こんなに集中力が持たないの、初めてだ。
「Bad girl! どうしたミョウジ」
「あ、ごめんなさい、……わからないです」
急に私の名前を呼ばれたかと思うと、暗記することが課題だった薬草の名前二十種類を言うことについて指名されたのだけれど、当然のように頭に入っていたはずの薬草の名前が二種類、三種類目を言った後にはもう出てこなかった。せめてカラスビシャクくらいは思い出せたはずなんだけどなあ、私。その要因はなんとなく心当たりのあるもので、きっと寝不足による集中力の低下だろうと思う。クルーウェル先生は、普段なら私たちを駄犬呼ばわりして鞭を地面に叩きつけるところなのだけれど、覚悟をして下を向いているとその風船が割れたような音が鳴ることはなかった。
終業のチャイムが鳴ると、重い頭を重力に従わせて机につける。当たり前のように覚えて、昨日も復習したはずなのだけれど私、油断してたかなあ。
「ミョウジ」
「ん……? あ、ごめんなさい、答えられなくて……」
「今日はまあいい。それより仔犬、顔色が悪いぞ。保健室で休んできたらどうだ」
「多分、寝不足です」
ここ最近寝不足続きなのだ。顔色が悪いのはきっと、眠気で頭がぼーっとしているから。以前まではいくら寮長が「働きすぎ」と言っても、週に一、二回は休暇をいただいていたし、労働中にももちろん一時間程度の休憩がある。しかし最近は本格的にマジフトへの準備を始めたそうで、マジフト大会に出場する寮生がラウンジの手伝いに入れずに私が連続で入っているのだ。もちろん寮長も、無理は良くないと休暇を勧めてくれたりはしたのだけれど、モストロ・ラウンジでの労働が楽しかったから、フルタイムで働いたりもしていた。そうしているうちに課題が手につかず、ラウンジの営業を終えてから取りかかると当たり前のように日付を超え、という生活をここ数日送っていた。
「ならいいが。決して無理だけはするなよ」
「はい……ありがとうございます」
机に伏せたままに顔だけを上げた私の額をこつんと軽く叩いたクルーウェル先生は、それだけ言って教室から出ていった。クルーウェル先生、鞭振り回したり色々怖いけど、案外細かいことに気がつくんだよね。座学で助かった。これが実技系ならばもっとふらふらで、迷惑をかけていたかもしれない。さっきの魔法史や古代呪文語も、ぼーっと聞いていただけでまるで頭に何も入ってこなくて、板書だってろくに取れていなかった。頭が重くて、持ち上がらない。
「ナマエ……? 大丈夫? 保健室行こうか?」
「ううん、ありがと……大丈夫。お昼食べに行こ……」
ふらついて、おぼつかない足取りでエペルの数歩先を歩き、食堂へと向かった。
◈◈◈
やっぱり食後の体力育成、きついなあ。授業でもマジフトだなんて、私たち出ない組は関係ないのに。けれど来年に備えてだとか、今年のメンバーの練習だとか、そうやってバルガス先生は言っていた。それに今日は合同授業で、グラウンドは一年生で溢れかえっている。まあ、初回のグラウンド二十周とかよりは何倍も、何十倍もマシなのには変わりないんだけど。
「はあ……」
「ナマエ、やっぱり体調悪いんじゃ……」
「んー、平気。この後ラウンジも行かなきゃだし」
寝不足なんかでへばっていられない。昼食すらもあまり胃に入らなくて、というか胃が拒否をして、エペルがかろうじて何か入れた方が良いとうさぎの形に切った簡易な林檎を渡してくれたので、それを数切れ詰め込んだ程度だった。そもそも胃を満たした状態で体力育成に挑むというのも、経験上あまり良くないのだけれど。それにしても、頭が痛いなあ。ガンガンするというか、前頭の部分が痛くて、目頭のあたりを押さえた。
「ナマエ、次試合だけど……いけそう?」
「あ、もう私の番? 早いなあ……大丈夫。眠気覚ましにいってくるから」
木陰で体育座りをしていた私は、立ち上がると案の定その場でふらついてしまって、エペルはすかさず私を支えた。無理だったら早く先生に言うんだよ、とだけ告げられる。けれどこんなところで倒れていられない。明日はラウンジでの仕事が休みだから、今日だけの辛抱なのだ。学校はあるのだけれど。
ありがとうね、と言ってエペルから手を離すと、陽だまりの手入れされた芝生へと出た。
「なんだナマエ。お前と対戦か」
「あ、はは、セベクくんだ。頑張ろうね」
「もちろんだ! 決して若様の治めるディアソムニア寮の名に泥は塗らない!!」
まだマジフト大会本番ではなくてただのお遊びに過ぎないんだけどなあ。ぼんやり考えて、定位置に着いた。この熱意ならセベクくん、メンバーに選ばれそうだなあ。シルバー先輩も出るって言ってたっけ。私は別に出たいとも思わないし、特に全国中継だなんて女がいるなんて知られたら世間になんて言われるやら。
そうこう考えているうちに、バルガス先生が笛を鳴らした。鳴らして、じゃんけんに勝ったオクタヴィネル寮から攻めていく。攻めていく、のだけれど。
「ナマエ! パス!」
同じ寮の生徒が私にパスをして、私はそれを受け取っては魔法でゴール近くにいる寮生にパスをする。その、予定だったのだけれど。一直線に飛んできたディスクを受け止めきれず、私の身体に直撃してしまったそのまま倒れた。おかしいなあ、前に授業でマジフトをしたときはもっと上手に受け止めて、綺麗にパスも繋げられたのに。そのまま視界がぐら、と揺れて、グラウンドに倒れる。もしかすると、バルガス先生と相当相性が悪いのかも。地面が芝生だったおかげで倒れても痛くはないのだけれど、とても起き上がれない。何より、身体が重くて、熱い気がする。
「ナマエ!!!」
真っ先に駆け寄ってきたのは、きっとこのうるさいのはセベクくんで、それに続いてコート外で見ていたはずのエペルの声も間近に聞こえた。セベクくんが私の上体を起こすと、首に手を当てた。わ、ひやっとして、冷たい。というか、やっぱり私が熱いのかもしれない。呼吸は荒くなるし、重力が何倍も増したみたいに身体も重い。これ、寝不足じゃなくて、やっぱり、
「バルガス先生!! ナマエ、熱があるみたいだ!!」
「む、なんだと?」
エペルは私の空いた手を軽く握ってくれていて、やっぱりこちらも冷たい。私、寝不足じゃなくて熱があったんだ。今日もオクタヴィネル寮のマジフトメンバーは練習に勤しむはずなのに、私はこんな簡単に体調を崩しちゃって、駄目だなあ、私。丁度授業が終わったみたいで、チャイムが鳴る。ざわざわと私の周りにギャラリーが増えていくのだけれど、もちろん見世物ではないので、エペルが華奢な身体で私を隠して、バルガス先生はクールダウンした人から帰るようにと促した。
「ごめんねセベクくん、試合中断させちゃって、」
「気にしている場合か! 寮まで運んでやる」
「でもホームルームが……」
「オレがお前たちの担任に伝えておいてやる。頼んだぞ、ジグボルト」
ぱらぱらと生徒が校舎内へと戻っているのを見ると、私は宙に浮いて、そのまま大きな背中へと身を預けるかたちとなった。あ、おんぶだ。なんか懐かしいな、お父さんみたい。落ちないように思いきり体重を預けるけれど、重くないかな。でも男子校だし、他の男子に比べたらもちろん軽いだろうな。やっぱり人間は弱い、とか、そんなこと思ってるのかな。セベクくんの手がどうしようかと行き場に困って、宙をさまよったかと思うと、控えめに足に添えられた。そういうところはやっぱり男の子なんだなあ、セベクくんも。
「ナマエ、明日も体調良ぐならねば連絡しろよ。でぎればで大丈夫だはんで」
「うん……何から何までありがとうね。林檎美味しかった」
エペルの方言が炸裂だとかは気にならないくらいに優しさが染みる。セベクくんは案外気遣いのできる人で、なるべく私の肌に触れないようにして、それから少ない振動で校舎まで運んだ。流石、マレウス・ドラコニアに忠誠を誓う騎士さんだ。騎士さんは、どちらかといえばシルバー先輩の方が合うかな。あの人、お姫様で王子様で騎士だなんて、一人でRPGできちゃうよ。セベクくんの首元は少し汗の匂いがして、体力育成だったから仕方ないけれど、もしかすると私もそんな匂いがしてるのかな。だったらなんだか、申し訳ないな。
「……セベクくん」
「なんだ」
「……ありがと」
「……セベクでいい」
ふふ、距離が縮まったみたい。本当、入学してからこの学園の人にはお世話になりっぱなしだなあ、私。私も何か恩返しができればいいんだけど、セベクくん……セベクとエペルにはモストロ・ラウンジで特別メニューでも提供しようかな。言ってみたかったんだよねえ、給料から引いといてくださいってやつ。
「セベク」
「そんなに近くで呼ぶな!!!!」
「ふ、ごめん」
セベクでいいって言ったから呼んだのに、いざ呼んだら一瞬フリーズしてから急に怒鳴るの、面白いよね、セベク。前向いてるのに声もめちゃくちゃ大きいし。鼓膜が破れて血が出るかと思ったよ。この呼び方もまだ慣れるまで時間がかかりそうだけど、なんか、友達って感じがする。お礼に今度美味しいパンケーキ、出してあげるね。それまでにフロイド先輩にふわふわのスフレパンケーキの作り方、教えてもらうから。
ずっと同じリズムで揺れるのが心地良くて、いつの間にやら、そのまま眠りの世界に漂い込んでしまった。
◈◈◈
額がひんやりして気持ちいい。かと思えば頬も、首も、熱を持ったところがすぐに冷却されるように感覚で、けれど熱を分け与えているような感覚もあって、程よい冷たさがただただ気持ちよかった。夢を見た気がする。なんだっけ。私の好きな、落ち着く香りに包まれた気がするし、私の落ち着く場所に降り立ったみたいな、そんな安心する夢。
「んっ……」
今度は私の熱のこもった手の甲がまた、ひんやりとした、セベクやエペルよりも冷たくて気持ちのいい感覚で包まれたから、それを合図にしたみたいに、重い重い瞼を徐々に上げていった。すると、やっぱり一番初めにぼやけた視界に飛び込むのは、印象的な金色。次いで揺れる青色の鱗みたいなピアスだった。
「ナマエちゃん、おはよー」
「ん……フロイド先輩……?」
「うん。フロイド先輩だよ。ディアソムニアのワニちゃんが連れてきてくれたんだ。ここナマエちゃんの部屋ね」
ワニちゃん、はきっと、セベク。ワニって、急に川じゃん。あれ、海にもいるんだっけ。そしてここは私の部屋で、ベッドの中。私の部屋、散らかってなかったっけ。と思えば、この間ネットショッピングでいくつか小さな家具を買って、それが届いたときにある程度整頓できたから、どうやら汚い部屋を見られた心配はなさそうだった。そんな私の考えていることを読み取ったのか、フロイド先輩は「オレの部屋はもっと汚ぇの」なんて無邪気に笑ったから、つられて笑顔になる。フロイド先輩が、私の看病を? サイドテーブルにはコップに入った水と、切り分けられた林檎……じゃなくて、梨が置かれていた。エペルが見たら「この浮気者!」なんて言いそうだ。なんてね。
「それ、ジェイドが切り分けてくれた」
「副寮長が……」
「食べずにナマエちゃんが起きるまで我慢してたの、えらいでしょ」
「うん……えらい」
熱に浮かされると、上下関係だとかそういうのが飛んでしまうのか、けれどそんなことは私にはどうでもよかったから、寝癖がついたターコイズブルーを何度か撫でた。フロイド先輩の表情とかも、知ったことではないのだけれど。はい、あーん。そうして口に梨を放り込まれると、みずみずしくてさっぱりとした味が広がった。それから少しして、違和感に気がつく。フロイド先輩が私の部屋にいて、副寮長が私に梨を切り分けて、それってもしかして、
「せんぱ、マジフトの練習は……」
「は? 休んだに決まってんじゃん」
「…………ごめんなさい」
「なんで謝んの? なんも悪いことしてねぇじゃん」
いや、悪いことなんですって、これ。マジフト大会までおよそ一週間で、全国から注目されるともなると寮のアピールチャンスだし、内申なんかにも響いてくると思う。もっとも、内申なんて言葉に惹かれるのはオクタヴィネル寮の中だけだと寮長くらいだと思うけれど。しかし、あからさまに不機嫌な顔をして、まるで私が間違っているかのように言うフロイド先輩は、私の顔に手を伸ばしてきたので、反射で目を瞑れば、その冷たくて長い指は私の額へと下りた。汗で張り付いた前髪を整えてくれているそう、だった。
「マジフトも楽しいけど、オレもジェイドもナマエの方が心配だったの。わかる?」
「あ、……う、」
「わかる?」
「わ、かる……」
今度は責めるような目じゃなくて、真剣そうな目で、私を見つめた。そんな至近距離で見られたらなんか、ぞわぞわする。私の返事を聞いたフロイド先輩は、指で私の髪を掬っては梳いて、いつもみたいな、砂糖菓子みたいに、蜂蜜みたいに甘い瞳で私を見てくれて、熱が上がったような感覚に陥った。思わせぶりの天才だなあ、フロイド先輩は。ラウンジの手伝いも休むことになってしまったのだろうし、フロイド先輩いわく「アズールが働きすぎだって怒ってたよ」なんて。それに関しては何も言えないし、使い物にならなくなってしまって罪悪感に苛まれる。けれど今日くらいは、この優しさに甘えてしまいたい。特にここ一週間、会うことが格段に減っていたから、その反動で。どうせなら、思いきり、心のままに甘えてしまおうかな。
「……熱、移りますよ」
「いいよ、ナマエちゃんのなら」
「……ピアス、かわいい」
照れ隠しで発した言葉に、またそうやって甘い言葉をかける。反論しても、さっきの二の舞だと思ったから、まるで噛み合っていない返答を送って、フロイド先輩の右耳で揺れるピアスに触れた。副寮長とお揃いなの、かわいい。仲良しな双子だなあ、ほんと。指先でピアスを揺らしていると、フロイド先輩は私の指先に自身の指先を重ねて、耳たぶに触れさせた。わ、やっぱり冷たい。
「ジェイドと陸に来たときに開けあいっこしたんだ」
「陸……あ、人魚?」
「そうだよ? 知らなかった?」
「だから体温低いんだあ、フロイド先輩」
それなら納得。ああ、たまにフロイド先輩が寮長のこと、タコちゃんって言ってるのってあだ名にしては腑に落ちないと思っていたけれど、本当にタコの人魚なのだろうか。もしかしてオクタヴィネル寮に私みたいな純人間って、珍しかったりするのかな。サバナクローには獣人が多いみたいに、この寮には人魚が多いのかなあ。だったらますます料理に魚介を出すのって、慈悲の精神の欠片もないじゃない。フロイド先輩と副寮長は、どんな人魚なんだろう。ふふ、気になる。
「なに、オレの人魚姿見てぇの?」
「ちょっと、見たい」
「ふぅん。そのうち薬切れて耳とか手から人魚に戻るけど」
「ふ、ふふ、ちょっと気持ち悪い」
人魚って、耳は人間じゃないのかな。指も、人間じゃないのかな。身長はそのままなのかな。もし耳が人間じゃなくなるなら、ヒレでも出てこようものならそれは気持ち悪くて、つい笑みを零してしまったのだけれど、熱に浮かされているおかげなのか、こんな失礼なことを言っても軽く抓られるだけで済んだ。それでも少しだけ、痛いけれど。
「ナマエは海、好き?」
「……好き。いつか珊瑚の海も、見てみたい」
「そっか。じゃあまたオレが連れてってあげる」
フロイド先輩が私を海に連れていくと約束してくれた声は、角砂糖十個なんかよりも余程甘くて、優しくて。私の睡眠薬になるらしかった。熱は気のせいかそうでないか、下がってきた気がする。けれど眠気ばかりにはどうも勝てないみたいで、瞼が次第に重くなって、微睡みに落ちそうなのをさらに促すように、フロイド先輩の冷たくて大きな手が、深海よりもさらに暗い、けれど心地良い場所へと誘った。