煩ったのは誰

「それにしても…困った事になりましたね」


キィ、と鳴る椅子の音と共にしのぶさんが机の上のカルテを手に取る。
心配そうに私を見つめるその表情に、こちらもつられて眉を下げた。

「毒が声帯の神経を冒して麻痺している状態ですから、自然に回復するのを待つしか方法はありませんし」

そう困ったような笑みで思案するしのぶさんに、小さく頷いてみせる。

あの時鎹鴉に託した言伝は無事に蝶屋敷へと届けられたようで、私と善逸は隠の人達によって無事助け出されたのだけれど。
それから丸一日眠ってすっきりと目を覚ましたはいいものの、自分の喉がうんともすんとも声を発さなくなってしまっていたのだ。
他に体の異常は全く無く、むしろぐっすり眠って元気なくらいだというのに、見事に声帯だけが機能していないなんて。意思疎通が取れないとさすがに周りに迷惑が掛かるし、当面は紙と鉛筆を持ち歩く方がいいのかもしれない。

「とはいえすぐに元通りとはいきませんので、やはり不自由な思いをする事になりますね…」

気の毒ですけれど、と気遣う言葉にふるふると首を横に振り、軽く拳をぐっと握って見せた。
大丈夫ですという意味合いで返した私の身振りはどうやらきちんと伝わったようで、しのぶさんはニコリと微笑み返してくれた。
そしてカルテに所見を書き込みながら、ふと思い立った様子で再び向き直る。

「善逸くんの事でしたら心配要りませんよ、状態は安定しています」

その言葉に、安堵のため息が漏れた。
血鬼術で鬼に支配された体に対してあの毒がどんな影響を及ぼすかは未知数で、いわば賭けのようなものだったから。

「血鬼術を受けた事による体力の消耗が大きかったようでぐっすり眠っていますけれど、直に目を覚ますと思います」

粘膜から吸収させた事で、毒の回りが思いの外早かったのが誤算だった。せめてあの時きちんと善逸に解毒薬を飲ませられていたら、とそんな事をずっと考えてしまう。
あの体は紛れもなく善逸自身のもので、それに伴うあらゆる感覚ももちろん彼に直結していたはず。毒が正しく作用してくれたとはいえ、鬼に与えたのと同じだけの苦痛を彼も味わってしまった事になる。
結果的に大事には至らなかったものの、意識を失う直前までもがき苦しんでいた善逸の姿を思い出してズキズキと胸が痛んだ。

名前さん、と不意に呼び掛けられ顔を上げると、しのぶさんは優しい笑みをこちらへ向けていた。

「気持ちは判りますが、あまり自分を責めないように…善逸くんを救ったのは他でもないあなたなんですから」

その穏やかな口調はいつものしのぶさんと変わらないけれど、静かに諭すような力強さを感じる。
ぎゅっと唇を噛み締めていると、そんな私の様子を見たしのぶさんはまた眉を下げた。

「そんな顔をしていたら、善逸くんが起きた時に余計心配を掛けますよ」

そう言ったかと思うと、机の引き出しからおもむろに鏡を取り出しすっと私の前に掲げる。
そこに映った私の顔は病み上がりとはいえ何とも冴えない表情で、確かにこれはよろしくないなと自覚した。
思わずぱちんと両手で頬を挟むように叩くと、しのぶさんはクスリと笑って鏡をしまった。

「彼の病室は西側の一番奥です、お見舞い代わりに手紙でも差し上げてみてはいかがでしょう」

声の出ない今の私には打って付けの方法だ。
思えば善逸に宛てて文をしたためた事が碌にないのは、それだけずっと一緒にいるという事かもしれない。
立ち上がりお辞儀をして診察室を出ようとすると、それと名前さん、としのぶさんに呼び止められる。

「近いうちに、鬼殺隊本部…お館様の屋敷へ伺う事になると思います」

唐突な話の流れに一瞬ぽかんと口が開いてしまった。
なぜ柱でもない一般隊士の私がお館様のお屋敷に…?どういう理由で呼ばれるのかが皆目見当もつかなくて、少し身構えてしまう。
私がですか?と確認するように自分を指差して首を傾げると、しのぶさんは大きく頷く。

「勿論体が本調子に戻ってからになります、その時は私も一緒ですのでお声掛けしますね」

しのぶさんも一緒だという事は、ひとまず一人ではないみたいだ。
ほっとして改めて頭を下げれば、しのぶさんはひらひらと手を振って見送ってくれていた。


診察室を後にして自室へ戻る折、藤の家での出来事を頭の中で繰り返し反芻していた。
今回みたいな状況はそう多くはないだろうけれど、いつまた厄介な鬼に出くわすとも限らない。
確実に鬼を滅しながら、人体には無害な毒…そんな代物を作れるほどの技量が私にあったなら、守りたい人を守れるのだろうか。
そもそも毒で鬼を滅したあのやり方が本当に最適解だったのかすら、自信が持てなくなってきていた。
罪悪感を抱えながら廊下を歩けば、その足は自室ではなく病室の扉の前で止まっていた。

トン、トン、とノックしてもその音が小さく廊下に響くだけで、中からは何も返答はない。
音を立てないよう静かに扉を開くと、点滴を繋がれてベッドに横たわる善逸の姿があった。
近づいて様子を伺うと、しのぶさんの言った通り状態は安定しているようで、すうすうと規則的な寝息を立てている。
白い布団に沈む腕に手を伸ばし手首の辺りにそっと触れると、とくん、とくん、と脈打つのが伝わって何故だか少し切なくなった。
不意に手を引かれた時の感触を思い出して、そのまま善逸の手のひらを包み込む。けれど、脱力したその手は当然握り返してはくれなくて。
善逸がこんな状態になっているのは私の判断によるものなのに、あの優しくて力強い彼の手の温もりが急に恋しいだなんて、虫の良すぎる話だ。

こんな事になってごめんなさい、守ってくれてありがとう、初めて意識を保って鬼を滅したその感想や、血鬼術に掛かった感覚はどんなものだったか、とか…彼の目が覚めたら話したい事や聞きたい事がたくさんある。
自分の声で意思の疎通が図れないのは確かに不便だけれど、そういうものだと受け入れてしまえばなんて事はないはずなのに。
善逸と言葉を交わせない、ただそれだけで途端に歯痒く感じてしまう。

はぁ、と小さく息を吐き、少し身を乗り出して善逸の顔を見つめる。
変わらずすやすやと眠る顔つきは穏やかで、血色も良さそうだ。むにゃむにゃと寝言混じりに口を動かしたと思えば、また眠りが深くなったようで動きを止めた。
その半開きの唇に、毒を口移しした時のあの柔らかい感触と熱が甦る。
あの時はただただ必死で後のことなんて考える余裕も無かったけれど、やむを得なかったとはいえしっかり口づけを交わしてしまったのだ。しかも深くて濃厚な方を。

あくまであれは単なる口移しに過ぎず、血鬼術から解放する為の適切な処置だった…と、きっと相手が善逸でなかったら、そんな風に割り切れていただろうと思う。
でも私の心には確かに、彼に対する特別な感情が存在している。この空気を読まず騒ぎ立てる心臓が何よりの証拠だ。

まさかあんな形で初めての口づけを経験してしまうなんて、思ってもみなかった。
初めてが善逸で良かったと不謹慎ながらも安堵する反面、もしかすると善逸は初めてではないのではと勝手な憂慮を抱いてしまう。
そんな浅ましい自分の心と、逃げ出してしまいたいほどの恥ずかしさと、拭いきれない罪悪感とで頭がぐちゃぐちゃになりそうで。

一度頭を冷やそう、そう思って部屋を出ようとすると、ベッド脇の小さな棚の上にいくつか物が置かれているのが目に入った。
お花にお饅頭、色々な形のどんぐりや可愛らしい落書き…何となく誰がお見舞いに来たのかが分かる取り合わせを見ていると、ふとしのぶさんの言葉を思い出す。
一瞬ためらいながらも、無造作に置かれた落書きの中から白紙を一枚と、転がっていた鉛筆を拝借する。
どんな言葉を、どんな口調で、どんな顔で伝えればいいんだろう、と以前の私ならそんな事ばかり考えていたはずだった。けれど一度紙に触れた黒鉛はそのまますらすらと走って、書き終えるまで止まる事はなかった。

お饅頭のお皿を重石代わりに置いて、来た時と同じように静かに部屋を出た。
すっぱりと気持ちを切り替えろ、そう自分に言い聞かせながら自室へと戻る。ただでさえ声が出ないんだ、さっきみたいな辛気臭い顔をしてたら余計に周りに気を遣わせてしまう。
声が戻るまではしばらく蝶屋敷の仕事に専念する事になるだろうから、せめて普段よりも表情や雰囲気が明るく見えるように意識的に笑顔で振る舞おう。
自室へ戻ってすぐに、なほちゃん達が綺麗に洗濯してくれていた隊服と看護服を身に着けた。ポケットから瑠璃色の手鏡を取り出して開き、きゅっと口角を上げ自然な笑みを保つ。よし、上々だ。
パチンと留め具を合わせると同時に、いつもより少し背筋を伸ばして歩き出した。


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まだ若干ぼんやりした視覚で壁に掛けられた暦を確認すれば、あれから三日経っていた。
ぐう、と鳴る腹におあつらえ向きの饅頭を見つけてとりあえず一口齧り付く。やっぱり砂糖の甘さって凄いよな、病み上がりの呆けた頭がどんどん冴えてくのが分かるもん。
とそんな事を考えながら咀嚼していると、その皿の下から覗く紙切れが視界に入る。
それが書き置きだと認識した途端、完全に覚醒した。


“体の具合は如何ですか

不調があればしのぶさんに申し出てください

私の所為でいつも迷惑ばかり掛けて
本当に御免なさい

不本意な口吸いの事はどうか忘れてください”


その丁寧な品のある文字で、誰が書いたかなんて一目瞭然だった。
初めは彼女が無事で良かったと胸を撫で下ろしたものの、ちょっと待て、と文面を反芻する内にみるみる不満が溜まっていった。
何度読み返しても解せないのは、この期に及んで謝罪するあの子の窮屈な責任感だ。俺が謝る事はあっても、謝られる道理はないはずだろ。誰のおかげでこうしてまた饅頭食えてるんだって話で。
不本意だとか忘れてくれだとか、なんだよそれ。まるで俺が貧乏くじ引いたみたいな言い方しちゃってさ。あんな形ではあったけど、俺は正直ちょっと嬉しかったっていうのに。いやめちゃくちゃ不謹慎だけど。
それにしたって、こんな、

「こんな言い逃げみたいな真似しなくても、ですか?」
「ぅん!?んっぐ…!!!」
「すみません、驚かせてしまいましたか」

どうぞ、と差し出されたお茶をすかさず一気飲みして事なきを得た。折角生きて戻れたのに饅頭喉に詰まらせて死ぬとか笑えないでしょ。
っていうか何にも音しなかったんだけど、いつからいたのこの人。まぁただ単に俺が目の前の書き置きで頭一杯だったからかもしれないけど。
はあぁ、と大きく息を吐けば、しのぶさんは俺の様子をじっと見つめてから頷いた。

「その様子ですと、特に体に問題は無さそうですね」
「あ、はい…あの、名前ちゃんは大丈夫だったんですよね」
「えぇ、ですが今彼女は一時的に声が出ない状態です」
「…え」

一瞬、思考が停止した。
あの時意識の途切れる直前に感じた息苦しさより、おそらく何倍もの苦痛を彼女は受け止めたんだ。
それで手紙なのか、と今更合点がいった。

「でも…なんで、俺は何ともないのに…」
「鬼に支配されていた分、そちらに毒が多く作用したのでしょう…名前さんは単純に毒を口に含んでいる時間が長かった為に、体への影響が出たのだと思います」


声が出なくなるなんて、それほどまでにあの毒の負担は大きかったのか。それを知っていながら自らの口に含むのは相当な覚悟が必要だったろうに。
守るとか大層な事言っておきながら、俺は肝心なところでいつも役に立ってないんだ。
初任務の時も、遊郭の時も、そして今回も。毎回彼女が身を挺して、傷ついて。
書き置きを握り締める手に力が入って、紙に少しくしゃりと皺が寄る。

「こんな風に突き放されるのも、俺が頼りないからだよなぁ…」
「頼りない云々ではなく、善逸くんだから特別そうなるのでは?」
「へ、」

俺の独り言のような呟きに思いがけず返答があって、気の抜けた声が出た。
これは私の見立てですけれど、と前置きしたしのぶさんは、ぴっと人差し指を立てて流暢に話し出す。

「伝え方に余白があるとその分誤解もされやすいですから、普通は齟齬を生むような言葉運びを避けるのが無難ですよね」
「は、はぁ」
「ましてや名前さんはきっちりとした性格の上に気を遣いすぎるところがありますし、可愛らしいお顔をしてなかなかの頑固者ですし」
「それについては全くの同意見です…」

にこやかな表情でさらりと核心を突くしのぶさんに、深く頷いて同調した。
その口振りからして、名前ちゃんの蝶屋敷での振る舞いを普段から気に掛けてくれてるんだろうな。

「そんな彼女にとって、自分の奥底にある感情や葛藤を曝け出すというのは容易な事ではないと思います…心を許している相手以外には、ですけれど」
「…それって俺の事、ですか?」
「えぇ、少なくとも私はこれほど要領を得ない彼女は見た事がありませんし、唯一甘えられる存在があなたなのではないかと」
「甘えられてる自覚無いんですけど…」
「乙女心というのは複雑なものなんですよ、善逸くん」

しのぶさんが恐ろしいのは、まさにこういうところだ。異常なまでの観察力と洞察力で、いつの間にか外堀を埋められてる感じがする。
現に恋仲でも無い相手との微妙な関係性を、話してもないのに見抜かれてるわけだし。
半ば不貞腐れて黙り込んでいると、しのぶさんは流れるような手つきで俺の左腕に繋がれていた点滴を外す。

「本当に、あなた方は面白いくらいに似た者同士ですね」
「当事者からすると全然面白くないですけどね」
「あら、喜劇とは本来そういうものですよ、当の本人達が必死に足掻いている様を傍観するのが愉快なんですから」
「いや見せ物じゃないですって!」
「っふふ、冗談です」

そう言って楽しそうな笑みを見せるしのぶさんはそりゃあもう凄く美人なんだけど、聞こえてくる音からして冗談には聞こえなかった。
思わずため息を吐く俺を気にも留めない様子で、しのぶさんはベッド回りを纏めていた。

「名前さんはすでに屋敷の仕事に復帰していますから、またすぐに会えると思います」
「そうですか、」
「その時は、どうか穏便にお願いしますね」

ではお大事に、と部屋を出て行くしのぶさんに軽く会釈を返す。
穏便にと念を押されるなんて、俺どんだけ酷い顔してんだろ。

わかってる、名前ちゃんがきっと罪悪感に押し潰されそうになってるであろう事は。また自分のせいだ何だと心をつつき回して、要らぬ痛みを作っているに違いない。
だけど、しのぶさんの言うように心を許してくれてるんだったら、甘えてくれるんだったら、俺なんかよりもっと自分を大切にして欲しいのに。

兎にも角にも名前ちゃんの顔を一目見ない事には落ち着かない。体も自由になった事だし、ひとまず屋敷を見回ってみる事にした。
俺に何かできる事はないだろうかとあれこれ考えながら、あてもなく廊下を歩く。
声が出ないってかなり鬱憤が溜まるだろうし、どうにかその疲れを癒やしてあげられないかな。意外に甘いもの好きだって分かったし、明日街へ甘味でも買いに行ってみようか。
そして俺にできる事といったらなんといっても、可愛いねって面と向かって伝える事だ。名前ちゃんは恥ずかしいからやめてって言うけど、音がもう満更でもないんだよなぁ。
つまるところ、そんないじらしさがたまらなく、

『可愛いよなぁやっぱり』
『あぁ、苗字さんだっけ』

今日はやけに気持ちを代弁される日だなんて呑気に考えていたら、不意に彼女の名前が耳に飛び込んできてぴたりと足が止まる。
曲がり角の向こう側で姿は見えないけど、聞こえる声の感じからして俺と同じくらいの歳の隊士だろう。

『元々綺麗な子だったけど、近頃磨きが掛かってないか?』
『俺もそれ思ってた!前に療養してた時も世話になってさ、その時はちょっと冷たい雰囲気だったんだよな』
『そうそう、明るくなったっていうか柔らかくなったっていうか…』
『っていうかお前、ついこの間までは栗花落さんの事ばっか見てたじゃねぇか』
『いや竈門と話してる時の栗花落さんの顔知ってるか?あんなの見ちまったら誰だって身を引くよ…』

名前ちゃんがどんどん魅力的になってるのは確かに認める。少なくとも出会った頃に比べると段違いで麗しさ増しちゃってるよ、まぁあの頃も素敵だったけどさ。
だけどその分お前らみたいな変な虫が寄ってきてこっちは気が気じゃないんだよ。しかも元々カナヲちゃん狙いで乗り換えるとか何様のつもりなの。
募る苛立ちを抑えながら耳をそばだてていると、そいつはさらに軽口を叩く。

『苗字さんは恋人もいないみたいだし、お近付きになってもいいよな!』
『え?俺が聞いた話だと、同期の隊士と恋仲だって…何でも、奇抜な見た目の奴だとか』
『は?嘘だろ!?奇抜、って…まさかあの猪頭か!?』

勝手な事ばっか言ってんじゃねぇぞこのクソ害虫共が、と口から出そうになるのをぐっと堪えた代わりに、廊下を踏みしめる足音が大きく鳴った。
角を曲がると壁にもたれて内輪話に興じるそいつらを見つけて、牽制してやろうとずんずん距離を縮める。
ゆらりと肩に手を掛けようかというその時、そいつの放った言葉で体に待ったが掛かる。

『とか言ってる間にまた言い寄られてるよ』
『競争率高いよなー、どう考えても』

そうぼやく奴らの目線の先は屋敷の庭だった。優先度を瞬時に天秤に掛けた俺は、そいつらを軽く睨みつけながら横を通り過ぎる。

ようやく視界に捉えた彼女は花のような笑みを浮かべて佇んでいた。
どす黒い感情が一瞬浄化された気がしたのも束の間、どこの馬の骨とも分からん隊士が気安く声を掛けているのが目に入り、また胸がざわつき始める。
作業を止めてそいつに向き直った彼女はニコリと微笑んで小首を傾げたものの、すぐに遠慮するような仕草を見せる。男はそれを押し切って、物干し竿に掛かった洗濯物を次々に籠へと放り始めた。

屋敷の仕事を隊士が善意で手伝ってるってだけなら、俺がとやかく言う筋合いはこれっぽっちもないんだけどさ。
彼女の音が遠慮から困惑に変わった瞬間、足先が乱暴に外履きを引っ掛けていた。
ざっ、と庭の土をにじる音に振り返った名前ちゃんは一瞬目を見開いて、それから心底安堵したような音を立てた。

「ねぇ、何してんの」
『え、何?君誰だよ』
「別に誰でもいいだろ、それより何してんのって聞いてんだけど」
『見ての通り苗字さんの仕事を手伝ってるんだよ、邪魔しないでくれるかな』

真っ当な正義感振りかざしてるけど、お前の腹の底なんてたかが知れてるっての。その証拠にめちゃくちゃ下心丸出しの下品な音してるし。
それに名前ちゃんに迷惑掛けてる時点でもう重罪なんだよ。
ずいっと胸を張って威圧するそいつの前で、大袈裟にため息を吐いてみせた。

「あのさぁ、全然乾いてないでしょそれ」
『え…?あっ!うわ、本当だ…』
「朝一番に干したのは向こうの竿、こっちは昼の洗濯物…だよね?名前ちゃん」

目の前の押し問答を落ち着かない様子で見ていた彼女にそう確認すると、少し驚いた様子で頷いた。
たまに屋敷の雑用を買って出るお人好し炭治郎に、なんとなくそんな話を聞いた覚えがあったから助かった。あいつが任務から帰ってくるまでに梅昆布おにぎり拵えといてやろ。
その前に、この能無し下衆野郎の始末をつけとかないと。

「あんたが考え無しにポンポン放り込んだの、また一から干し直さないといけないんだけど…まさか彼女にやらせるって事はないよな?」
『も、もちろん、俺がやります!ごめん苗字さん!』
「だってさ、名前ちゃん!寒いし後は任せて中入ろっか」

務めて明るい声を装うけど、全然顔が笑ってないのが分かる。名前ちゃんの事になるとほんと情けないくらい余裕が無くなる。いや俺に余裕なんてものは常日頃から無いけども。
さっきの二人組がぽかんと口を開けて立っているのを横目に、彼女の顔も見ず強引に腕を引いて廊下を進む。

『残念ながら彼女も先約があるみたいだな』
『くそぉ…』

微かに聞こえたそんな会話にほくそ笑んでいると、くい、と控えめに抵抗されて立ち止まる。
屋敷の裏手に位置するここは比較的静かで、普段から人の出入りも少ない。振り返ると、きし、と板張りが音を立てた。
肩で息をする名前ちゃんの姿に若干申し訳なく感じたものの、さっきの隊士に向けていたあの笑顔が頭をよぎってまた苛立ってしまう。
何も言わずにじっと見つめると、名前ちゃんは一瞬視線がかち合った後すぐに目を逸らした。そしてぺこりと頭を下げたかと思うと、踵を返し立ち去ろうとする。

その瞬間、焚き付けられっ放しだった嫉妬心と独占欲がとうとう火を噴いた。
気付けば彼女の腕を再び掴んで、そのまま壁に体を押し付けていた。股の間に膝を割り込ませ、腕を壁について逃げ場を無くすと、彼女は大きく目を見開いてまた視線を泳がせる。

「なんで逃げるの」

そう問い掛けると、名前ちゃんは俯いた。
掴んだ腕には全然力が入ってなくて、何も抵抗する気配がない。
だけど、さっきからろくに目を合わせてくれないのは何なんだ。あいつにはあんな可愛い顔してみせたくせに、どうして。

「…そんなに嫌だった?あの口づけ」

その言葉に、名前ちゃんは弾かれたように顔を上げた。
否定も肯定もせずただ戸惑った様子で瞳を揺らす彼女に、もやついた胸がさらに荒れていく。
声が出ないからなんだ、乙女心がなんだ、これのどこが心を許してるってんだよ。
だけどそんなやけくそな思考とは裏腹に、俺の耳はちゃんと彼女の音を拾っていた。
焦がれるようにはやる心音と、恥じらいを湛えた震える息遣い。
潤んだ瞳ともう一度視線が交わった時、俺の中でぷちんと何かが切れた。

「不本意じゃなければ、問題ないって事だよね」

一方的にそう告げて腕の長さだけ空いていた距離を詰めると、壁と俺の胸板の間でいよいよ身動きの取れなくなった彼女が息を呑んだのが分かった。
声が出ないのをいい事に強引に迫るなんてさっきの野郎共と大差無いし、むしろよっぽど姑息だって自覚してる。彼女は自分のものでも何でもないっていうのに。
だけどそう思えば思うほど、自分勝手に走り回る欲望を止められなくなる。嫌なら突き飛ばして逃げればいいんだし、と自分本位な言動を都合良く正当化して。

「俺は、触れたい」

あんなほとんど乗っ取られた体で、差し迫った状況の打開策なんかじゃなくて。
もっとちゃんと、自分の意志で。

「名前に触れたい」

彼女の耳元に顔を寄せて囁くと、限界まで近づいた体が微かに触れ合った。
眩暈がするほど柔らかい膨らみに思わず熱い吐息を漏らすと、ぴくん、と彼女の肩が跳ねる。

初心な反応と甘い香りに完全に当てられて、理性なんてものは何処かへ飛んでいった。いや、そんなもん初めから持ち合わせてなかったのかも。
そうやって開き直ってしまったが最後、その仄かに染まった桜色の唇しかもう見えなくなって。
はくはくと小さく震えるように動く口元を撫でるように指を沿わせれば、彼女はぎゅっと固く瞼を閉じて大きく胸で息を吸った。
彼女のか自分のか分からなくなるほどの大きな心音を耳にしながら、そのまま吸い寄せられるようにゆっくりと顔を寄せていく。


「っ善逸の、馬鹿!!変態!!助平!!!」
「あ…!名前ちゃん、声、」
「へ?あ、あれほんとだ喋れてる…」

廊下に響き渡ったそれは紛れもなく、待ち焦がれた彼女の声だった。やっと紡がれた言葉が俺への悪口なのはちょっと不名誉だけど。
思いがけない復調をまだ飲み込めていない様子であたふたする彼女を見て、ようやく俺も肩の力が抜けたようだった。
やっぱり、普段通りの名前ちゃんがいいや。
そんな事を思いながら胸を撫で下ろしていると、どこからともなく地響きのような音が聞こえてきた。ドドドドド、と何かが迫り来るようなその音はどんどん近づく。
程なくして廊下の曲がり角から勢いよく飛び出したのは、明らかに俺に敵意を向けたなほちゃん、すみちゃん、きよちゃん。
それも、手にはしっかりと布団叩きを握りしめて。

「突撃ーーっ!!!」
「覚悟ーーっ!!!」
「成敗ーーっ!!!」

あっという間に取り囲まれて、それからはもう言うまでもない。
そもそも全面的に俺が悪いわけで、弁明させてもらえるとも思わないしそんな気もない…けど、これだけは主張したい。

自業自得!と言い残して去っていく名前ちゃんからちょっと残念そうな音がしたのは、絶対俺の気のせいなんかじゃないって。

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