罌粟花の揺らぎ

 重力が私を、私たちを見放した。身体が確実に落ちているのに、内臓だけはその場に取り残されたように浮き上がる。ぎゅうと手に力を込めると、よりいっそう抱き寄せられて、シルバー先輩の存在が近くなった。
 ドキドキが止まらない。このドキドキがシルバー先輩に対してだったら良かったのに、残念ながらこの現実離れした状況、フリーフォールのような浮遊感に対してだった。悲鳴が宙に放たれる。私のものと、セベクのもの、それからグリムと監督生のものだった。

 すると広大な海の上――私たちはボートの上に着地をした。頭がぐるぐる回って、足元がおぼつかず甲板の上でふらふらと身体が揺れる。気持ち悪すぎる。夢の旅がまさか、こんなに過酷だとは。これがあと何回もあるのかと考えると、気が遠くなった。

「うぅ……うえぇ」
「ナマエさん、大丈夫?」
「無理無理無理無理……皆、これ何回もやってるの? うっ、やばすぎ」
「僕も慣れるまでは時間がかかった……」
「オレ様はちっとも慣れてねぇんだゾ……」

 手で口もとを覆うと、オルトが私の背をゆっくりさすった――のもつかの間私たちは硬い地面に打ちつけられた。かと思えば、目の前が真っ白に泡立った。転々とする状況を理解するのにわずかに時間は要したが、すぐに私たちの乗っていたボートが転覆したのだと気がついた。

「がぼごぼげべべ! 息が出来ねぇんだゾ〜〜!」
「うっ……気持ち悪ぅ……」

 グリムや監督生がその場で暴れる度に、視界が揺れてより吐き気が襲ってくる。ボートの転覆が酔いを助長した。吐けるものならこの場で吐いてしまいたい。それを止めているのは、私の優秀な理性だった。ナイトレイブンカレッジの紅一点、イレギュラーの私が顔見知りの同級生や先輩方の前で吐瀉をしてしまうなんて、例え夢の中でもできるはずがない。ぐっと唾液を飲み込むと、その場で深呼吸をした。

「――水の中なのに、普通に声が出ている?」
「本当だ! 呼吸ができるぞ」

 言われてみれば、確かに海の中なのに沈まないし、呼吸も容易い。ここもオクタヴィネル寮と同じような空間なのだろうか、それとも夢の中特有のものなのかなあ。ぐっと伸びをすると、何か薄い膜に手が当たる感覚があった。驚いて腕を引っ込めて、恐る恐る手を伸ばすと、今度は私の輪郭に沿って膜が伸びていった。

「魔導ナノエアマシーンで作られたエアドームだよ」

 どうやらこの膜に覆われていたのは私だけではなく、その場にいた皆が不思議そうにあたりを見回していたところ、タブレット越しに声が響いた。なるほど、どうやら私たちが海中にもかかわらず呼吸ができ、服の重みで沈まないのはこの膜のおかげらしい。つい感心の息が漏れた。

「これイデアさんのおかげなんだ。てっきりオクタヴィネル寮と同じ理屈かと思った」
「あー、だからナマエ氏はそんなに驚いてなかったのか」
「でもこれ便利ですね。魔法薬飲まなくても海のお散歩ができるんでしょ? イデアさんも今度一緒にアトランティカ記念博物館行きましょ」
「いや、拙者はパス……というかこれは夢の中だから実装できているのであって、現実はまた別というか」

 えーん、残念。きっとまた寮長に魔法薬を貰おうものならお代は高くつくだろうし、いい案だと思ったんだけどなあ。
 それにしても、六人と一匹、そしてタブレット一台が乗っていたボートが容易に転覆するほどの風は吹いていなかったはずだ。何かしらの海中生物に転覆させられた、という方が正しいだろう。鼓動がわずかに速まったのがわかった。それは良い予感でもあり、悪い予感でもあった。その予感が確信に変わったのは、オルトの言葉によるものだった。

「前方十メートル先に霊素反応あり。体長、およそ四メートル! あの大きさ、ボートを転覆させたヤツに間違いない」
「四メートルだと? かなりの大物だ。魔法で確実に仕留めるぞ!」
「……多分それって」

 ここは誰の夢の中か。そしてオルトの言う霊素シグナル。それらを鑑みれば、その正体を想像するのは簡単だった。皆がマジカルペンを構える中、私だけが大きなしゃぼん玉の中で腕組みをしていると、シルバー先輩がエメラルドに光る警棒型のマジカルペンを構えたまま私の様子を窺った。

「ナマエ、どうかしたのか?」
「んー……私の予想が合っていれば、なんですけど」

 四メートルって、絶対そうだよねえ。監督生やグリムは実物を見たことがあるはずだけれど、それに気がついた様子なんて微塵もない。もしかすると、私の予想が外れてしまっているのかもしれない。早とちり、かなあ。
 腕を組んだままううん、と唸っていると、セベクがつり上がった眉をさらに吊り上げては鋭い眼光をこちらに向けた。

「何をごちゃごちゃ言っている! ナマエ、貴様もマジカルペンを構えろ!!」
「はぁい」

 本当にそこにいる霊素シグナルとやらがサメなんかだったら冗談にならないから、皆に倣ってマジカルペンを掲げる。魔法石が、差し込む光を受けてきらきらと瞬いた。いつ攻撃を受けてもいいように、頭の中であらゆる攻撃パターンを想定する。
 しかし、海底にはただ沈黙が広がるだけだった。一同がこの状況に眉をひそめると、シルバー先輩が先陣を切って転覆したボートへと近づいていく。

「……さっきからピクリとも動かない。仕掛けてこないのなら、こちらからいかせてもらおう」

 皆は未だマジカルペンを構えたまま、じりじりと間合いを詰めていくが、私はすっかりマジカルペンを下ろしては、一歩引いて後に続いた。
 どうやら、私の予想は的中したらしい。

「はぁ〜〜〜〜〜〜〜……だり〜〜〜〜〜〜〜……」

 いつもの三倍くらい間延びした声、しかし聞き馴染みのありすぎる声。安堵感と昂揚によって、より鼓動が速まった。私以外はぴんと来ていないのか、その声の正体を思い出すように目をぱちぱちさせた。もう皆、愛がないなあ。
 ジャミルさんが眉をぐっとひそめると、目を凝らしてボートを見た。

「こ、この声は……どこかで聞いたことあるような?」
「……ほらやっぱり」
「やっぱりって……まさか」

 そのまさかです。さっきも夢で会ったのに! しかし確かに、そこにいるであろう人物の声色はいつもと少し違っていた。
 答え合わせをするように、ボートの陰からぬっと長い影が伸びてきた。青みがかった白い肌、そしてそこに浮かぶ細かな鱗。長い尾びれ。見慣れないその姿の中でも特に見慣れたのは、金色とオリーブ色をした瞳だった。

「フロイド!?」
「ん〜……オレのこと知ってんのぉ?」

 グリムとジャミルさんの見事なハモりに、人魚姿をしたフロイド先輩はゆっくりと視線を向けた。うーん、妙だ。他人の夢を覗き見るのは初めてだけれど、確かに夢によっては設定や年月が異なることは珍しくない。この世界のフロイド先輩は、まだミドルスクール生なのだろうか。それにしたって、あまりにも無気力だった。
 フロイド先輩の反応を不審に思ってだろう、探るようにジャミルさんは口を開いた。

「俺はジャミル・バイパーだ。同じ二年で、バスケットボール部所属だっただろう」
「あぁ〜……なんかそういえばそんなヤツも学校にいたかも」

 彼の言葉に、一同が顔を見合わせた。ということは、この世界のフロイド先輩はナイトレイブンカレッジに通っている――もしくは、「いた」という過去形からして、ナイトレイブンカレッジ卒業後の可能性もある。
 同じ学年、同じ部活のジャミルさんのことをここまでしか覚えていないなんて。しかし、私はナイトレイブンカレッジ生の中でもフロイド先輩とは特に仲良いという自負がある。もちろん寮長たちには敵わないけれど。自信と、どこか不安を抱えながら、セベクの背からゆっくりと顔を出して自身を指さした。

「フロイド先輩、あの、私は?」

 漠然とした不安の中に、それよりも大きな期待をもってそう言った。フロイド先輩が、いつものようにぱあっと目を輝かせて、私の名前を呼んでくれるんじゃないかって。そしてそのままこっちに近づいてきてくれるんじゃないかって。
 そんな期待は、いとも簡単に弾けた。

「え〜……誰だっけ。メスはうちの学校にはいなかったはずだけど」

 嘘でしょ。

 ついその場に身を放り出すと、先程までその場に浮かんでいたのに、途端に私の身体は重力に従って海底へと沈んでいく。覚えられていないほどの関係性に、何よりあの視線。私に今まで向けられたことのない、冷たい視線が耐えられない。
 音を立てて空気が抜けていくような私に、オルトが慌てて駆け寄ると私の身体を支えた。

「ナマエさん! しっかり!」
「うわっ、ナマエ氏が今まで見たことないくらいの放心状態なんだが……」
「終わった……終わった……」

 悪夢だ。そこにいるフロイド先輩が本物だとわかっているのが、余計に絶望を誘う。私に向けられた、あの興味なさげな表情。光のない金色の瞳。夢にまで出てきそうだ。オルトに支えられながらその場にぷかぷかと浮いていると、シルバー先輩が肩に手を置いた。こんな絶望的な状況の中でも、相変わらずの端正な顔立ちだった。

「ナマエ、これは夢の中だ。普段のフロイドとは違う」
「わかってますけど……」
「シルバーの言う通りだ。おそらく普段ナマエが接しているフロイド先輩とは違うのだろう。受け入れたくないのはわかるが、しっかりしろ」
「優しい……」

 頼りになるなあ、ディアソムニアコンビ。フロイド先輩だって、この夢から醒めてくれさえすれば、いつものフロイド先輩に戻るはずだ。二人と目を合わせて頷くと、彼らも頷き返してくれた。
 それから、今の状況を探るべく、夢を渡り慣れたシルバー先輩が口を開いた。

「フロイド、アズールやジェイドはどうした? いつも一緒だろう」
「えぇ〜……別にいつも一緒じゃねーけど」

 オクタヴィネル寮生の私から見てもいつも一緒なのだけれど、フロイド先輩的にはそうではないらしい。
 どうもこの夢の中では、アズール寮長たちはモストロ・ラウンジの事業を拡大させているらしい。しかしフロイド先輩から紡がれる言葉の不確定さが、フロイド先輩らしいといえばらしいが、らしくなかった。あらゆるものに興味を向けるフロイド先輩が、こんなにも興味なさげに話をするなんて。

「お前は一人で海に戻ってきたのか?」

 そして何より、投げられたジャミルさんの疑問は私の疑問でもあった。寮長や副寮長といることをあんなにも楽しそうにしていたフロイド先輩が、一緒にいることをやめるだなんて。
 フロイド先輩はジャミルさんの言葉に対して少し間を空けると、怠そうに唇を開いた。

「だって、つまんねーから」

 その言葉に、一同は首を傾げた。あの二人と一緒にいるのがつまらないなんて。そしてどうやら、モストロ・ラウンジの事業が成功しているのも喜ばしいことではないらしかった。そして、続いて紡がれた言葉はこうだった。

「だって、何やっても上手くいくんだぜ……はぁ……」

 またしても、一同は首を傾げる。そんな私たちに目を向けることはなく、フロイド先輩は深く溜息をつくと、泡を目で追った。

 フロイド先輩が淡々とこれまで夢の中で経験してきたことを語った。ナイトレイブンカレッジでの生活も上手くいき――上手くいきすぎてしまい、世界一周旅行に出たこと。輝石の国、陽光の国、熱砂の国、夕焼けの草原に薔薇の王国、茨の谷……。名の通り、世界一周旅行をして、ファッションモデルや料理人として大成功した挙句、かの有名なランプの魔人に出会った、と。夢の中で満喫しすぎている。
 しかし奇妙なのは、それだけ聞けばすごく楽しそうな夢なのに、彼はまったくもって楽しそうではないところだ。

「――ってわけで、陸に飽きちゃったから海に戻ってきたんだ〜」

 うーん、腑に落ちない。いつもはあらゆる事物に興味をもって、「やっぱり陸って面白いね」と笑うフロイド先輩が陸に飽きるだなんて。陸での生活が長い私でもまだまだ知らないことや経験していないもので溢れているのに。
 フロイド先輩の夢の中ということもあって、フロイド先輩の知っていることや経験したことがあるもの、想像できるものしか反映されないせいだろうか。その場で考え込む私をよそに、フロイド先輩は沈没してしまったボートにゆっくりと視線を移した。

「さっきは海面のほうが騒がしいから、久々になんか面白いことがあるかもって見に行ったんだけど……ボートをひっくり返してみたら結局知ってるヤツらだし……」

 なるほどねえ、それが目的にわざわざ私たちを転覆させたのか。
 ――それよりも、フロイド先輩の何気ない言葉は先程の私の絶望を希望に変えてくれるものだった。いやあ、夢の中といえど、私の存在が薄いものになっているのは耐えがたい。少しずつ少しずつ詰め寄って、今度はジャミルさんの背後からそちらを覗き込んだ。

「それって私のことも知ってる?」
「え? あー、うん。見たことある気がする」
「見たことあるだけ……いやでも、進歩……進歩……」

 相も変わらず冷ややかな視線。不確定な言葉。しかし、先程の言われように比べればかなりマシだ。そう言い聞かせながらもやはりショックは隠しきれない。大丈夫、大丈夫とぼやく私に、ジャミルさんは溜息をついた。

「どうしてわざわざ傷口を広げるような真似をするんだ、君は」

 いやもう、こんなに面倒くさい性格で本当にごめんなさい。けれど、この夢でフロイド先輩と邂逅するまでは少しも予想していなかった対応だ。今だけは大目に見てほしい。
 すると、ずかずかと私とフロイド先輩の間にひと際大きな泡を立てて、大きな妖精さんが割り込んできた。いつも通り、眉を吊り上げて、への字口を大きく開いた。

「貴様、興味本位で僕たちのボートを転覆させたということか!? なんと迷惑な!」
「あ〜〜〜〜〜……なんか面白いことねーかな……」
「おい、無視するな!!」

 セベクが無気力なフロイド先輩に翻弄される。こちらを翻弄してくるフロイド先輩は通常運転だが、まるで性格が違っている。こんなにもつまらなそうなフロイド先輩、初めてだ。
 セベクが大きく声を張り上げると、フロイド先輩はぐぐっと眉をひそめて、これまた大きく溜息をついた。

「はぁ…………うっざ。もうお前らと話すの飽きたし、どっか行ってくんね?」
「は、はぁ!? あ、飽きた……っ!?」
「うっ、飽きられた……!!」

 フロイド先輩の心底気だるそうな声色とその言葉に、私とセベクはほぼ同時に声を上げた。お互い、違った感情を孕んでいるとは思うけれど。
 フロイド先輩に飽きられるなんて、オクタヴィネル寮で今後生活できない。もはや夢と現実が混同しつつあった。

「フロイド氏よりナマエ氏のSAN値が心配ですな」
「そうだね。早めにフロイドさんを夢から醒めさせてあげないと」

 イデアさんとオルトが私の背後でこそこそと話すのが聞こえる。大きく声を張り上げるセベクに、溜息をつくジャミルさん、そしてこの状況をどうするべきかと一心に考えるシルバー先輩に、放心状態の私。もちろんフロイド先輩はそんな私たちから興味を失い、ついにはその場で海藻と一緒にそよぎ始めている。挙句の果てには魚に啄まれるという始末だ。
 こちらから興味を削がれてしまっては、フロイド先輩を夢から醒めさせるのは難しいのではないだろうか。すると、イデアさんが背後から何か納得したように、小さく声を上げた。
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