淋しさが愛しくて

むわりと湿った空気が肌を撫でて、遮断したままだった視界が徐々に機能する。
実家の居間に立ちすくむ私と数歩先に見える両親の亡骸に、ああ今夜はそうなのか、と思い至る。

満月の夜、必ず夢を見る。
頻度が格段に増えた事で、ようやくその法則性に気が付いた。
ここ最近は忙しさを理由に、満月の夜は意図的に睡眠を取らないようにしていたのだ。
久々に見る夢は以前よりも感覚が更に現実と近しいものになっていて、空気や匂い、感触までもあの日とまるでそっくりだ。

「…ごめんなさい」

私がもう少し早く気が付いていれば。守れるくらい強かったなら。こうして私だけが生き長らえる事などなかったのに。
両親亡き後幾度となく抱いた罪悪感がまた沸々と込み上げる。
口をついて出た思いは、暗く静かな空間に一瞬で溶けて消えていった。


『そんな謝罪に何の意味がある』
「え…?」


突然聴こえた言葉に、俯いていた顔が反射的に上がる。
抑揚のないその声は直接頭の中に刷り込まれるように響いて、脳内に反響し続ける妙な感覚に眩暈がする。声の主を探そうと辺りを見回しても、この場所に私たち家族以外は見当たらない。
今まで何度もこの夢を見てきたけれど、こんな事は初めてだ。二人の姿を見て心苦しさを覚える頃に汗だくで目を覚ます、というのが毎度の決まり事だったのだ。

心臓が嫌な音を立て始めたかと思えば、金切り声のようなけたたましい耳鳴りが鼓膜をつんざく。思わず顔をしかめると、また無情な言葉が思考を荒らす。


『罪滅ぼしの懺悔で自分だけ楽になろうというのか』
「っ、そんな事…!」
『ない、と言い切れるのか?中途半端な罪悪感を盾にしている弱者め』


容赦なく心を抉るその声に聞き覚えはない。口調は一貫して淡々としているけれど、その裏側に鬱積や義憤を堪えているようだった。
何度も同じ夢を見るのは何かの暗示だと、いつかの師範はそんな事を言っていた。ふと脳裏をよぎった師範との会話がさらに記憶を鮮明にしてゆく。
この夢の原因は、単なる私の過去の記憶によるものか、それとも。


『まだだ…まだ足りぬ、もっと苦しめ』
「まさか、鬼…!?どこに、」
『お前が絶望を味わうその時が楽しみだ』
「…っ、」

走ってもいないのに息が切れ、乱れる呼吸と共に視界が霞んでいく。
混濁する意識で必死に鬼の居所を探るものの、在りし日に家族で過ごした空間がみるみるうちに闇の渦へと飲み込まれていってしまう。
足元がぐらついて体勢を崩し、ぽっかりと空いた渦の中心へと体が放り出された。咄嗟に伸ばした手は真っ暗闇の中で空を切るばかりで何も掴めない。

夢なら早く覚めろ。そう懇願しながらも、もしかしてこれは現実なんじゃないかとも思えて。
何もかもが真に迫りすぎていて錯覚してしまう。夢なら夢らしく、幻想を見せてくれたっていいのに。
いっそこのまま、渦の底へと堕ちてしまえたら。そこでお父さんとお母さんが待っていてくれないかな。
一度そんな都合の良い事を考えてしまうと、足掻いていた四肢は呆気なく空間に身を委ねてしまった。暗闇に奪われた視界も、どうせ見えないならと諦めて瞼を閉じる。

走馬灯のように駆け巡る幼い頃の記憶には、どこを切り取っても両親が隣にいた。
もし二人にまた会えたら、あの平穏な日常に戻れるのかな。
大好きだった温かい笑顔で、私の名前を呼んでくれて。お父さんの大きな手とお母さんの優しい手が、私を包み込んで抱き締めてくれて。
それからずっと三人で、このまま。



「…ちゃん、」



誰かの声がほんの微かに聞こえた気がして、すでに重たくなりつつある瞼を薄く開ける。
すると頭上の遥か遠く、何も見えなかったはずの暗闇に一点だけ、針で刺したような光が差し込んでいた。
一筋の糸のようにまっすぐ私の体を照らすその光に、脱力していた腕が引き寄せられるように伸びていく。
光の筋と手の平が重なって影を作った瞬間、とくん、と心臓が鼓動する音がした。


そうだ、私は生きている。

辛くても、苦しくても、生きていく。
これ以上奪わせない。諦めない。

脈打つ胸の音に呼応するように、一層光は強くなり辺りを眩く照らしていく。
もっと呼吸を、酸素を体に廻らせて、大きく息を…




「っ名前ちゃん、」


深く息を吸い込んだところで、はっきりと聞こえたのは私の名を呼ぶ声だった。
私の手を包み込むように握るその人を視界に捉えて、ゆっくりと息を吐き出した。

「…善逸、」
「よかった目が覚めて…急に心音弱くなってくし、どうしようかと思った」
「ごめん大丈夫、」
「ちょ、いきなり動いちゃだめだってば!ひと月も意識無かったんだよ」

起き上がろうと思い身じろぐと、善逸はすぐさま背中に手を添え支えてくれた。
遊郭での戦闘で気を失ったきりまさかひと月も寝ていたとは。
窓から差し込む月明かりと静まり返った屋敷の様子から、結構な夜更けである事が窺える。
迷惑にならないよう、若干声を落とし気味に発する。

「善逸は…怪我治ってるね、よかった」
「うん、明日から機能回復訓練にも参加できるし」

瓦礫に潰されていた脚が気がかりだったけれど、どうやら後遺症もなさそうで胸を撫で下ろす。
聞くのがすこし怖いけれど、気になるのは他の仲間の事。小さく息を吐いて、恐る恐る問いかけた。


「…みんなは?」
「宇髄さんと嫁さん達は無事だよ、戦いの後自力で歩いてたらしくてさ、バケモンかよって」
「す、すごいね」
「でも炭治郎と伊之助はまだ意識戻ってないんだ…二人とも傷が深かったし、伊之助は毒のせいで呼吸で止血するのが遅れちゃったみたいで」
「…そうだったんだ、」


二人の状況を聞いて胸が痛んだ反面、命がある事に安堵した。
柱を含めた全員がその身を削ってようやく討ち取れる、それ程までに上弦の鬼は強く壮絶な戦いだったのだから。

「それでアオイちゃんが連日連夜付きっ切りだから、代われる時は代わっててさ…って俺こんな喋ってちゃ駄目だよねごめん!誰か呼んでくる!」
「あ、待って、このままでいいから」
「え?でも、」
「…善逸がいいの」


ぽつりと溢した私の言葉に善逸は一瞬動きを止めて、一度上げた腰をまた椅子へと戻す。
そわそわと目を泳がせる彼の様子に、自分がいかに恥ずかしい事を口走ったかようやく理解して、体が熱くなっていく。
いくら弱っている時とはいえ、こんな不用意な甘え方はさすがに色々と良くない。

「それに、自分の体の事は自分で分かってるから」
「だったら何でこんなに無理したの…アオイちゃんが言ってたよ、ここんとこずっと碌に寝てなかったんでしょ」
「それは、そう、だけど…」

最もらしい理由を述べて強がったつもりが、更に痛いところを突かれて言い返せなくなった。
研究と任務、蝶屋敷の仕事に自主鍛錬…それらに忙殺されていた日々に加えて、あの夢の存在。
いつしか眠る事が億劫になり、月夜でなくとも目が冴えるようになってしまった。


「…俺、いつも任務行くの怖くて嫌だけど、それよりも名前ちゃんが鬼と戦う事の方がよっぽど嫌だ」

そう訴える善逸は、泣くのを我慢する子どもみたいに顔を顰めていた。
彼の口から漏れた息は少し震えていて、しんとした夜の病室に小さく響く。

「那田蜘蛛山の任務の後、看護服着て働いてる名前ちゃん見てさ、正直このままずっと蝶屋敷にいてくれたらなって思った」
「え…?」
「アオイちゃん達みたいにここでの仕事に専念すれば、任務に行かなくて済むんじゃないかって…そしたら危険な目に遭わずに済むのに、って」

確かにあの時、ただの手伝いだと答えた後の善逸は少し不自然な様子だったと思い出す。
どこか残念そうにしていたあの素振りは、私の身を案じていたのか。嬉しいようで申し訳ないような、少し複雑な気持ちになった。

「任務が減るどころかますます忙しそうにしてる名前ちゃん見てると、いつか限界を超えちゃいそうで心配なんだ」

その口が紡ぐのは、いつも私を気遣う優しい言葉ばかり。だからこそこれ以上心配を掛けたくない。思いやりが強くて共感しやすい彼は、夢の事を話してしまえば私以上に気に病んでしまうかもしれない。
それに、私と同じ想いを背負わせてしまう事になる。こんな痛みを抱えるのなんて、私一人で十分だ。


「お願いだから、一人で抱え込まないでよ」


心を見透かすような善逸の言葉に、ぴくりと肩が揺れてしまう。
そんな事ないよ、平気だから、大袈裟だなぁ、なんて平静を装う言葉や態度なんていくつも出てくるのに、肝心の口は一文字に結ばれたまま。

琥珀色の瞳に映り込む月明かりに、師範のお屋敷の縁側で二人肩を並べて話した夜を思い出す。
私の気持ちを掬い上げそっと寄り添ってくれた優しい友人は、今も変わらずあの時のままで。
彼はもう覚えていないかもしれないけれど、私にとっては忘れられない大切な思い出だ。
想いを馳せれば自然と胸のつかえが取れて、いつしか固く結ばれた口元も緩んでいた。


「…善逸、ちょっと肩貸して」
「へ?いいけど…どしたの?」
「月が、見たいな」


彼の目を見つめてそう告げると、彼は数回瞬きをする。それからいつものように眉を下げて、柔らかく笑い返してくれた。



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善逸の肩を借りて辿り着いた縁側に、ゆっくりと腰掛ける。
眼前の庭は薄らと月に照らされ、池の水に光が反射して煌めいている。虫の鳴く声や花の香りが時折通り抜ける風とともに五感を掠めて、見慣れた庭に情緒をもたらした。
しばらく静かな時間を堪能した後、眺めていた月が雲隠ったところで話を切り出した。


「いつも、同じ夢を見るの」
「夢?」
「お父さんとお母さんが目の前で倒れてて…私は立ってるだけで何もできない、って夢」
「…そっか、それで魘されてたんだ、」

案の定辛そうな顔をする善逸は、どこか合点がいったという様子でもあった。
小さく頷いて肯定すると、善逸は少し考えて首を捻る。

「でも、何で同じ夢ばっか見るんだろうね」
「…関係してるとすれば、両親を殺した鬼だと思う」
「その鬼の血鬼術、って事?」
「おそらくね」

夢の中で鬼が発した追い詰めるようなあの言葉は、ただ単に血肉を喰らうための脅し文句ではなく攻撃的な意思を感じさせる恨み節のようにもとれた。
私に執着する理由は何なのか、それも未だに分からないまま。

「何度も繰り返す内に、夢を見るのは必ず満月の夜だって事に気が付いたの」
「…寝てなかったっていうのは、その夢が原因なんだね」
「うん、おかげで毎月お月見するようになっちゃった」

そう自嘲するように笑えば、善逸は一層眉を下げて目を伏せてしまう。

「…ごめんね」
「何で善逸が謝るの」
「だって俺、何にも知らないで勝手な事ばっか言って」
「そんなの私が言ってなかったんだから、知らなくて当たり前じゃない」
「それはそうなんだけどさ…でも、話してくれてありがとう」

善逸は、ごめんねやありがとうをいつもきちんと言葉にして伝えてくれる。その飾らない素直さを時に辛いと感じる事もあったのは、言葉の裏にいつも『俺なんかのために』が見え隠れしていたからだ。
ごめんね、ありがとう。そう口にする度に彼の自己肯定感が萎んでしまうのだとしたら、それを食い止めるには“言わせない事”しか方法はないと思っていた、けれど。

やっぱり私の早合点で勘違いだったのだと、そう思わざるを得なかった。
ありがとう、と言った彼があまりに嬉しそうに笑うから。


「前にもこんな風に話したよね、じいちゃんの屋敷の縁側で」
「…覚えてたんだ、」

彼の口から唐突に飛び出した思い出話は、私にとっても大切な記憶の頁だ。何度も読み直しすぎて懐かしさに浸れないほどに。
今でも記憶を共有できていた事に驚きと喜びが半々に押し寄せて、何だか素っ気ない返事になってしまった。
忘れるわけないでしょ、と口を尖らせたかと思うと、善逸は少しはにかんだような表情に変わる。

「出会った頃の名前ちゃん、ちょっとだけ怖いなって思ってたんだ」
「え、そうなの?」
「うん、聞こえてくる音がずっと淡々としてて冷たくって、何考えてるのか分かんない時もあったし」
「必死すぎて余裕なかったのかも…あの頃は早く強くならなきゃって、それしか頭になかったから」
「その割には全然弱音吐かなくてさ、すごく心が強いんだなって勝手に思ってた…だけどあの夜、そうじゃないって分かったんだ」

空を見上げながら記憶を辿るように話していた善逸が、不意にこちらへと顔を向ける。

「初めて名前ちゃんの寂しそうな音聴いて、この子もやっぱり普通の女の子なんだよな、って…正直ちょっとほっとした」
「…うん、」
「それでお互いの事話して、笑った顔見て…もっと色んな事知りたいって思うようになったんだ」

そんな風にして心を開いてくれていたのかと嬉しく思う反面、距離感に少し緊張してしまう。
赤裸々に心の内を話す善逸は、少し決まりが悪そうに目を逸らす。

「だから前に何でも話してよって言ったのもさ、実は俺のわがままなんだよね」
「わがまま?」
「あ、もちろん心配だって気持ちはあるよ!だけど本当は、俺に何も隠さないでほしい、って…名前ちゃんを全部知りたいっていうのが本音」


全部知りたい。その言葉の意味を深読みしてしまいそうになって、惚けた思考を慌てて振り払った。
熱を持った顔と一緒に頭の中まで月明かりに照らし出されそうな気がして、俯き気味に話を逸らす。

「…またちゃん付けしてる」
「え、あ!ごめん許して!あの、しっぺ六連だけはご勘弁を…!!」
「っふふ、あれそんなに痛かった?」
「いやもうしばらくじんじんしてたんだからね!…ってあれ、怒んないの?」

あたふたしていた善逸が動きを止めて不思議そうに首を傾げる。小動物みたいなその仕草に、少し可愛いななんて思ってしまった。

「うん、もういいの」
「どしたの、なんで、え…もしかして色々諦めちゃった?こいつはもう期待するだけ無駄だとかそういう事?ヤダ俺見放されたの…!?」
「もう、違うってば!…善逸が呼びたいように呼んでくれた方が、呼び捨てよりも嬉しいって気付いただけ」

遊郭の任務でまざまざと思い知った。
生きてくれているだけで、その声が聞けるだけで、あんなにも心が喜び安堵する事を。
ほんの小さな嫉妬心で呼び方に固執しているなんて事は、自分でも情けないくらいに理解していたから。

「なにそれ可愛すぎじゃない?」
「っあのね、そうやってすぐ可愛いとか言うのやめて」
「あ、もしかして綺麗だねの方が嬉しい?」
「そ、そういう問題じゃなくて…!とにかく善逸は簡単に言いすぎなの!」
「んふふ、そんなの名前ちゃんだからに決まってるでしょ」
「また調子の良い事ばっかり、誰にでも言ってるくせに」
「…それは違うよ、」
「え?」

善逸の雰囲気が変わった事に気付いて顔を向けると、へらへらと頬を緩ませていた彼はどこにもいなかった。
真剣な眼差しで私を見つめるその瞳には月明かりが溶け込んでいて、じんわりと滲む甘い輝きに吸い込まれそうになる。


「心配で仕方ないのも、もっと知りたいのも、可愛くてたまらないのも…名前ちゃんだからだよ」


恥ずかしさで目を逸らしたいのに、琥珀色の瞳に捕まって動けない。
体を突き抜けてしまいそうなほど心臓が大きく鼓動して、息を吸って吐くなんていう当たり前の事が急に上手くできなくなった。


「名前、」


普段の朗らかな彼とは違う鼓膜をじわりと這うような低めの声に、お腹の奥の方がきゅんと疼く。
その今まで経験した事のない感覚に底知れぬ怖さを感じながらも、上がっていく体温と胸の高鳴りが止められない。



『お前が絶望を味わうその時が楽しみだ』


唐突に脳裏をよぎったあの鬼の声に息が止まる。
夢の中でも聞いたその言葉はたちまち心と体を支配して、想いの溢れる蛇口をきつく締め上げてしまった。

駄目だ、私、こんな幸せな気持ちに浸ってちゃ、


「俺、名前のこと、」


お願い、その先は、


「っ、待って…!!」
「ぅわ、」


気付けば手で善逸の口を塞いでいて、勢い余って押し倒す形になってしまっていた。
突然言葉を遮られた上に倒された善逸は、当惑しながらもその腕でしっかりと私の腰を支えてくれている。

「っは…、どうしたの…!?」
「…ごめん、言わないで、」

こんなに自分本位に振り回して、怒らせたかな。傷つけたかな。さすがに嫌われるかも。そんな不安を抱きながらも触れ合った体温をまだ離したくなくて、そのままぺたんと善逸の上に座り込んだ。
震える手をぎゅっと握りしめて下を向く。顔を見るのが怖い。
すると、善逸はそっと体を起こして私と向かい合う形になった。恐る恐る顔を上げると、彼は困ったように眉を下げて、だけど優しい表情で私を見つめていた。


「…理由、聞いてもいい?」


落ち着いた声色でそう尋ねられ、強張っていた気持ちが幾分か和らいだ気がした。


「…未練を、残したくないの」
「それは、どういう?」
「もし幸せになってしまったら、死ぬ時に後悔してしまいそうで…それが怖くて」
「…そっか、」


いつ戦いで死ぬとも分からない、そんな道を選んだのは紛れもなく自分。だからこそ、自分の幸せを守るために強くなると決めた。
本当に幸せを享受できるのは、きっと全てのしがらみから解放された時だから。


「でも俺、伝えないまま死んじゃった方がそれこそ未練たらたらで成仏できないかも」
「そ、れは…」
「化けて出るよ、毎晩名前ちゃんの枕元に」
「やだ、縁起でもないこと言わないで…!」

おどろおどろしい顔と仕草で幽霊の真似事をする善逸の胸を軽く小突く。
彼は悪戯っぽく笑った後少し思案するように間を取り、じゃあさ、と話し出す。

「俺が自信持って名前ちゃんのこと守れるって言えるようになったら…もう一度聞いてくれる?」
「あ…」
「今度はちゃんと、最後まで」

至近距離で見つめる善逸の瞳は蕩けそうになるほど熱っぽい。その奥には優しさと少しの不安と、強い想いが宿っていた。

「…うん、分かった」
「ほんと?ありがと」

私が承諾したのを聞いて照れ臭そうに笑った善逸は、約束だよ、と小指を差し出す。
指切りなんて最後にしたのいつだったかな、なんて思いながらそれに応えると、善逸はお決まりの文言を口ずさみながら絡めた指を嬉しそうに揺らし始めた。
けれど、何故か徐々に歯切れが悪くなっていく。まだ指を切り終えない内に、少し焦った様子で口を開く。

「…っ、そろそろ離れよっか、」
「え?っあ、ごめん重かったよね…!」
「や、あの、俺としてはほんと叫び出したいくらい嬉しい状況なんだけどさ、その、色々と危ない感じになってきちゃって…」
「危ない…?え、もしかしてまだ体が痛むの…!?」

善逸は遊郭での戦闘で脚を負傷していたはず。それなのに、あろうことか私は思いっきりその太腿の上に鎮座していたのだ。
さっき病室で状態を見た時は何の異変も感じられなかったけれど、見落としてしまっていたのかもしれない。
善逸はしきりに病衣の裾を引っ張って腿の辺りを隠していて、何か都合の悪い事でもあるのかと訝しんでしまう。

「いやそうじゃなくて!むしろ元気、っていうか…」
「どこか悪いなら隠さないで見せて」
「は、ちょ…!待って見ちゃだめだって!」
「もう、何言って…っ、…え、」


必死に抵抗する善逸を無理矢理制して病衣を捲り上げると、確かに異変は見られなかった。
但し、下腹部の中心の膨らみを除いては。

「っ善逸の馬鹿、変態!」
「いやあんな際どいとこに密着して反応しない方がおかしいからね!?不可抗力!生理現象!男の性ってやつなの!」
「知らない!もう病室戻るからおやすみ!」
「あぁちょっと待ってよ、一人じゃ歩くのしんどいでしょ」

勢いで立ち上がったはいいものの、善逸の言う通り支えなしに病室まで歩くのは至難の業だ。
来た時と同じ方法でしか帰る術はないと渋々目線を送れば、善逸は苦笑しながら肩を差し出した。

「変なとこ触ったら許さないから」
「そんな事できるわけないでしょ、告白もできてないんだからさ」
「それについては…ごめん」
「いいよ、…また名前ちゃんの事少し知れたから」
「…ありがとう、善逸」


病室の前まで送ってくれた事。覚めない夢から呼び戻してくれた事。私のわがままを受け入れてくれた事。…そんな私を想ってくれている事。
伝えきれない程の感謝の気持ちをありがとうの五文字に込めれば、善逸は微笑んで静かに頷いてくれた。

「おやすみ、名前ちゃん」
「うん、おやすみなさい」


就寝の挨拶を交わして戸を閉めると、一人の病室がいつもより余計に静かに感じられた。
けれど、温もりに満ちた心と体のおかげで充足感に包まれていた。
ベッドに横になって目を閉じれば、月明かりが瞼越しにぼんやりと届く。いつもはざわつく胸を必死に宥めて過ごすこの時間も、今夜は不思議と気にならない。
微睡み出す意識に抵抗せずそのまま身を委ねれば、久々に心地の良い感覚に誘われる事となった。

そしてその日以来、満月の夜に見ていたあの夢はぱたりと無くなったのだった。

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