気分屋だから、以前まで私が抱いていた印象のように、きっと誰しも怖いのだと思う。それが例えまだ入学してひと月経つかどうかの一年生でも、部活だか寮だからはたまた風の噂かで、何かしらの怖い印象を抱いているのだろう。
「魔法薬学だったんだねぇ」
「はい。今から古代呪文語で……」
「オレは今から錬金術。そういえば馬術部入ったんだって?」
今日は、というか、最近は機嫌が良いらしく、机を挟んで私の前にしゃがんでいるのはフロイド先輩だ。周りのクラスメイトはそんな私たち、というか先輩を横目にそそくさと教室から出ていった。エペルは私たちが話しているのに空気を読んで先に教室に戻ってしまったのだけれど、気なんて遣わなくていいのに。フロイド先輩、クラスに副寮長や寮長、その他仲良い人がいないって言ってたっけ。そんなフロイド先輩の暇つぶしに見つかってしまったのが、偶然にも前後で教室が被っていた私というところか。フロイド先輩は開きっぱなしの私のノートにタコのらくがきを始めてしまった。あ、左利きなんだ。それにしても、チャイムが鳴って一分足らずなのに移動するのが早すぎない?
「そうです。……ごめんなさい、見学行かなくて」
「正直来ないから次会ったら絞めようかと思ったけど……いいよ、許したげる。馬術部って、金魚ちゃんがいるとこでしょ?」
絞めよう、なんて言葉に戦慄するのも瞬きの間で、金魚ちゃん、という言葉に頭上に疑問符をいくつも飛ばす。金魚ちゃん、というワードは以前から何度か聞いたような気がするけれど、そもそもその金魚ちゃんが誰だかわからない。金魚、ちゃん? 考えに考えて、うーん、とついに唸り始めると、フロイド先輩は変わらない柔らかな笑みで助言らしきものをくれた。あくまで助言に過ぎず、答えは与えてくれないらしかったけれど。
「ほら、いるでしょ? ちっちゃくて赤くて、金魚みたいなの」
「……ちっちゃくて赤くて……あ、リドル先輩?」
「ぴんぽーん!」
すーぐ顔真っ赤っかにしてさ、と付け加えた。私が見た限り、そんなに赤面症というわけではなさそうだったのだけれど、その原因は多分フロイド先輩が怒らせているとかだと思う。こんなこと、とても言えないけれど。ちっちゃくて、というのは割と、逆鱗に触れそうだと思う。それに、時折フロイド先輩から出る魚とかの名前って、あだ名だったのか。意地でも名前は言わないつもりらしい。私は稚魚ちゃん、だったから、確信的というか、固有名ではなかったんだなあ。なんだか残念。私だったらなんてつけられるんだろう。ちょっと、気になったりもする。
「ナマエちゃんが馬に乗れるようになったら、オレのことも後ろに乗せてね」
「う、……頑張ります」
乗れるようになったら、なんて、馬術部なのだからとても後ろに乗せることができる速さではないと思うけれど。フロイド先輩はなんだかんだにこにこ楽しそうに馬に振り回されてそうだなあ。らくがきに飽きて私の髪で三つ編みをつくり始めたフロイド先輩の言葉に、俯いて返事をすると、その小さな三つ編みを解いて手櫛を通された。やっぱり、思ったよりも優しい手つきだ。対応も、私に向ける目だって、甘い。私が恥ずかしさで溶けちゃいそうなくらい。クラスメイトが思っているより怖くないけど、やっぱり最初は怖いよね。細いけれど背も高いし、たまに表情が抜け落ちたり、発せられる低い声だったり。今や気分屋さんなんだな、なんて思えてしまうのだけれど、もしかするとそんな私の方がおかしくて、オクタヴィネルに染まってしまっているのかもしれない。
「ナマエちゃんはマジフト大会、出る気ねぇの?」
「マジフト……あ、もうそんな時期か」
「そー。オレとジェイドは出るんだけど、ナマエちゃんは細ぇし小さいし心配だなぁ」
眉を八の字に曲げると、声色も落ち込ませて、あからさまに悲しそうな顔を見せるフロイド先輩。副寮長と違ってやっぱり、無邪気な人だと思う。作られているようで作られていない、感情が直に反映された表情だもの。心配されなくても、私は出るほどの運動神経なんてないし、そもそも体格差なんかもあるし、対サバナクローなんかになってしまったら一瞬にして捻り潰されてしまうだろう。けれどエペルはメンバーになれるように頑張る、なんて言っていたな。
「私は出ません。多分、向いてないので」
「そう? ならいいけど。引き止めてごめんね。古代呪文語、ちゃんと受けるんだよ」
「ううん、話せて楽しかったです。そんなフロイド先輩こそ、サボっちゃ駄目ですよ」
「そーやってアズールみたいなこと言う」
じゃあね、と言われてぶんぶんと長い腕を私だけに向けて振るフロイド先輩に、二年生からの注目の視線が痛いけれど、私も控えめに手を振ってその場を後にした。
◈◈◈
午後最後の授業の古代呪文語は安定に耐えの時間だった。魔法薬学はクルーウェル先生の声に緩急があるからいいのだけれど、やっぱりトレイン先生の授業は眠くて仕方ない。ただ板書を取って、私語はしてはいけなくて、割と拷問に近い。一年生のうちは座学が多いから、早く二年生になって実践授業に挑みたいところだ。
それと、どういうわけだかクラス内では私のバックにはリーチ兄弟がいるとかいう噂が広まっているそうなのだけれど、以前のモストロ・ラウンジでの一件のせいか、それとも学園で私を見かけると構ってくるフロイド先輩のせいか。まあ、どちらもだろうな。
バッグに古代呪文語の、辞書までとはいかなくとも分厚い教科書を入れてからモストロ・ラウンジに向かおうとしたのだけれど、今日はお休みをいただいていたことを思い出した。エペルは残念ながらメンバーから外れてしまったものの今日は何やらヴィルさんからのご指導があるらしく一緒に帰ったりはできないし、マジフト大会前なのもあって部活も休みだし。昨日入部したことはいいものの、リドル先輩に「入ってくれたところ悪いんだけど、マジフト大会が終わるまで全部活活動停止になるんだ」なんて言われてしまって、もう少し早く入れば良かったなあ。
「……ラウンジの仕事手伝えないかな」
この一ヶ月、なんだかんだ毎日何かしらの予定があったから、何もない日の放課後の過ごし方なんてわからなくて、人が減っていく教室でぽつりと零した。せっかくの週末だし、何か部屋のインテリアを増やすのもありかもしれない。けれど落ち着くのはやはりラウンジでのバイトだった。寮長に連絡を入れようかと思ったのだけれど、寮長がせっかくの慈悲の精神を持って私に休暇を与えてくれたことを考えると、とても申し出ることもできそうにない。
とりあえず困りに困った私がたどり着いたのは中庭で、エペルが最高のサボり場所だって言っていたあのベンチ。林檎は未だに落ちる気配がない。それにしても入学三日目にしてエペルはサボり場所だと“聞いた”というのは、この学園か、それとも卒業生だろうか。エペルも案外友達が多かったりして。
中庭は、結構静かだ。大体放課後になるとどの生徒も部活に励むか寮に帰るかの二択だから、部活動がない今は特に静かなのかもしれない。下は芝生だし、座っても汚れないなあ、なんて、木の下で体育座りすれば、木漏れ日がぽかぽかと暖かくて眠気を誘う。一週間の疲れが溜まっているというのがひとつ、もうひとつはトレイン先生の授業で残った集中力を振り絞ったからだ。
誰も見ていないからと大きな欠伸をして幹にもたれかかったとき、丁度反対側で何やら音が聞こえた。規則正しい呼吸音と、鳥のさえずり。猫でも寝ているのかしら、と覗き込んでみると、そこには整った綺麗な顔が、丁度覗き込んだ思ったよりも近くにあったので、驚いて思わず手を後ろについた。
「シルバー、先輩?」
確かそう。昨日初めて会ったけれど、部活も同じだし、こんなに綺麗な左右対称のお顔なんて忘れもしない。昨日遠くから見ていてもすごくかっこいいと思っていたけれど、近くで見るとより長い睫毛とか、通った鼻筋だとかが際立っていて、本当にかっこいい。シルバー先輩から漂っているのか、柔軟剤ではないフローラルな香りが鼻腔を掠めた。この香り、フロイド先輩とは違う感じで、けれど安心する。私がシルバー先輩の名前を呼んだことで、彼は起きることはなかったのだけれど、周りに集まっていた小鳥やリスはどこかへ行ってしまった。小動物が集まるシルバー先輩、お姫様みたい。
「ふあ……」
そんなシルバー先輩の姿と、自然のようで、けれど甘い花の香りと、木漏れ日の暖かさが合わさったことにより、さらなる眠気を誘った。私もここで少し寝てもいいかな。無防備だと言われてしまえばそれまでだけれど、気持ち良さそうに寝ているシルバー先輩につられるように私も、ここで意識を手放してしまいたかった。すう、すう、と同じリズムで寝息を立てるシルバー先輩は起きる気配がないし、起こさないように、一定の距離を保って、芝生の上に、意識を宙に放つと同時に倒れ込んだ。
◈◈◈
「ん……」
「起きたか」
眠気か乾燥かで、まだ開ききらない目を開ける前に、私の声を聞いてだか、透き通った声が耳に入ってきた。この声は確か、それから地面の柔らかい感触。そうだ、私、シルバー先輩の横で眠ってしまったんだった。はっと瞼を上げると、私を見つめるオーロラが、夕焼けの中で輝いていた。吸い込まれそうに綺麗な瞳だ。
「あ、シルバー先輩……? 私、」
「俺も眠ってしまっていて、たった今目が覚めた」
私を覗き込んでいたシルバー先輩は、私が目覚めたのを確認すると、幹には決してもたれかからずに胡座をかいて座っていた。私も腕で支えをつくって上体を起こしたのだけれど、わ、制服にたくさんの芝が付着していた。いつの間にか日は落ちていて、気温も少し下がっていて肌寒い。腕をさすって身震いすると、「大丈夫か」と声をかけてくれた。お姫様じゃなくて、王子様だったかな。
「暖かくて気持ち良くて、つい寝ちゃいました」
「ああ、俺も同じだ。……いや、俺はいつでもどこでも気がつけば意識を飛ばしてしまっている。授業中も、鍛錬中だって」
笑いかけると、シルバー先輩は笑顔を返さずに、けれどその後の内容は真剣な面持ちで言うでもなく、相変わらずのポーカーフェイスのようなそれで告げられた。それって、ナルコレプシーとか過眠症だったりするのではないだろうか。「実験中にも眠ってしまってクルーウェル先生に叱られることがある」だなんて、本人の不注意とか注意力が散漫とか、そういったレベルではない。病院に行った方が、と言うのだけれど、シルバー先輩は首を横に振った。
「しかし今まででマレウス様の警備や本当に大事なときには眠ったことはないんだ。だから問題ない」
「問題がないことは……ないと思うんですけど」
偶然にも今は眠いのかな、とか、気持ちいいから仕方ない、とかそういう目でシルバー先輩の寝顔を見ていたし、私だって実際そういう気分だったから眠ったのだけれど、シルバー先輩はそうではないらしかった。いつも早く寝て目覚まし時計をいくつもかけて必死で起きて、それから授業中も眠ってしまう。そんなの、他人だけれど心配でしかない。でも解決法なんて、特に知り合ったばかりの私には知り得たものではなくて、だったらシルバー先輩をライバル視しているセベクくんとかの方が詳しいだろうに。いつものことだと表情を変えないシルバー先輩と対照的に、私はなんだか落ち込んでしまった。私に起こったら大事のはずなのに、それを日常の一部とでも思っているようだったから。
「ナマエ」
私じゃ何も声をかけることができないし、本人だって望んでいないのがわかっていたから、視線の行く先をさ迷わせては、膝に乗せた私の指先へと移して、両手の人差し指を合わせたり離したりを繰り返していると、シルバー先輩が私の名前を呼んだ。その天然水なんかより透き通った声に顔を上げると、無表情は変わらず、しかし心做しか和らいだ表情で私を見ていた。
「気にかけてくれて感謝する」
告げられたのはお礼の言葉で、オパールは真っ直ぐ私の目を、目だけを見ていたものだから、また恥ずかしくなる。だって、シンプルに顔面が強いから。それと、こんなにも真っ直ぐ、素直な言葉で感謝を伝えられるなんて思わなかったから。だからつい、煮え切らない返事をしてから、なんとか言葉を繋げた。
「え、と……シルバー先輩のこと全然知らないけど……眠いならいつでも、寝たいときに寝ればいいと思います。私も、できることがあれば調合とかしてみたりしますし……」
例えばなんだろう。ハッカ、とか? そう言えばシルバー先輩は、初めて私に笑顔を見せてくれた。声に出したりとか、噴き出したりとかではないけれど、ふ、と息を洩らすと口角をわずかながらつり上げて、目をほんの少しだけ細めた。不思議で淡いオーロラ色が、初めに会ったときよりも、心を許してくれている気がした。