こんなにも適応できるなんて、
ピーク時間を過ぎホールの仕事が落ち着いてきた頃、寮生から洗い場に入るように言われたので、手袋を外しながらキッチンの戸を開けると、ホイップクリームを絞るフロイド先輩と再び目が合う。わかりやすく表情が緩んだ。
「なにナマエちゃん。今日は一段と調子いいじゃん」
ホール担当の寮生にケーキプレートを渡しながらそう言うと、キッチンの方も落ち着いたのか、彼は間もなく私に隣に並んでは蛇口をひねった。いつもなら洗い場担当に充てられず、実際作業自体も好きではなさそうな彼が私を手伝ってくれるのは、やや自意識過剰ながらも私がいるからだろう。
今日私が上機嫌なのは言うまでもない。ついに私の念願が叶いそうだからである。ふへへ、ふひひ。そんな笑い声を洩らしていると、フロイド先輩は眉間にシワを寄せた。
「気持ち悪ぃんだけど」
「ちょっと。やめてくださいよ」
失礼な。嬉しいのだから仕方がない。緩みきって戻らない頬をうるさいと言うようにフロイド先輩が濡れた手で摘む。あっ、肌荒れしちゃう。離してほしいという気持ちを込めてじっと見上げると、ぎゅっとひと際指先に力を込めてから手が離れた。じんわりと熱が残っている頬を軽く拭うと、新しい食器に手をつけた。フロイド先輩は嫌々ながらも、やはり私の二倍は作業ペースが速い。
「で、今日は何があんの?」
水がシンクを叩きつける。投げかけられた言葉にちらりと左隣を見れば、視線がかち合うことはなく、ふと視線を外せばタイミングをずらして金色の瞳がこちらを見た。わざとらしく、わずかに目線を上にすると、フロイド先輩がこちらを見て首を傾げた。
「今日はセベクたちが来てくれるんですよ」
隣のウツボさんのおかげでかなりの時間短縮だ。きゅっと蛇口を閉めると、干されていた布巾に手をかけた。そろそろ食洗機の導入を寮長にお願いしたいところだ。フロイド先輩は「ああ」と納得したように声を出すと、私が食器を拭く様子をじっと見つめる。先程までと一転して、決して手伝ってくれる様子などない。
「ナマエちゃんずっと来てほしがってたもんね」
「そうそう。せっかくだからマレウス……さんも連れてきたらって誘ったんですけど」
そう言うと、作業中の寮生たちの動きが一斉に強ばった。視線が一気に注がれる。皆の思っていることはすぐにわかった。
「正解だったみたい」
「そりゃそうでしょ。でもウミウシ先輩来たらおもしれーかも」
「今度機会があれば呼んでもらおうかな」
一度安堵したようだった寮生たちは、フロイド先輩の発言でまた固まる。私の言葉がトドメだ。
セベクに一度「若様もどう?」と聞いた際、セベクは腕を組んで唸ると、「まずは僕たちだけで下見に行こう」と言ってくれたのだ。下見だなんて、我らがアズール寮長が経営するモストロ・ラウンジをなんだと思われているのだろう。
とにかく、今度もしセベクがマレウス・ドラコニアを連れてくることがあれば、事前に寮内に報告しなければいけないな、と胸に留めた。
「ナマエさん、お客様がいらっしゃいましたよ」
騒がしいキッチンの中で、戸を開ける音は見事にかき消されていた。しかし、明瞭で響きのある声がしっかりと届いた。声の主を見遣ると、私の隣にいる人とほぼ左右対称の人物がこちらを見ていた。背筋がピンと伸びており、これまた対照的だ。
きっとセベクたちが来てくれたのだろう。埃が立たないようにやや早足で副寮長のもとに向かうと、さも当然のようにフロイド先輩が私の後ろを着いてきた。副寮長とフロイド先輩に挟まれると、完全にリンチされそうな雰囲気だ。二人とも背が高すぎる。それにしても――
「なんか最近副寮長の方が大きく見える」
「おや、おかしいですね。フロイドの方が一センチ高いはずなのですが」
「……副寮長の圧かな」
「酷いですねぇ」
「え〜、絶対オレの方がデカいのに」
「一センチだけですがね」
一センチ……にしてはやっぱり副寮長の方が大きく見える。まあ、十七そこらの男の人ってまだまだ身長も伸びるよねえ。成長期ですか? と聞けば、さてどうでしょう、と笑った。フロイド先輩はそうかなあ、と頭に手を置いて副寮長と比べるような動作をとっていた。
副寮長を先頭に、次いで私、最後にフロイド先輩。その並びのまま私のお客様がいらしているという席まで案内されると、予想とはまるで違う人物がそこにいた。
「こんにちは、ナマエ・ミョウジさん!」
「あら」
そこにあったのはミストグリーンや光をよく通すような銀色ではなく、冷たくも見えるガラスのような炎だった。それも、二つ分。お揃いの髪色に、お揃いのイエローアンバーの瞳。珍しい面々に目を何度かぱちぱちさせると、イデアさんの目と視線がばっちり合ったので、軽く微笑むと少し慌てては小さく会釈を返してくれた。
「オルト、来てくれたの? イデアさんもこんにちは」
「うん! 兄さんが僕のボディを改良してくれて、皆と同じように料理が楽しめるようになったんだ!」
「えーっ! すごい!」
食堂でもオルトは来てくれることはあるけれど、一緒に食事ができなくて少し寂しかったんだよねえ。イデアさん、ナイス改良だ。思わず拍手を送っていると、フロイド先輩がイデアさんの座っているソファの背もたれに後ろから体重を預けるようにした。イデアさんが小さく悲鳴を上げたのを、私は聞き漏らしていない。
「ホタルイカ先輩すげーじゃん」
「ええ、流石はイグニハイド寮寮長です」
「アッ……ど、どうも」
「そうだ。イデアさんのその技術でぜひともモストロ・ラウンジにも貢献していただきたく――」
ウツボの圧、怖いよねえ。でかすぎるんだもん。ハウルもそうだけれど、改めて考えるとミドルスクールでは見たことのないような大きさだ。イデアさんも大きい方だけれど、リーチ兄弟のせいでかなり縮こまっている。オルトも助けてあげなよ、と反対側に目を遣ると、足をバタバタと動かしてメニューを眺めていた。かわいい。
イデアさんがちら、とほんの少し目つきの悪い琥珀色をこちらに向ける。一心に見つめてくるので、彼が助けを求めていることはすぐにわかった。シュラウド兄弟、面白すぎるな。
このまま二人に絡まれるのも酷だなあ、とまずフロイド先輩を引き剥がそうとしたところで、床に規則正しいリズムが刻まれた。反射的に一斉にそちらを見ると、淡い灯りがレンズに映り、彼の目元を隠した。
「イデアさん、ようこそモストロ・ラウンジへ」
「あっ、アズール氏。……良かった、助かった」
あの寮長相手を救世主扱いするのはごくごく稀だ。しかしこの空間では無理もない。そもそもイデアさん、もし寮長がオクタヴィネル寮生かつモストロ・ラウンジの支配人でなければ、きっとこの場にいないだろう。それを考えると、アズール・アーシェングロットは「あちら側」なのかもしれない。
「ね、オルト。何食べる?」
「うーん、どうしよう……。やっぱりこのオムライスかな! ね、兄さん!」
「あ……えっと……」
オルトは私がすっかりおまじないをかけ慣れたオムライスを指さす。もう恥じらいなんてものはとっくになく、まさかオルトにこれができる日が来るなんてとガッツポーズだ。一方のイデアさんは、またしても挙動不審。せっかくオルトと寮長がいるのに、と視線を預ければ、またしてもかち合って、元より青白い顔をさらに真っ青にしては急いで逸らされる。思春期の男子か。思春期の男子だ。
「恥ずかしがらなくて良いんですよ、イデアさん。以前一度頼んでいるんですから」
「ちょ、その件についてはあまり触れないでくださらんか」
「照れてるんだよ」
「そうなの?」
照れている顔色ではないと思うけどなあ。むしろ体調不良そのものの顔色だ。オルトの「照れている」発言により、この人をもっと照れさせてやりたいという下心が芽生える。じっとイデアさんの顔を見つめると、キャラのせいで目立っていなかったけれどかなり整った顔立ちをしていることに気がついた。目つきこそ悪く、クマを作り、さらには唇の血色が悪い。けれど、鼻筋は通っているし、目頭も綺麗で、薄い唇は薄幸な雰囲気を醸し出している。この学園で類を見ない美形だ。
「イデアさん、かっこいいね」
「は!? な、ななななにをおっしゃる、ナマエ氏の周りには普段から顔面国宝がごまんといるというのに」
「照れました?」
「ウッ……胃が痛くなってきた……」
ええ、なんで!? イデアさんも十分顔面国宝だと思う。三年生って特に美形が多いよねえ。先輩補正もあるのだろうか。顔を青ざめたままのイデアさんをまだじっと見ていると、長い指が顔を覆った。残念、顔見えなくなっちゃった。寮長が二度杖を床に叩きつけたところで、ハッとして咳払いをした。そうだそうだ、業務中だった。
「こらナマエさん。イデアさんで遊ばない」
「ごめんなさぁい。遊んではないですよ」
「それで、イデアさんはこちらのオムライスでよろしいですよね?」
「無理やり感ありません? 私のおすすめはこっちの限定フード付きメニューです」
「アッ……その……」
私と寮長の押せ押せでイデアさんが困り果てている。美形は美形でもコミュ障美形なの、刺さる人にはめちゃくちゃ刺さるやつだ。かくいう私にも刺さりかけ。イデアさん、かわいい。
寮長がポイント制を導入したは良いものの、スペシャルドリンクとオムライスが強すぎるのでなかなか三ポイントのフードが頼まれない傾向にある。それもあり、最近ではオムライスでポイントをつけるのをやめようかという話になっているのだ。
「それ一番高いやつじゃん。うける」
「だって売れ行き良くないですもん」
「聞こえていますよ」
「こちらのスペシャルドリンクもおすすめですよ」
「副寮長もちゃっかりしてる〜」
「アッ……アッ……」
イデアさん、押されすぎでしょ。それもまあ仕方なし。こんなに客足が少ない日にモストロ・ラウンジに足を踏み入れるっていうことはそれなりの覚悟を持っているのだろう。双子が金色の瞳を光らせている。イデアさんはまた萎縮しては身体を小さくしていた。寮長も、もっと話しやすい空気を作ってほしいところだ。
埒が明かないことを悟ったらしい、オルトがムッとイデアさんとは違った丸い目で睨みつけると、場の空気を変えるように咳払いをした。
「もー兄さんったら……。ナマエさん、オムライスとスペシャルドリンク二つずつお願いしていい?」
「かしこまりました〜。早くオルトが食べるとこ見たい」
「えぇっ、そんなに注目されると恥ずかしいなあ」
オルトは元は生徒じゃなかったとはいえ、イグニハイド寮生らしからぬ性格をしている。オルトにはイデアさんを始め、イグニハイド寮生が感謝しているだろうなあ。何せギアだのなんだのかっこいいし、さらには飲食も可能になってより男の子のロマンをくすぐるのではないだろうか。実際、オルトがうちの生徒になったときは学年中で大人気だった。
そんなことを考えては一人頷いていると、オーダーして間もなく、いつの間にか姿を消したフロイド先輩がトレーにオムライスとドリンクを載せて現れた。
「早! フロイド先輩、作り置きは駄目ですよ」
「作り置きじゃねーし。別に早くもなくね?」
そんなに話し込んでいたかなあ。確かに作り置きとは思えないほど湯気が立っていて、さらには他の寮生には出せないようなふわふわのオムライスがあった。間違いなく、今フロイド先輩が作ったものだ。もしかしたらセベクたちが来てくれるという嬉しさで高揚感が抜けきっていないのかもしれない。パン! と両手で頬を叩くと、イデアさんが肩を揺らした。
「じゃあナマエちゃん、パパッと終わらせて」
「はぁい」
今日はいつもより注目を浴びているのは、あまりにもお客様が少ないせいだ。寮長も、副寮長もこの場に留まっている。イデアさんは周りのお客様の目がない代わりに、前回よりもやりづらさがあるだろう。そんなことは関係ない。
「このオムライス、このままでもすっごく美味しいんですけど、一緒におまじないかけてもらうともっともっと美味しくなるんですよ〜」
いつもの決まり文句を流れ作業のように唱える。慣れに慣れてきて、いつの間にやら最初の頃より文量が増えていた。オルトは無邪気に笑い、フロイド先輩は真顔で、寮長と副寮長は営業スマイルを貼り付けて、そんな中でイデアさんは未だに居づらそうに肩をすくめている。目は合わない。
「ナマエのハートで美味しくなーれ、せーの!」
ハートを人差し指同士でつくっては続きの言葉をシュラウド兄弟に投げる。これ、お客様の反応で百パーセント盛り上がるかどうかかが決まるんだよねえ。どうぞ、と両手で二人に合図すると、オルトは潔く、一方のイデアさんは震える手でハートを作った。
「萌え萌えきゅーん!」
「…………きゅーん」
片方は元気よく、もう片方は消え入るような声でそれに続いた。それにしたって、大進歩だ。まさかイデアさんが弱々しくも消え入るような声でおまじないをかけてくれるなんて。物憂げな声が鼓膜に響いて、想定外にもドキッとした。こっちがきゅーん、だ。イデアさんが乗ってくれるとは、と思わず目を丸くしていると、オルトがはにかんだ。
「へへ、思ったよりも照れちゃうね」
「かわいいよ」
「…………消えたいッ……」
「かわいいですよ」
実際かわいい。おまじないの後の反応含めて、ベリーキュートだ。ぐっ、と親指を立てると、イデアさんは再度両手で顔全体を隠した。その挙動までがかわいい。イデアさんが私より弱いはずなど毛頭ないのだけれど、私の庇護欲が刺激されている。
さて、オルトがどのように飲食するのかと興味津々の私は、オルトの横に腰かけた。フロイド先輩まで他所のテーブルから椅子を持ってきて座っているので、今日は赤字だなと確信を得た。しかし寮長は焦ることもない。流石うちの寮長は器が大きい。
「すごーい! そこが開くんだ」
「そんなにジロジロ見ないでよ、恥ずかしいでしょ!」
「ごめんね、でも興味あるもん。でしょ?」
「クリオネちゃんちょーかっけーじゃん。もっと動いたりすんの?」
よく見るとオルトのマスクには横に切れ目がついており、控えめに機械音を鳴らせば、綺麗に上下に割れた。そこにはギザギザとした歯が覗いており、フロイド先輩や副寮長とはまた少し違う。よく見れば向かいのイデアさんとお揃いだ。視線を向けると、急で驚いたのだろう、ドリンクを飲んでいたストロー越しに音を立てた。
フロイド先輩と副寮長がイデアさんにダル絡みされている様子を見守りつつ、オルトが他にもたくさんの機能を見せてくれる中で、チリンチリンとベルが鳴った。新しいお客様だろう。期待を込めてそちらに一斉に視線を向けると、私が待っていたお客様だ。セベクと、シルバー先輩と監督生にグリム、そして――見間違いかと目を擦った。
「……ジャミルさん?」
「シルバーに誘われてな。……まあ、たまには悪くないかと思って」
絶対にモストロ・ラウンジに来ない人選手権上位に君臨している、スカラビア寮の副寮長の姿が見えた。艶やかな黒髪と絢爛な装飾が揺れている。まさか、同学年のシルバー先輩の誘いとはいえ、ジャミルさんがオクタヴィネル寮のテリトリーに足を踏み入れるなんて。当の本人の笑顔はわずかに引きつっているようにも見え、あまり乗り気ではないようにも感じた。そんな表情をするならわざわざ来なくても良かったのに。
とはいえ、珍しい来客に嬉しい反面、相変わらず胡散臭い笑顔を浮かべる寮長たちを見て、オクタヴィネル寮のテリトリーに足を踏み入れてしまったジャミルさんの無事を、思わず祈ってしまった。