聞こえざるものを聴く

「合わせて」

名前ちゃんが、ほんの僅かに聞き取れる声でそう呟いた。
頭の切れる彼女の事だ、何か考えがあるんだろう。そうでもなきゃ、こんなに泣いて震えながら俺の背にしがみついてくる説明がつかないし。

そっと彼女の音に耳を澄ますと、恐ろしいくらい冷静に考えを巡らせる音が聴こえてきた。
おかげでドクドクと大きく鼓動していた心臓がほんの少し落ち着いたけど、今度は鬼に挟まれているという現実に引き戻されて顔が引き攣る。
足がガクガク震え出してもう一度叫びかけたところに、後ろから鼻を啜る音が聞こえてきて思考が停止した。

「やだ、怖いよお、まだ死にたくない…!」
「は…っ、名前ちゃん、だだだだいじょぶ、だから、」

重々分かっている。こんな事考えてる場合じゃないって事も、名前ちゃんのそれが演技だって事も。
それでも尚がんがんと男の性を揺さぶられてしまうのは、もう惚れた弱みとしか言いようがない。
鬼と対峙しているというのにその恐怖を平気で上回ってくるのだから恐ろしい。それほどまでに破壊力があるのだ、この子の一挙一動は。
そうしてひとり悶々としている中、今度は脇腹から腰に掛けて伝っていく指にゾクゾクと背筋が粟立った。

「っんぁ、ちょ、名前ちゃ、」
「…なんて声出してるの」

思わずあられもない声が出た。
正直、もうほんとたまらない。えぇたまりませんよ。
好きな女の子に抱きつかれてるってだけでもうご馳走様なのに、あろうことか柔らかいおっぱいまでガッツリ密着しちゃってさ。腰周りに細くて白い指が這ってんのとかもうこれ誘ってるんじゃないの。触れるか触れないかの絶妙な手つきも、そんなつもりじゃないのが逆にやらしい。
そんでもってやっぱり良い匂いがする。花の蜜のような甘い香りと乾きたての布団みたいな落ち着く香りが混ざった感じの。俺が炭治郎みたいに鼻が利く人間だったらたぶん一発で理性ぶっ飛んでるわ。
っていうかこんな状況で平常心保てる男なんてこの世に存在するの?それとも俺の鍛錬が足りてないだけなの?
これ鬼いなかったら一線越えてたかも。いやまぁ鬼がいるからこんな状況なんだけどさ。


黙って、と一蹴されて俺の邪な思考が振り払われると同時に、彼女の目的にようやく気が付いた。
思った通り、その指は俺の右腰に携えた彼女の日輪刀に辿り着き動きを止めた。

俺は、どうする。どう動くのが最善なんだ。
名前ちゃんが戦うつもりなのは間違いない。でも彼女は自分で帯刀していない上に、鬼に背を向けている状態だ。
俺が霹靂の六連で二体とも…いや、名前ちゃんにも技が当たる。隊服も着てないし危険すぎる。
せめて距離を稼げる肆ノ型でも習得してれば何とかなったかもしれないのに。

「狙いは私…それを助けようと動いた善逸の背後を襲ってくる、だから、」

焦燥に飲まれそうになっている俺を知ってか知らずか、名前ちゃんは淡々と口にする。


「刀を抜いたら、何があっても目の前の敵に集中して」


迷いも焦りもない芯の通った言葉に圧されて、一瞬息をするのも忘れていた。
回された腕に力が込められるのを感じてやっと肺に空気を取り込めば、彼女はたった一言呟いた。


「約束ね」


いつもいつも、純粋に凄いと思う。
冷静で状況判断が早くて何でも要領よくこなす、そういう聡明なところに昔からずっと憧れてるし、名前ちゃんの好きなところの一つでもある。

でもね。
彼女は気を遣い過ぎなんだ。他人にも、自分にも。
もっと自由に生きていいのに。
辛い時には本気で泣いたり、頼ったりしてほしいのに。

いつも物怖じせず鬼にも堂々と向かっていく名前ちゃんは、強くて美しくて。
だけど、俺は知ってるよ。見せないようにしてるだけで、本当は普通のか弱い女の子だって。

今もこうして聴こえてるんだ、寂しくて切ない音が。


「…我妻くん、守ってくれる?」


名前ちゃんが真っ直ぐに発した声。
その声は微かに震えていて、俺は心の隅っこで密かに安堵する。

ああ、やっと、聴こえる音と言の葉が一致した。

こんな状況で可笑しいかもしれないけど、胸の奥で仄かに嬉しさが滲む。
鬼の高笑いを聞きながらすっと瞼を閉じれば、浮かぶのは彼女の様々な表情で。
笑った顔、怒った顔、困った顔、恥じらう顔。
いつだって俺は、凛とした藍色の瞳から目が離せない。

何があったって、きみを、


「守るよ」


はやく、はやく聴きたい。
我妻くん、じゃなくて。
きみの声が紡ぐ、俺の名前を。


背後の鬼が土を踏み込む音に、呼吸を整え前を見据える。
名前ちゃんが抜刀するのと同時に、眼前の悪鬼へと目がけて地を蹴った。



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確かに、斬った。
刃が頸と胴体を分かつ感触が手のひらにしっかり残ってるし、鬼の頸が地に転がる瞬間もはっきりとこの目で見た。さっきまで聴こえていた鬼特有の嫌な感じの音もだんだん弱まってきて。
無事に倒せたと一息吐こうとした瞬間、気づいてしまった。
その嫌な音が、自分の中から聞こえている事に。


どういう事か、しばらく状況が理解できないでいた。
…いや、理解したくないだけかも。
自分の意思に反して体が動いてすこぶる気持ちが悪い。触れるものや見えるもの、受動的なものは全て自分の感覚としてあるのに、能動的な部分に関しては全く俺からの信号を通してくれないのだ。
間違いなく、俺の身体を鬼が操作している。乗っ取られた、という方が的確か。

「…大丈夫?」

恐る恐る伺うような声が背後からぽつりと聞こえた。
そうだ、そうだった、鬼が何の為にこんな厄介な血鬼術を仕込んだかなんて考えなくても分かるのに。
このままだと名前ちゃんが危ない。

「うん大丈夫だよ、名前ちゃんは?怪我とかしてない?」


にげて。
たった3文字なのに、声にならない。
それどころか、俺の口はぺらぺらと勝手に言葉を紡いでいく。
…いや、待てよ。感覚が生きているなら。
思い立って名前ちゃんの音に耳をそばだててみると、猜疑心に満ちた音がガタガタと鳴り響いていた。
よかった、聴こえる。そして血鬼術にも気付いてる。


「平気だよ、ありがとね我妻くん」


彼女は微笑みながらも、瞳の奥を冷たく悲しく光らせていた。
我妻くん、と余所余所しく俺を呼ぶ名前ちゃんの声にちくりと胸が痛む。
ごめん。俺が不甲斐ないばっかりに、また心配させて。本当にごめん。
伝わらないのはわかってるけど、どうにもできない虚しさを抱えながら何度も謝った。



一泊する旨を伝えておく、と名前ちゃんはごく自然に鎹鴉に言伝を託す。
ひとまず藤の家紋の家まで辿り着いたけど、今のところ鬼の方も妙な言動はなく、彼女の頭の中にあるであろう作戦にも勘付いてないみたいだ。

お部屋はご一緒でよろしいですか、と問われた彼女は、一呼吸おいてから答える。

「…はい、構いません」


……えっ、ちょ待って待って俺の耳やっぱりおかしくない!?これ絶対血鬼術でやられてるよイヤアァアアアーーーッ!!!!!
嬉しいけどね、そりゃあもうべらぼうに嬉しいんですけどね!!いや喜んでる場合じゃないよ危ないよね!?どうするつもりなの、ナニするつもりなのこの子!!
そんな心臓が口からまろび出そうな俺を差し置いて、彼女の言葉を気にも留めない様子で部屋の戸を開く俺。

とりあえず湯浴みして頭から冷水ぶっかけよう。そんで一旦落ち着こう、俺よ。な?
と、俺の主導権を握る鬼にひたすら念じ続ける。無駄なのはわかってるけどさ。
すると、俺の口が「さっさと湯浴みして寝ようよ、」と発した。
念が通じた…?と少し吃驚したのも束の間、俺はとんでもない事を言ってのけた。


「…ねぇ、一緒に入ろっか」


ハァアアアアアア!!!???
何言ってんの!!??何言っちゃってんのよ俺!!??
これで拒絶でもされてみろ、一生癒えない傷負うことになるよ。かと言って受け入れられでもしたらそれはそれで危険極まりないんだけどさ。

名前ちゃんの潤んだ瞳と視線がかち合えば、よく知る感覚が体を滾らせる。胸の鼓動はあっという間に早くなり、熱く滾った血が身体中を駆け巡って。

今すぐその手を取りそっと引き寄せて、優しく抱き締めたい。
強引に指を絡めて畳に縫い付け、壊れるほどに己の劣情をぶつけたい。

そんな相反する願望にいくら葛藤したところで、結局主張するのはいつだって中心のそれで、男の体が如何に単純な作りであるかを思い知らされる。
任務で疲れて帰った時なんて余計に。持て余す熱を吐き出したくて、何度も彼女を頭の中で汚した。
後で自己嫌悪の渦に飲まれると分かっていても、その白い肌が紅潮して、いつもの鈴の鳴るような声が嬌声を上げ、潤んだ瞳が欲に塗れて俺を見つめる様を想像してしまうと、どうしたって手が止められなくて。

だから、身体が乗っ取られててもわかる。いま自分がどんな顔してるかなんて。
だって俺はきっと普段からこんな目で、彼女の事を見てるから。
きみが無防備な笑顔を見せる度に、心も体も熱くて熱くて堪らなくなるんだよ。

ねぇ、俺はきみの瞳にどんな風に映ってるの。
聴きたいような聴きたくないような、複雑な気持ちが押し引きを繰り返す。
結局欲に負けて彼女の音に耳を澄ませば、聞いたこともないくらいに甘くてとろけそうで、
だけど今にも張り裂けそうな悲しい音だった。

お願いだから、そんな音させないでよ。
早く俺が、ちゃんと俺の言葉で、名前ちゃんを安心させたい。
俺の中に入ってる鬼の本体が消えればおそらく術も解けるはず。鬼を滅する方法なんて、日輪刀で頸を斬るか、日光を浴びせるか、あるいは…。
そこまで考えて何となく、彼女のやろうとしている事に察しがついてしまった。
自らの身を削るようなそのやり方は、まさしく自己犠牲を物ともしないあの子の選びそうな事だ。
俺の為に、名前ちゃんが苦しむことになる。そんな事させたくないのに、悲しいくらいに他の方法が思い浮かばない。


我妻くん、と俺に呼び掛けた彼女は、得も言われぬ雰囲気で佇んでいる。
自分の唇が更に深く弧を描き、緊張してる?と問いかけると、小さく頷いてから俺を見上げた。
潤んだ藍色の瞳と視線が絡まれば、俺の喉がごくりと嚥下するのが分かった。


「ねぇ…私の名前、呼んで?」
「いつも呼んでるでしょ?…名前ちゃん」



違うよ。いま彼女が欲しいのはそれじゃない。

俺はね、女の子には平等に女の子扱いしたいんだ。
だからどんな時でもどんな子にも“〇〇ちゃん”って呼ぶんだよ。


…なんて、嘘。本当はさ。

俺は捨て子だったから、元々自分の名前なんてなくて。
でも本来それは、大事な人に向けて最初に贈られるたった一つの特別なものだから。
そんな特別な贈り物を、特別な想いで口にするなんて、俺にとってはすごく勇気が要ることなんだよ。

陰口叩かれたり、嘘吐かれたり、そんなことが当たり前だったからさ。
もし、本当に心から好きになった子に愛想を尽かされてしまったら。
それが怖くて、自分から核心に踏み込まないようにしていたんだ。
嫌われないように。傷つく前に。いつでも引き返せるように。


未練を残したくないから、なんて言って意地張ってる誰かさんとそっくりだよ、ほんと。
そうやって足枷を自分で自分につけてる割には、呼び捨てにして、なんて。
ちょっとしたわがまま一つにも本心が隠し切れないんだよね。

きみのそういうところが、本当に好きだよ。

…名前。



「名前ちゃん、こっち向いて」

こちらに向き直った彼女の表情は、月明かりの逆光になってよく見えない。
でも、聴こえる。
彼女が鬼の頸を斬る前のような、覚悟を決めた時の音が。

駄目だ、来ちゃ駄目だ。

そんな叫びも虚しく、次の瞬間には名前ちゃんとの距離は無くなっていた。
後頭部に感じる畳のひんやりとした感触が、ぴったりと合わさった唇の焼け付くような熱さを際立たせてクラクラする。
粘膜の擦れ合う感覚に腰がぞくりと震えた。どんどん深く絡まっていく熱と一緒に、口内のほろ苦さも増していく。
舌の裏辺りに一瞬痺れるような感覚があったかと思えば、突然俺の腕が名前ちゃんの体を突き飛ばした。


どうやら無事に効いている。
その証拠に、体が鉛になったかのように重たく動かなくなった。
息苦しさと霞みゆく視界の中で捉えた彼女は、見惚れるほど美しく微笑んでいる。
でも、耳が拾った彼女の音は全く違っていた。

名前ちゃんが、怒ってる。それも尋常じゃないくらいに。


「善逸はね、ここぞって時、私の事呼び捨てにするの」
きみがそうしてってお願いしてきたんでしょ。

「なかなかキュンとくるでしょ?」
もうさ、その言葉そのまま返すよ。

「ほんとは二人だけの秘密だったんだけど…冥途の土産にどうぞ」
うわ、その捨て台詞めちゃくちゃかっこよくない?


「返して、私の大事な人」


どくん、と稼働し始める左胸。心臓がやっと自分の元へ返ってきたような感覚だった。
それが血鬼術の解けた合図だったのか、それとも彼女の最高にグッとくる言葉によるものなのか。
どちらにせよ、名前ちゃんに伝えなくちゃ。ありがとう、ごめんねって。
目が覚めたらちゃんと呼ぶから、もう少しだけ待っててね。

俺の、大事な人。

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