水盃を飲み干して

肌から伝わる固く冷たい感触に、ぶるりと身震いして目が覚めた。
ぼんやりとした意識のまま薄暗い空間を暫く見つめていると徐々に目が慣れてくる。微かに鼻腔を擽る薬品と紙の匂いに、一気に頭が覚醒した。

勢いよく起き上がればやはりそこは実家の診療所だった。ぐるりと見回すと案の定、部屋の片隅には両親の亡骸が。
かつては月夜の度に魘されていた夢もとんと見なくなっていたのに。それがまたこうして前触れなく現れたという事は、必ず何かしらの意味があるはず。ここ最近鬼の出現が無かった事とも関係があるのだろうか。
産屋敷邸襲撃、と意識を手放す直前に聞こえた鎹鴉の声は、おそらく最終局面の始まりを告げるものだった。
みんなが戦っている。早くこの悪夢から目覚めて私も赴かなくては。

かたん、と小さく鳴った物音に反射的に身構えた。ゆっくりと扉が開き、現れた姿を視界に捉える。


「…え、」

思わず小さく声が漏れた。まだ少し上背が低く、髪の毛も辛うじて結えるくらいの短さ。そして見紛うはずもない藍色の瞳。
間違いなく、在りし日の私の姿だった。
大きく見開かれた少女の瞳は、立ち尽くす私のそれと一向に目線が合わない。すくんだ脚を蹴り出して私の横をすり抜けると、息絶えた両親の前で崩れるように膝をついた。

怒りと悲しみに暮れた小さな体がぶるぶると震えるのを、ただただ黙って見下ろしていた。
あの時こんな顔してたんだ、私。
自分の事なのに、こうも俯瞰で見えてしまうと客観的にならざるを得なかった。いや、そうしなければ心を保てなくなりそうだった。
彼女に今見えているのは、孤独で非情な現実だけ。成長した自分の姿や充実した未来なんて想像もできないくらい打ちひしがれて。今でも鮮明に思い出せるのだ、あの時の虚無感が。

心を殺した日々が報われるのはいつになるのか、そもそもそんな時が来るのかどうかも未だに分からない。
けれど、今の私は少なくとも孤独ではないのだ。同じ志を持ち、痛みや悲しみを分かち合える仲間達がいる。いつも傍にいてくれる大事な人だって。
あの時嗚咽を堪える事しか出来なかった体を誰かが優しく摩ってくれていたなら、少しは自分の事を許せていたかもしれない。ありのままの自分を認める素直さを手放す事なんてなかったのかもしれない。
そう思うと、たとえ夢でも伝わらなくても、あの頃のひとりぼっちの私に寄り添ってやりたくなった。それで救われるのはきっと、彼女ではなくて今の私自身だけれど。

弧を描く背中にそっと手を伸ばしたその瞬間、ぐしゃり、という嫌な音が響いた。

空を切った手の平の向こうで、脱力した小さな体が前のめりに倒れていく。両親に寄り掛かるような形で動かなくなり、やがて床に広がる血溜まりを大きくしていった。
放心する間もなく突如背後に察知した気配に、宙ぶらりんだった手を刀に添わせて振り返る。

そこに立っていたのは着物姿の少年だった。体は小さく手足もか細いけれど、獣のように絞られた瞳孔や纏う気配はまさしく鬼のそれだ。
鬼はそのあどけなさの残る顔立ちに似つかわしくない、抑揚のない口調で話し始めた。

「この状況を未だにただの『悪夢』だと思っているなら、勘違いも甚だしいな」
「…どういう意味、」
「『時と空間の操作』、それこそが私の血鬼術だ」

異能の鬼によく見られる攻撃の威力や範囲を変質させる血鬼術に比べて、明らかに特異なもの。おそらく物理的な攻撃が飛んでくる事はないだろうけれど、全容が把握できていない分かなり厄介だ。
時と空間を操るという事はつまり、過去や現在を自在に行き来し、その空間を捻じ曲げられるという事だろうか。思考回路をぐるぐると巡らせ続けて考え得る仮説を全て肯定していけば、一つの答えに辿り着く。
であるなら、私が今まで見てきたものは、夢だと思っていたものは。

「今流れている時間、形成されたこの空間…全てがお前の過去そのもので紛れもない現実という訳だ」
「…何のためにこんな事を」
「言っただろう、お前が絶望を味わうのを見たいと」

確かに聞いたその声、その言葉。あれも夢でなく現実だったなんて。
私は何度も何度も、この惨たらしい過去へと連れ回されていたという訳か。どこまでも趣味の悪い鬼だ。
腰元の左手が鯉口を切りかけたけれど、ふっと鍔に添えていた親指の力を抜いて思い止まる。

「どうした、刀を抜かないのか」
「斬ったところで、どうせ意味がないんでしょう?あなたのその姿も実体かどうか怪しいところだし」
「ほう、夢だと信じて疑わなかった割には察しの良い事だ」

わざとらしく眉を上げてみせる鬼を見据えつつ、ふと、ある違和感が頭の片隅に引っ掛かる。これが夢でなく現実なのだとしたら、明らかに不自然な部分。
それは、折り重なった両親にもたれ掛かって事切れている私の姿だ。現に私は生きている。これでは過去と現在に矛盾が生じて…


「…まさか、」
「ようやく悟ったか、己の置かれた状況を」

どうやら、思い至った最悪の予想は的中してしまったようだった。変質した過去が未来に影響を及ぼさない訳がない。過去の私が死んでしまったという事は、今こうして私が存在しているのはおかしいのだ。
そんな私の心境を見透かすかのように、目先の鬼はさぞ嬉しそうにくつくつと喉の奥を鳴らす。

「見ろ、」

くい、と顎を上に一度持ち上げた鬼の目線を辿れば、頭上を覆っていた診療所の天井が透けていく。代わりに視界に入ったのは、暗い夜空に薄らと浮かぶ三日月。
先ほどまでじんわりと地上を照らしていた控えめな青白さとは程遠い、血が滲んだような紅だった。

「あの月が満ちる時、お前の肉体は跡形もなく消えてなくなる」

下弦の後の、終わりかけの三日月。という事は満月まであと三週間ほどだけれど、それはここでの時間が正しく流れている事が前提だ。
じっと見つめるその月は肉眼でも確認できるほどじわりじわりと動いていて、やはり実際よりも早く時が進んでいると確信する。

「もってあと四半刻だ、実際の時間ではふた月以上経つだろうな」
「まるで浦島太郎ね」
「ハッ、御伽噺ならば良かったな?」

何故わざわざふた月も猶予を?と一瞬疑問を抱いたものの、眼前で薄ら笑う鬼の魂胆を考えればすぐに腑に落ちた。とにかくこいつは私が苦しむのを見たいのだ。死の宣告を言い渡しておいて、ギリギリまでもがいて足掻く様を楽しもうとしているに違いない。
努めて冷静にいようと小さく息を吐き出した。悲観して取り乱しでもすれば思う壺だ。こいつが鬼であるなら、滅する方法は必ずあるはず。

「言っておくが、他者に助けを求める事など無意味だぞ」
「ふた月もの間私が居ないとなると、誰かが不審に思いそうなものだけれど」
「存在というのは何も物象だけではない、お前が消えゆくのと比例して人々の記憶からも抜け去っていく」
「私の身の回りの物や痕跡は?」
「勿論徐々に消滅するさ、お前にまつわる全ての事象が無きものとなるのだ」

私の存在が完全に消えてしまえば、生きた証というのも存在し得ない。理不尽な状況ではあるものの納得してしまう。
これほどの執着を見せる鬼の事だ、私の存在をより濃く裏付ける痕跡から消していくだろう。その方が効率良く私を貶められる。

「随分ご丁寧に手の内を明かしてくれるのね」
「その方がより救いが無いだろう?」
「…今頃柱達を筆頭に鬼殺隊が集結してる、無惨が死んでも同じ事が言えるかしら」

柱は勿論の事、隊士達が余す事なく招集され今まさに全身全霊を捧げ闘っているに違いない。
全ては無惨を討つために。今日という日に、命を賭すために生き延びてきたと言っても過言ではないのだから。
そんな私の言葉を嘲るように、鬼はひょいと眉を上げて鼻で笑ってみせた。

「その頼れる柱とやらも殆ど虫の息だぞ?お前の慕っていた女の柱、あれもとうに死んだ」
「……そう」
「お前の連れは兄弟子とやらに無様に敗けると思っていたが、しぶとく生き残っているようだ…まぁその方が好都合ではあるがな」


ぺらぺらと紡がれていく言葉の、その情報だけを脳に取り込んだ。そこに付随する感情や意思の一切を遮断して。
こんな芸当ができるようになったのなんて、ほんのついさっきの話だ。私は元来強い人間じゃないから、少しは楽になれる方法も知っている。一言一句に心を痛めて俯き耳を塞いで、感情のままに涙を流してしまえばいい。
けれど私はもう泣かない。
正確には、泣けないのだ。悲しい時、嬉しい時、泣けば泣くほど自分の弱さが露呈するから。
誰に言われずとも強くなると決めたのは他でもない自分で、だからこそずっと呪いのように縛り続けてきた。誰かが死ぬ現実も受け入れられず自分が死ぬ覚悟もない、そんな中途半端な人間の振るうナマクラなんて精々悪夢を紛らわす程度のものにしかならない。
師範が亡くなって漸く腹が決まったのは、きっともう昔の私を知る人間がいなくなったからだと思う。

しのぶさんが、死んだ。他の柱も満身創痍。戦況が芳しくないのは明白だ。淡々とした鬼の口振りは、出鱈目を吐いているとも思えない。
善逸が生きている事への安堵と、彼に仇討ちをさせてしまった事への罪悪感は一旦思考の外側へ追いやった。ひとまずこの状況を何とか打破する事が先決だ。
目の前の鬼が実体ではないのなら、日輪刀も藤の毒も意味がない。陽光が差す頃には私もとっくに消えている。となれば、一刻も早くどこかに潜んでいるであろう本体を見つけ出して斬るしかない。


「そう焦るな、面白いものを見せてやろう」

愉快そうに弾んだ口調の鬼がおもむろに虚空に手を翳す。
その瞬間、突如目の前の空間が円窓のように切り取られた。身構えたのも束の間、そこに映し出された光景に言葉を失う。
滅茶苦茶に破壊された建物、所々抉れて剥き出しになった地面、そこら中に散らばる夥しい量の血痕。そして背から凶悪な触手を幾つも生やし、牙を剥き出しにして威嚇する一体の鬼。瞳孔が鋭く狭まった赫い瞳を見た瞬間、息が止まった。
形を変え広がった額の痣、赤銅色の髪、あの耳飾り。

「炭、治郎、」

時の流れる速さが異なるせいか、途切れ途切れで早回しのように移り変わる光景が目まぐるしく動き続ける。
獣のように四つん這いの炭治郎に必死でしがみ付いているのは、紛れもなく禰󠄀豆子ちゃんだ。血だらけになって涙を流し何かを叫ぶ彼女は、炭治郎をはじめ誰もが待ち望んだ人間としての自我を取り戻しているのに。
ぐ、と目を逸らして唇を噛んだ。本来なら私もその場で命の灯を燃やしているはずだった。そうなってしまった経緯も、どれだけ凄惨な被害が出ているのかも知らない。肝心な時に力になれないなんて、一体私は何のために今まで。
ぎりぎりと歯を食いしばる私を他所に、鬼はぽつりと静かに零す。

「人の想いは不滅などと戯言に絆されて…鬼の始祖も所詮その程度だったという事か」
「…まるで他人事ね、あなたも鬼であるからには無惨の配下なんでしょう?」
「私は鬼舞辻の血を分け与えられずとも、自らの力と意思で鬼となっている」

言葉の意味が理解できず眉を顰めた。そんな事、あり得るのか。
鬼舞辻無惨こそが鬼の始祖であり、全ての元凶。その揺るぎない認識を根底から覆されて、ひやりとした嫌な汗が背中を伝う。

「絶えず人間を喰らい続ける事でこうして完全な肉体と能力を手に入れたのだ、勿論奴に支配される事もない」
「…何故?どうしてそこまでして、」
「どうして、だと」

問い質すつもりで語気を強めたはずの私の言葉が、数段上を行く鬼のそれに塗り替えられた。
先程までとは明らかに異なる強烈な気配に空気が一変する。明確な殺気がこちらに向けられているのが分かり、ざわざわと背筋が粟立った。

「お前が…お前達が、私の母を殺したのだ」
「な、」
「父の不貞に心を病んだ母を連れて縋る思いで訪ねたが、お前の父親は『薬では治せない』と言い放って…絶望した母は首を括った」
「…っ」
「殺すつもりで父の酒に毒を盛ったが何の因果かお前の診療所に運ばれ、そしてあろう事か一命を取り留めてしまった」


医者がおらぬ時をわざわざ狙ってやったというのに。


その言葉でようやく合点がいった。勢い良く顔を上げると、こちらを睨め付ける鋭い眼光と目線が交わる。

「そう、他でもないお前のせいでな」

あの時の、急患。
父が訪問診療で不在の折に運ばれてきた男性。心臓の血管が狭まっているのが視えて、応急処置を施した。よく覚えている。
あの日を境に、私の不思議な視力は認められたようなものだった。それまで周囲に気味悪がられ疎ましがられるだけの奇妙な眼が、人を助けられる特別なものに変わった、そのきっかけだったから。

「やがて回復した父はこれ幸いと私を捨てて別の女の元へ出て行った、後はお前にも想像がつくだろう?」
「……殺したのね」
「ああ殺した、喰らってやった…漲っていく力と共に私は誓ったのだ、必ずお前達に復讐してやると」
「……」
「母を見捨てたばかりか、忌々しいあの男の命を救うなどという愚行…この報いは必ず受けさせてやる」


鬼の言葉を聞いても尚、あの時の判断は間違っていたとは思わない。目の前で苦しむ人に手を差し伸べる、それはずっと患者と向き合う父と母の背を見て育った私にとって当然の事だった。
だからその人がどういう人間であろうと、苦しんでいるのなら助ける。あの時もしも父がいて、尚且つ事情を知っていたとしても、きっとあの人を助けただろうと思う。
ただ、何も言葉が出なかった。
自ら鬼へと成り果てるほどに、この鬼は私に対する憎悪と怨讐を募らせた。正しかろうと間違っていようと、理に適っていようと理不尽だろうと、原因は須く私にあるのだ。もしも私がこの鬼の立場だったなら、怒りや悲しみに囚われて同じように過ちを犯していたかもしれない。
私利私欲に塗れ平気で他者を虐げている人間がいるのは確かな事実だ。それを許せない気持ちも、私を憎む気持ちも理解できる。
けれど一方で、身を粉にして世のため人の為に尽くす善良な人間もたくさんいる。少なくとも私の周りにいるのはそういう人達だ。自らも痛みを抱えているからこそ、それ以上に他人の痛みが分かる人達だ。
自分以上の苦しみを他人に浴びせても、自分の苦しみはなくならない。傷が癒える訳じゃない。それが分かっているから、せめて他の誰かには苦しみと無縁のところにいてほしいと願っている。それが自分の大切な人なら、尚更。

「だからといって人を殺める事を正当化していい理由にはならない…平穏を壊される苦しみや絶望は、あなたもよく分かってるはずでしょう?」
「この状況で説教とは、大層な余裕だな」
「余裕じゃなくて信頼よ、例え私に関する記憶が無くても必ず鬼殺隊の誰かがあなたを討ちに来る」
「…これを見ても、本当にそう思えるか」


その言葉と共に映し出されたのは、先程の殺伐とした雰囲気とは程遠い光景だった。
蝶の舞う見慣れた屋敷に暖かく差し込む陽の光、柔らかい風に揺られる花々。そして見知った仲間達の、憑き物が落ちたような穏やかな笑み。誰もが望んだ平穏がそこに溢れていた。

深い感慨と少しの疎外感を抱えた私の眼に飛び込んだのは、庭に面した縁側に寄り添う二つの背中。
揺れる艶やかな長い髪とその隣で煌めく金糸を見た瞬間、心臓がどくんと大きく跳ねた。

「禰󠄀豆子ちゃん……善逸、」

見慣れ過ぎたその顔に安心するどころか、ばくばくと迫るような鼓動に内側から押し潰されそうになる。
幾重にも厚く濃く焼き付いた記憶の中の彼と、目の前に荒く映し出された微笑む彼。その姿が寸分狂わずぴったりと重なった。
この、琥珀色を優しく楽しそうに細める表情は。穏やかな慈しみと少しの熱を帯びた眼差しは。
…そこまで視認して漸く気が付いた。その甘く色付いた気配は、今まで私だけに向けられていたものだったのだと。

この期に及んで、まだこんな情けない思考を持ち合わせていたなんて。自分で自分を斬り伏せてしまいたくなる。禰󠄀豆子ちゃんが羨ましいとか嫉ましいだとか、そういう浅はかな感情ならまだ可愛いものだ。
自分の居場所が無くなってしまった、その喪失感が修復出来ないほどの傷を心に刻み込んでいくのが分かる。
家族を失ったあの日に嫌という程思い知ったのに。安らげる居場所なんてもう期待しないと、そう決めたのに。

捩れるような苦しさの傍ら、どこか諦めの気持ちも湧き始めていた。
存在しないのだ、体も心も記憶も。初めから無いものを惜しむ事などないし、失う悲しみも寂しさも生まれない。
私がこのまま消える事で、そういう一切のしがらみを彼から遠ざけられる。彼が幸せに生き永らえるのなら、これでいいと思えた。

『誰も彼もお前の事を忘れ、見捨て、素知らぬ顔で生きてゆく』
『お前がこの世に存在する意味など何一つありはしないのだ』
『さあ絶望しろ、厭世の念にとらわれ、失意の内に自分の無力さを嘆くが良い』

鼓膜を通して聞いていたはずの鬼の声が、矢継ぎ早に脳内へ直接刷り込まれる。握り締めていた鞘の感触もいつしか感じなくなっていた。
視界に映る黄金色が、徐々に彩度を失くしていく。五感が衰えていくのが分かる。

『精々出来る事といったら、そのご自慢の毒で自ら尊厳ある死を選ぶくらいだろう』

今の私に、出来る事。
大変な局面でいつもそれを必死に考えてきた。例え志半ばで力尽きてしまったとしても、私が足掻いてでこぼこになった道はきっと他の誰かが綺麗に均してくれる、と。
そんな利他的だったはずの矜持が、いつしか自分の弱さを誤魔化すための建前へと挿げ替わってしまっていた。蓋を開けてみれば、やれるだけの事はやったと最期まで胸を張って生きたかった、などという至って自分勝手な理由に落ち着くだけの話で。
結局私は、ずっと彼の優しさに甘んじていたのだ。彼から向けられる想いを担保に、踏み出せない言い訳を作り出して。未練を残したくない、なんて意地を張って。
馬鹿みたいだ。それらしく言葉にしたつもりで、なんて子どもじみた我が儘なんだろう。

霞んだ視界を上に向ければ、色彩の残らない盈月が間もなく満ちそうだった。
これだけ見栄を張っておきながら、燻ったままの感情が行き場を失ってどうしようもなく胸を締め付けている。
未練を残したくないからこそ、ってこういう事だったんだ。本当に本当に、今更遅すぎるよね。もっと自分の気持ちに素直に生きれば良かったのに。
謝るなって怒ったのは私のくせに、こんな終わり方でごめん。
融通の効かない面倒な奴で、ごめんなさい。

あなたが優しい人だって事、ずっと前からよく知ってる。大抵の事は何でも許してくれるのも、知ってる。
だからせめて最期まで、我が儘でいさせて。



「…善逸、――――」



五感よりも先に、感情が消えればよかったのになぁなんて。
頬を伝う感覚はとうに無いけれど、板張りの床に染みがいくつも増えていくのが見えた。
両親を荼毘に付したあの日以来のぼやけた視界と、胸に風穴が開いたかのような寂寥感。

私が涙を流すのはいつも、ひとりぼっちになった時だ。

back
top