、もぐもぐ口を動かしているフロイド先輩と目が合った。首痛い。どうしたの? と言う代わりにフロイド先輩は首を傾げる。
「挨拶終わったんですか?」
「そんなん割とすぐ終わってたけど。今ベタちゃん先輩とかが挨拶行ってるし、メンダコちゃんのとこ空いてきたからそろそろ行ってきてもいいんじゃね?」
確かに、先程まではこれを機にリリアさんと話そうと多くの生徒が人だかりをつくっていたが、それも落ち着いてきたようで、リリアさんの周りには数人の生徒が集まっていて、そこには見覚えのある姿もあった。どうやらリリアさんは今日中には発ってしまうらしいし、早めに行かないとね。
「じゃあそうしようかな」
「うん、いってらっしゃい」
チョコレートケーキも苺のタルトも半分だけ食べてはフロイド先輩に一旦預ける。ひらひらと手を振るフロイド先輩やケイトさんに手を振り返すと、リドル先輩が何やら私に目だけで訴えているようだった。ああ、フロイド先輩に絡まれちゃう。ごめんなさい、助けられなくて! その気持ちを込めてリドル先輩に向けて手を合わせて謝罪をしては、リリアさんのもとへと向かった。