融けた鈍色

喉が本調子に戻り無事任務にも復帰して五日ほど経った頃、しのぶさんに再び声を掛けられた。
聞かされた内容は、鬼舞辻無惨を弱体化させる薬の研究という極めて重大な責務。その人員としてしのぶさんと共に私も選ばれたという事。更には共に携わるのが鬼の医者だというのだから、思考が追いつかずその場で固まってしまった。

しのぶさんはともかく私なんぞにそんな大役が務まるのか、そもそも鬼と共同で研究なんて可能なのか。
そんな事をぐるぐると考えている間にあれよあれよと話は進み、気付けばしのぶさんに連れられて山の奥地にひっそりと佇むお屋敷へと足を踏み入れていたのだった。

「どうぞこちらへ、ご案内いたします」

あの時と同じ子かどうかは正直判断がつかないけれど、その抑揚のない声と切り揃えられた髪型に最終選抜の記憶が思い起こされる。
あの頃はまさか自分が毒の研究をする事になるとは思ってもみなかったし、こうして鬼殺隊本部に赴くなんて縁のない事だと思っていた。
重大な任務に尻込みしそうになりながらも、その一員に選ばれた事で少なからず今までやってきた事は無駄ではなかったと思える。
お館様の病状が芳しくなくお目通りは叶わなかったけれど、話に聞く通り寛大なお心で言葉を掛けてくださる方なんだろう。柱稽古に参加できないのは残念だけれど、私を認めてくださったお館様に報いるためにも精一杯取り組もう。

広大な敷地内へ通されて、誘導されるままその後ろをついて歩く。ちらりと隣に目をやると、しのぶさんの表情にいつもの微笑みはなく、真顔で前を見据えていた。
高まる緊張を落ち着かせようと呼吸をそっと整えると、一瞬、しのぶさんの気配に妙な違和感を覚えた。改めて意識を集中させてみたものの、特に目立った異変は見られない。
具体的にどうおかしいのかはっきり言葉にできない。けれど何となく、いつもの色濃く佇むしのぶさんの気配が、じわりと中心から何かに侵蝕されていくような。
一度そんな事を考え出してしまうと、その白い肌や細い体が病的にも見えてくる。何か心当たりは無いか尋ねようとしたところで、前を歩く白髪の少女が足を止めた。


「先方は既に中でお待ちです、どうぞお入りください」

扉の向こうから微かに感じる鬼の気配。
少し躊躇する私を他所にしのぶさんはガチャリと扉を開き、部屋の中へ数歩進んで足を止めた。慌ててその後に続いてしのぶさんの様子を伺う。
無理矢理貼り付けたような微笑みと、額に浮かんだ青筋。いつも涼やかな気配を纏っているしのぶさんから露骨に嫌悪感が漏れ出していて肝が冷える。
その視線の先に佇むのは、椿柄の和服を着た淑やかな雰囲気の女性と書生姿の吊り目の男性だった。

「いいか人間、妙な真似をすればすぐに研究は中止だからな」
「やめなさい愈史郎、」
「あなたもお分かりでしょう、珠世様!このあからさまな敵意に目を瞑れと言うのですか!?」

珠世様、と呼ばれた女性が居心地悪そうに眉を下げるのに対して、愈史郎という男性は鋭い目つきでこちらを睨みつけている。
それを受けてさらに青筋を深くするしのぶさんの様子に、このままでは駄目だと咄嗟に口を開く。

「あ、あの…まずはお互いにご挨拶しませんか、」

たった今、私は自分の役割を悟った。きっとお館様は仲介役として私を人員に含めたのだろう。薬学の知識がある上、独自に毒の研究も行なっていた為に白羽の矢が立ったというわけだ。
ひとまず会話を切り出したものの、目の前で静かにぶつかり合う殺意に冷や汗が止まらなくなった。まずい、どうしよう。私が上手く取り持たないと研究が滞ってしまう。

「…それもそうですね、研究を進める上で役割分担も決めなくてはいけませんし」
「しのぶさん…」

はぁ、と一つ息を吐いたしのぶさんは、どうにか気持ちを切り替えた様子で警戒を解いた。
しのぶさんの気持ちも理解できるだけに、その心中を思うと居た堪れない。家族の命を奪った鬼という存在を許せないのは私も同じだし、ましてや手を組むなんて。
禰豆子ちゃんに対してさえあまり接点を持とうとしないしのぶさんにとって、この共同研究は耐え難い苦痛だろうと思う。

けれど目の前の二人は、憎むべき鬼とは一線を画した存在だと分かる。
纏っているのは紛れもなく鬼の気配だけれど、人を襲う鬼に比べてその要素が随分薄い。どことなく禰豆子ちゃんと似たような気配だ。十分信用に値する。この人達は、人間を襲う事はしない。
しのぶさんの敵意が薄れたのを感じ取ったのか、それまで凄みを利かせていた愈史郎さんがすっと珠世さんの後ろへと控えた。
眼差しは相変わらず鋭いけれど、先程までの殺気は消えていてひとまず安堵する。
軽くお互いの名前だけ名乗り終えると、珠世さんが口を開いた。

「鬼舞辻の体の構造や性質については多少把握しています…ですが、どのような薬がどれほど作用するかはやはり未知数です」
「ではいくつか違う薬を作って、より強く作用するよう掛け合わせてみましょう」
「えぇ、薬をいくつか持参してきましたので、まずはそれらを調整してみます」
「それは…鬼を人間に戻す、という薬でしょうか?」
「はい、まだ試作段階ですが…炭治郎さんが十二鬼月の血を採取してくださったお陰で、何とか形になりつつあります」

不意に耳にしたその名前で、ようやく点と点が線で繋がった。禰豆子ちゃんを人間に戻すため炭治郎がとある研究者に協力している、とだけ話を聞いた事があったから。
しのぶさんの表情も幾分か柔らかくなったように見えて、信頼を繋いでくれた炭治郎に心の中で感謝した。

「名前さんは、ご自身で毒の研究をされていたのですか?」
「あ、はい、でも藤の花から抽出しているとは言え、しのぶさんの毒ほど強力ではないと思いますが…」
「その事なんですが名前さん、おそらくあなたの毒は私のとは全く別物と考えて良いでしょう」
「え?」

その言葉に一瞬理解が遅れて問い掛けると、しのぶさんは少し思案しながら答える。

「あなたが毒を用いた任務の報告書を一通り読みましたが、どれも鬼に対して特殊な作用を起こしていました」
「特殊…ですか」
「えぇ、例えば一時的にではありますが鬼の動きを完全に封じたり…人間の肉体を支配する血鬼術を解いたのは記憶に新しいですね」

確かに、言われてみれば特殊かもしれない。しのぶさんが戦闘しているのを見る機会がなかったわけだし、比較のしようがなくて気が付かなかった。
それに、てっきり私が作った毒はしのぶさんの下位互換だと考えていたから。未熟な事に変わりはないけれど、自分の研究でちゃんと新しいものを生み出せていたと分かって少し嬉しく思えた。

「つまり…私達三人がそれぞれ薬を仕上げれば、その分複雑な効能が見込めるという事ですね」
「その通りです、早速各自取り掛かりましょう」
「は、はい!」
「ひとまず各々の薬が仕上がるまでは、部屋を分けておきませんか?」
「同意見です、その方が集中できるでしょうから」

部屋の両壁にはおあつらえ向きに扉が付いていて、廊下に出ずとも部屋を行き来できるようだった。
東側の部屋をしのぶさんが、西側を私が使う事になり、部屋を移動しようとすると珠世さんが愈史郎さんを連れて来た。

「名前さん、何か要り用のものや手助けが必要でしたらこの子に申し付けてください」
「分かりました、よろしくお願いします愈史郎さん」
「ふん、あまり俺の手を煩わせるなよ小娘」
「またそのような事を言って!きちんとご挨拶なさい」
「怒った顔の珠世様も美しい…」
「愈史郎!」
「はい珠世様、仰せのままに」

先程まで発していた殺気はどこへやら、珠世さんが絡むと途端に生き生きとし始める愈史郎さん。
悪態を吐いたかと思えば冗談を口にして、女性の美貌に惚けてみたり。至極真面目な顔をしてはいるものの、その姿はどこかの誰かさんを彷彿とさせる。

今頃柱稽古で喚き散らしてるんだろうな、なんて思いを馳せれば、緊張していた気持ちが少し落ち着きを取り戻した気がした。

「何がおかしい」
「え?」

無意識に口元が緩んでいたようで、また不機嫌そうに眉を寄せた愈史郎さんに指摘されてしまった。

「いえごめんなさい、ただ…少し羨ましいなって」
「何の話だ」
「愈史郎さんが、自分の気持ちに素直に生きてるように見えたので」
「知ったような口を利くな、それとも馬鹿にしてるのか」
「ち、違いますって!殺気出さないでください…!」
「…羨むくらいならそうすればいいだろ」

一貫した風当たりの強さにそろそろやりづらさを感じていると、愈史郎さんが不意に語気を緩めた。
話の軌道に乗っかってくれた、と捉えていいのだろうか。淡々と準備をこなす愈史郎さんを見て、私も作業に取り掛かりつつ会話を続けた。

「怖いんですよね、失ったり悔やんだりするのが…結局逃げてるだけなんですけど」

両親が亡くなったあの日からずっと抱えてきた、孤独への恐怖と心の痛み。残す方も残される方もただただ辛いと分かっていて、それでも想いを伝えられる人を、いつしか密かに羨むようになっていた。
善逸を想う度に胸が熱くなって、ずっと隣にいられたらなんて浮ついた事を考えてしまう。時には触れたいとすら。
けれど過去に囚われたままの思考がどうしても拭いきれず、意地を張って、躊躇して、失う覚悟ができないままでいる。頭と体と心がバラバラで、自分が選んだ道なのに時々苦しくなって。

「…お前の事情など知った事ではないし知りたいとも思わないが、どちらにせよそのままだといつか後悔するだろうな」
「え…?」
「そうやっていつまでも目を背けていたら、本当に大切なものまで見失うぞ」

その鋭い瞳と、初めてしっかりと視線が合った。
猫のように縦長の瞳孔はやはり鬼の目そのものだけれど、理性と慈愛を湛えたその輝きはまさしく人間と何ら変わりがない。
彼は全て覚悟の上で珠世さんの傍にいるのだと、そう物語っていた。

「強いんですね、愈史郎さんは」
「別に強くも弱くもない…珠世様に救っていただいた命だ、元より無かったようなものだからな」
「…怖くないんですか?」
「怖いというよりも腹立たしい、珠世様との時間を邪魔されて俺は頭に来ている」

そう言って愈史郎さんは心底不愉快そうな表情を見せる。
鬼である彼らは、きっと私の想像もつかないほどに永い年月を過ごしてきたのだろう。無惨から逃れながら人間の目につかぬよう、ひっそりと互いに支え合って。
愈史郎さんにとっては珠世さんこそが何にも代え難く、かけがえのない存在なんだ。

「私、出来るだけ早く研究を終えられるように頑張ります!」
「こっちは初めからそのつもりだ、さっさと取り掛かれ盆暗」
「はいっ」
「…たとえ報われなくても、傍に居られればそれだけでいい」

口調はそのままに、小さく呟いたその言葉。
ぞんざいな話し振りの裏に秘められた、大切に育まれてきたであろう想いと、少しの寂しさ。
そんな人間らしさが揺らめいた気配からなんとなく伝わってきて、微笑ましい気持ちになった。

「好きなんですね、珠世さんの事」
「な…っ!!」

そう言葉を掛けるや否や、愈史郎さんは口をぱくぱくと動かした後、真っ赤になって黙り込んでしまった。
思わぬ初心な一面にまた顔が緩む。今日一番の収穫はこれかもしれない。
今度から優位に立ちたい時には積極的に使っていこう、なんて悪い事を考えたのだった。


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ひと月余りを費やして無事に薬が完成した。ほぼ缶詰状態で試作を繰り返した甲斐あって、狙い通り段階的に複雑な作用を起こす代物となった。
あとは然るべき時、然るべき方法で。想像するだけで表情の強張る私に『責任を持ってお預かりします』と珠世さんは凛と答えてくれた。
そんな彼女に対し深々と頭を下げたしのぶさんの姿を見て、ようやく荷が降りた心持ちで産屋敷邸を後にしたのだった。

久方振りに戻った蝶屋敷は、柱稽古真っ只中のせいか人っ子一人見当たらなかった。アオイさん達が留守なのも、救護や炊事の為に柱の誰かの屋敷へ出払っているのかもしれない。
そんないつもより静かな空間に、カァ、と短い鳴き声が響く。
鬼の出現がぱたりと止んで以降、任務を告げるその声も聞く事は無くなっていたのに。まさか無惨に何か動きが?と若干焦りながら鴉を見れば、いやに落ち着いた様子だった。
どうしたの、と問い掛けるとおずおずとこちらへ近づいて片脚を差し出した。

「手紙ね、ありがとう」

その細脚に括り付けられた紙を解きながら、妙な感覚に襲われる。自分でもよく分からないけれど、何故か胸騒ぎがして。
少し汗ばむ手で紙を開けば、簡潔に纏められた文章が否応無しに目に飛び込んだ。


背信、切腹、自害――

そんな文字の羅列に、脳が拒否反応を示して思考が鈍くなる。到底受け入れられない現実が容赦なく頭と心を攻め立てて、地に足が着かない感覚に吐き気を催した。
最後に筆を取ったのはほんの五日ほど前の事。
息災を知らせる達筆を読み返しながら、あの豪快な笑い声を思い出して。
“桃の実が熟れる頃には、きっと帰ります”
“また四人で食卓を囲める日を願いつつ、励んで参ります”
そう締め括った手紙の返事がこんな形で返って来るなんて。

行き場のない感情を溜め込んで震える体に、支えきれなくなった膝が折れた。
鬼殺隊士である以上、いつ死んでしまうか分からない。そんなあって無いような自分の命よりも、家族や仲間の存在が何より大切だったのに。
また私は、家族を守れなかった。

修行の時の厳しい表情も、穏やかで温かい笑顔も。周りの人間を包み込むようなあの強く優しい色を、もう二度と感じる事はできない。
両親を失くしたあの日と同じ。胸が引き裂かれるように辛い。
それでもこうして涙を溢さずにいられるのは、これからやるべき事を頭と体が理解しているから。蹲って泣いている暇など無い、自分にできる事をやれ、と。
私はもう、何もできなかったあの頃とは違う。
跪いた地面を力任せに引っ掻いて、頭に血が昇るのをやり過ごす。血が滲んだ指先もそのままに拳をきつく握り締めた。


それから、しばらく取り憑かれたように刀を振っていた。
手が震えて力が入らなくなり、刀を取り落としてようやく両足がぴたりと止まる。
静まり返る庭に溶けていく自分の荒い呼吸音を聞くうちに、徐々に冷静さを取り戻す。気付けば既に日は落ちて、夜空にぽつんと三日月が浮いていた。

地面に転がった刀をそっと拾い上げ月明かりに翳すと、藍色の刀身が控えめに照らされた。母の瞳の色と似通ったその色のお陰で、母が守ってくれているような気がしていた。今は亡き両親に、心のどこかで縋っていたのかもしれない。
師範には師範の、善逸には善逸の。自らを模したようなあの色味や紋様が思い出されて、静かに鞘へと戻した。

善逸は、今どんな事を考えているだろうか。
怒ってるかな。それとも泣いてるかな。今しがたの私みたいに、ひたすら鍛錬に打ち込んでいるかもしれない。
あの苦しくて楽しかった日々のどこを切り取って思い出しても、その風景の中に彼がいる。師範に滅茶苦茶に締め上げられて、泣いて、叫んで、弱音を吐いて、逃げ出して。挙句の果てには雷に打たれるなんていうとんでもない大事故に見舞われて。
それでも決して諦めなかった彼は、変わらず私の側にいてくれている。それがどんなに心強くて、嬉しくて、救われている事か。

不謹慎、かもしれない。親族であり師匠である大切な人が兄弟子の背信によって自ら命を絶ったというのに。それでも尚鼓動するこの胸が、締め付けられるようにしくしくと痛んで仕方ない。弔う心と拮抗するくらい、彼の事が恋しくて堪らないのだ。
顔を見れば、きっと感情的になってしまう。ずっと言わないでいた本心も漏れ出てしまう気がした。
でも、それでもいいと思えた。今はただ、あの温かな体温と穏やかな蒲公英色に包まれたくて。

突き動かされるように動いた足で自室に上がるや否や、筆を執った。
我妻善逸様、と書き出したのはこれで何度目だろうか。普段はじっくりと推敲して慎重に書き進めるはずの筆先が、つらつらと文字を連ねていく。
たった、四文字。
これほど簡潔に書き留められていては、もはや文とは呼べないのかもしれない。相手の息災を案じる事もなければ弾むような話題も約束の取り付けもない。一方的に心根をぶつけられた彼はどんな顔をするのだろうか。
そう思うと、末尾に自分の名前を書こうとして一瞬躊躇う。今更気にするなんて、自分の中途半端な自制心がほとほと嫌になる。

一つ息を吐いて再び机に向き合った、刹那。


「産屋敷邸、襲撃ーーッ!!」


ぱた、と小さく墨が滲むと同時に目の前の景色がぐわりと歪む。
傍に置いた日輪刀を自分の手が何とか掴んだ光景を最後に、視界が白んでいった。

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