塞いだ胸を射つ光

「腹減った!何かつまんでくる」
「アオイさんを困らせたら駄目だよ、伊之助」

そんな会話が聞こえて薄らと瞼が上がる。
人の病室でいつの間にか寝こけていたのに気付いたのは、ベッドの上の炭治郎の姿と、今まさに俺が突っ伏していた白い布団に涎のお池ができているのを見たからだ。
秒針を刻む音の方へ寝ぼけ眼を向けると短針は間もなく3を指そうかというところだった。伊之助の腹時計もたまには当てになるんだな。
今日こそは気取られないぜ、とか何とか言いながら意気揚々と台所へ向かう背中を呆れ気味に見送りつつ、自分はバレないように口元を袖で拭った。

「起きたか善逸」
「ん、はよ…」
「そろそろ起こそうかと思ってたんだ、あんまり昼寝が長いと夜寝られなくなるから」
「そりゃどうも、でも俺昔から寝付きだけは良いんだよね」

蝶屋敷で過ごす生活もふた月が経ち、それこそ何度もお世話になっているから療養中の過ごし方ですら体に染みついてしまっている。けれど今までと大きく違うのは、もう任務に駆り出される事がないという事だ。
体に鞭打って鍛えたりもしなくていいし、剣技の精度を高めるために刀を振る必要もない。元々鍛錬が億劫だった俺にとっては非常に喜ばしい事だが、いざそれらを抜き去ってしまうと何をしていいのか分からなくなる。いや何もしなくていいんだろうけどさ。
だからこそ、この寝付きの良さが遺憾なく発揮されているという訳だ。

チュン、と一声鳴いたのは、これまで苦楽を共にした小さな相棒。その足元に落ちた文らしき紙切れを認識したと同時に、思わず眉を寄せて押し黙る。
じいちゃんの訃報を知った時のあの全身の血の気が引いていく感覚は、未だに鮮明に思い出せてしまう。そうそう何度もある事じゃないと分かってはいるけれど、こうして疑心暗鬼になるのも暫くは目を瞑ってほしい。
一向に受け取ろうとしない俺に業を煮やした様子のチュン太郎が、文を咥え直して俺の肩へと飛び乗った。

「…誰から?」
「チュン!」
「いいから開けろって?怖いよ、心当たり無いし」

そもそもの話、じいちゃんも獪岳も亡き今、俺が文の遣り取りをする相手など誰もいないのだ。その上、獪岳に至ってはただの一度も返事を寄越してくれた事はなかったし。実質俺の文通相手はじいちゃん一人だったって訳で、ほんと哀しいったらない。

「善逸、チュン太郎も誰からの手紙か知らないみたいだ」

勝手に惨めな気持ちになっていたところへ、天然人誑しが口を挟む。これまた見事に俺とは真逆の、社交性の塊みたいな人間だ。
師匠や先輩隊士とその家族…ぐらいならまぁ良いとして、遊郭の女の子達と未だに繋がっているのはちょっと、いや大分解せない。
何にせよ、雀の言葉まで分かるなんて社交性の範疇を超えてる気がするけども。

「え、知らないって…誰かに頼まれたんじゃないの?俺のとこに届けてって」
「チュン、チュン!」
「たまたま落ちているのを見つけて、宛名が善逸だったから運んで来た…って言ってるぞ」
「なにそれ、余計得体が知れないんだけど!?」

問答無用と言わんばかりに押し付けてくる雀から渋々受け取った手紙には、なるほど確かに“我妻善逸様”と記されている。
折り畳まれたそれを恐る恐る開くと、半紙程の大きさの割に控えめすぎる文字。余白が大半を占めるその便箋に綴られていたのは、たった一言。

“逢いたい”

ひょい、と横から覗き込んだ炭治郎も不思議そうにぱちぱちと目を瞬かせていた。
表裏を返してみたり光に透かしてみたりもしたけれど、チュン太郎の言う通り差出人の名前はどこにも無い。
ただ分かっているのは、顔も名前も知らない誰かが俺に会いたがっているという事。筆跡と文字の美しさからして、きっと女の人だ。ぼたりと落ちた墨の跡は余程焦って書いたのか緊張していたのか。
以上の考察から俺の脳は最高の結論を最短で弾き出す。

「こッこここ恋文でしょコレ!!!」
「善逸、相手に心当たりあるのか?」
「……ハッ…!?もしかして禰󠄀豆子ちゃんが…!?」
「いやそれは違うと思うぞ」

間髪入れず否定する炭治郎をじとっと睨み返す。こいつの場合、全く悪意がないのだから厄介だ。
相手を諭す方法が正論か詭弁かの二択なら間違いなく前者で、加えて頑固頭ときたもんだ。空気を読めとか都合良く合わせろとか、そういうのをこいつに求めるのは無駄骨だと知っている。
そんな訳で噛み付く気力はやっぱり湧かず、代わりに大きくため息を吐き出した。

「そんな即答するなよ、切ないわ」
「禰󠄀豆子はもっと丸っこい文字を書くし、そもそもここのところ毎日顔を合わせてるだろう?改まって会いたいだなんて…」
「ハイハイ分かっとるわちょっとぐらい夢見させてくれたっていいだろうがよ」

この堅物デコ真面目が、と吐き捨てたものの、その曇りなき眼はまじまじと俺の手元を見つめたままだ。

「善逸、ちょっとそれ貸してくれないか」
「んあ?いいけど」

手紙を受け取るや否や、炭治郎は徐に顔を近づけた。何してんだと突っ込む前にすんすんと鼻を鳴らす音が聞こえて、出掛かった言葉を飲み込んだ。

「…しのぶさんの匂いがする」
「え?」
「正確には藤の花かなぁ、ほんの微かにだけど」

炭治郎を真似て嗅いでみても、何となく墨の匂いがするくらいだ。花の香りなんてものは全く感じられない。改めて炭治郎の嗅覚が常人離れしている事が窺える。

「何でだろう、藤が咲く時季でもないのに」
「お香とか?よく藤の家紋の家で焚かれてたじゃん」
「うぅん、あれとはまた違うんだけど…でも、どこかで嗅いだ事があるような匂いだ」
「何してんだお前ら」

ああでもないこうでもないと二人して首を傾げている所へ、口の周りに食べかすを付けた伊之助が戻ってきた。
またアオイちゃんの折檻を受ける事になるだろうに。とばっちり受けたくないし、俺は絶対に知らんふりを決め込んでやるからな。

「善逸宛てに手紙が届いたんだけど、誰が書いたのか分からないんだ」
「んなもん枕の下にでも入れとけ」
「枕?何でだよ」
「相手が夢に出てくるらしいぜ、文枕ふみまくらってヤツだ」

何でそんな事知ってるんだと口にする前に、そういえばこいつに言葉を教えた爺さんがいたって話を思い出した。読み聞かせられたものの中にそういう和歌でもあったんだろう。
風情の欠片もない猪頭からこんな風流な話を聞かされるとは…と調子の狂う俺の一方で、炭治郎は純粋に感心しているようだった。

「そんな事があるのか…初めて知ったよ、伊之助は物知りだなぁ」
「この位当然だ、親分だからな!」
「夢って…ただの験担ぎみたいなもんでしょうよ」
「でも試してみる価値はあるんじゃないか?善逸だって気になるんだろう?」

炭治郎はそう言うと、手紙を元通りに折り畳んで俺の前に差し出した。二人にきっちりお膳立てされたようで妙な決まりの悪さを感じつつ、大人しくそれを受け取る。

「そりゃあ、まあ…」
「ま、大抵は夢でも逢えず虚しい朝を迎えるオチだけどな」
「いややっぱりかよ!」

一応文句は付けておいたけど、まぁ恋の歌にありがちな展開だ。寧ろそこまで引っくるめた様式美ですらあるよな。
眉唾物である事に変わりはないが、確かに気にはなる。少しくらい夢見たってバチは当たらんだろうと思う事にして、そっとズボンのポケットに仕舞い込んだ。


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繰り返しになるけれど、俺は普段から寝付きの良い方だ。つい数ヶ月前までは寝ながら鬼と渡り合ってたくらいだし。まぁその間自分が何してたか全く覚えてないのは我ながらぞっとするけどさ。
そんな俺が珍しく夜半に目を覚ました。夢を見たのだ、それも女の子が泣いてる夢。ぼろぼろと雫の零れ落ちる瞳は何故か、もやが掛かったように隠れてよく見えなくて。
そんな瞳がこちらを見据え、震える唇で何か言葉を口にする。たった一言…二言だったろうか。

原因は一つしか考えられない。例の手紙だ。伊之助の話を間に受けた…訳ではないけれど、それでもほんの少しの期待を胸に枕の下に仕込んだ。まさか本当に出てくるとは。
にしても、夢見が悪いのなんて本当にいつ振りだろう。少なくとも刀を振るうようになってからは記憶にない。逆につい数ヶ月前までの話であれば真っ先に血鬼術の類を疑っただろうけど、その可能性は万に一つもあり得ない。あり得ないんだ、絶対に。
そう言い切ってしまうことに対して、なに平和呆けしてるんだ!なんて責める人間が果たしてどこにいようか。さすがの俺でも、自虐的にも程度ってもんがあるだろ、と自分で自分をいなせるくらいには今ある安息を享受していた。その権利が自分達にはある。
いや、権利というより義務で、責任か。たった一つの元凶を葬るのに数えきれないほどの命が犠牲になったんだ。いま地を踏みしめている足は、その尊さの上に立っていると言っても過言ではないと思う。
そんな風に考え出すといよいよ二度寝する気も失せてしまった。風にでも当たろうと思い立ち、そっと布団を抜け出した。

静まり返る廊下の音を立てないよう神経を注ぐのは、療養中の身としてはなかなか骨が折れたし若干後悔した。数歩進んだものの、やっぱりやめようかと一度立ち止まる。
しん、と広がる静寂と仄暗い空間。前までの俺なら怖くて速攻部屋に逃げ戻ってただろうな。それが今となってはどうだ、まぁ回復の訓練みたいなもんだと思えば…と難なくまた足を踏み出している。
単に逞しくなったというべきか、心臓に毛が生えたというべきか。残念ながら、男らしくなったと褒めてくれるような女の子は今のところ誰一人として現れていない。
でも実際にそんな言葉を掛けられて素直に喜べるかというと、ちょっと自信がない。

長い戦いの幕が降りたあの日からずっと、心に煙幕がかかったようですっきりしなくて。あの血生臭い世界に一度足を踏み入れた人間としては、この平穏な日常の方こそが現実離れしているような気さえしていた。
理不尽に何かを失う心配が一つ消え去ったんだから御の字じゃないか。そう手放しで喜べばいいのに、この現実を未だに素直に受け入れられないでいる。
物事の変化に対しては耐性がある方だと思ってたのに。そうでなきゃ、親に捨てられ転々とした奉公先で好いた子達に幾度も騙され、ひょんな事から鬼狩りへと育てられ、挙句の果てに雷に打たれて髪の色が変わる…なんていう波乱万丈な人生の内、一体俺は何回死んだ事になるんだって話で。冗談抜きに、こうして自分が生き永らえている事が嘘みたいだ。

自分の信じたいものを信じれば大抵損をしたり痛い目を見ると分かっていたけど、それでも人を疑うのは嫌だった。それと同じくらい自分を疑うのも怖かった。
何に対しても及び腰になりがちなのは、自分の身勝手さに他人が愛想を尽かすのを無意識に回避しようとしていたからだと、今になって何となく分かる。
こんな風に自身を省みる事も以前の俺なら目を背けていただろうに。環境や境遇のみならず自分の中身までそっくり違うものになってしまったようで、きっとそれが心に影を落としている原因なんじゃないかと思う。

そうして結論付けたところで、他よりも幾分か温度の低い板張りへ辿り着く。庭に面した障子をそっと引くと、すうっと涼やかな風が頬を撫でた。
もうすぐ春がやって来る。寒さを耐え忍んだ花々が開き、陽の光がさらに暖かく感じられる季節。新しい四季の始まりに思いを馳せれば、少しだけ気持ちが楽になった気がした。
時間が解決してくれるとはよく言うけれど、本当にその通りなのかもしれないな。ゆっくりと縁側へ腰掛ければ、少しひんやりした感触が下から伝わった。
くぁ、と小さく漏れた欠伸で薄く膜が張った視界が、誘われるように天を仰ぐ。
大きくてまん丸の見事な満月だ。思えば蜘蛛になりかけたあの夜も、吉原一の花魁になれなかったあの夜も、ボロボロの俺を照らしていた。天体の事なんかてんで詳しくないけれど、何となく縁を感じてしまう。

ふと、そこはかとない既視感が脳裏を掠めた。いや既視感も何も見慣れた景色なんだから当たり前なんだけど、そういう事じゃない。
煌めく池の水面。虫の鳴く声。時折通り抜ける風。
前にも、こんな事があったような。
その時も月は目一杯に満ちていて、俺は今みたいに鼓動を早めて何かを言葉にしようとしていて。
そうそう、騒ぎ立てる心臓の音が滅茶苦茶うるさくてさ。あの子の音が聞こえづらいほどだったっけ。


……あの子、って?

そうだ、夢に出てきたあの子。泣いていたあの女の子。俺、知ってるのか。
夢の中のあの子は何て言った?いつかの俺は何を伝えようとした?
何度思い返しても、朧げなその記憶は輪郭すら描いてくれない。療養室の隊士たちの寝息、草むらの陰で鳴く虫の声、藤の葉が風に揺られる音。耳を澄ませばいつもと変わらない夜のはずなのに。

何だ、この違和感。何がおかしいんだ。
何かが、足りない。

うまく言葉にできないけど、きっと俺は大切な事を忘れてる。思い出そうとすると鼓膜の内側でバリバリと雑音のような耳鳴りがして邪魔をする。
思わず塞いでしまえば余計に音が増幅して、余りの不快感に慌てて耳から手を離した。

そんな明らかに変調をきたしている耳よりもさらに違和感が大きいのは、まさに先程変化を嘆いたばかりの自分の思考回路だった。
女の子が泣くのは辛くて可哀想で見過ごせない。たとえお節介であっても干渉したくなってしまうのは、変な話俺が俺である存在意義くらいに思っていた。見返りを全く期待していないと言えば嘘になるけれど、女の子は笑ってる時が一番輝いていると思うから。
それなのに、何故かあの子の泣いてる姿を見て憐れむどころか、心底安堵している自分がいた。

一体、きみは誰なんだ。
思い出せ、思い出せ。こうしている間にも薄れていく、夢の記憶がある内に。
瞼で目の前の現実を遮断して、夢の中の彼女の一挙一動を何度も反芻する。頭が拒否してるなら体で、鼓膜で思い出せ。泣いてるあの子からどんな音がしてたかを。
必死に手繰り寄せた感覚の端っこを何とか掴んで引き戻す。割れるように痛み出した頭と、鼓膜をつんざくような不協和音。
こんなの、今までの戦いのしんどさに比べたら屁でもない。生憎俺は諦めの悪い性格なんだよ、女の子が絡むと特にね。

思いっきり歯を食いしばって耐えれば、その内に少しずつ嫌な感覚が遠のいていった。そして、ゆらゆらと水中に揺蕩っているような籠った音が微かに聞こえてくる。
脈打つ心臓、巡る血流、息遣い、瞬きの音さえ取り零したくなくて、未だ取り切れない雑音の狭間から一つ一つ丁寧に掬い上げた。

寂しい、辛い、哀しい、苦しい

そんないくつもの悲痛な音の中に、切なく追い縋るようなひとつの響き。


――助けて


研ぎ澄ました感覚がその音を拾い上げた瞬間、どくん、と心臓が一層強く鼓動した。
じわじわと打ち震えるように全身へ広がっていく感情に今更戸惑いなんて起こるはずもなくて。
憐れみや庇護欲なんかじゃない。心が満たされるこの感覚は、紛れもなく喜びだ。

そうだ、そうだよ。俺は、こうして頼ってほしかったんだ。
こんな風に泣いてほしかった。
決して涙を見せない、強くて弱い、きみに。

霞がかった視界が少しずつ晴れていき、隠れていた彼女の目元をはっきりと捉える。
涙の膜に覆われた二つのそれは、まるで水晶に瑠璃を閉じ込めたみたいな、そんな美しさで。
その藍色に射抜かれた瞬間、耳の雑音がぴたりと止んだ。
解放された俺の鼓膜を震わせたのは、とめどなく溢れる愛惜の音と、透き通るような彼女の声。



『…善逸、好きだよ』



夢想していた意識が一気に現実へと引き戻されて、考えるより先に体が動いた。
なりふり構わず声の聞こえた方向へと駆け出す。足の痛みとか痺れとか、そんなもんどうだっていい。
この耳が確かに聴き取った彼女の声は夢でも妄想でも何でもない。今でもたった一人、どこかで助けを乞うている。
この聴覚は、今この時の為に授かったものなのかもしれない。漠然とした緊迫感と焦燥感で喉がからからに乾いて、苦しいくらいに鼓動が激しさを増した。

確信を持って足を運んだのは、診察室よりも更に奥の部屋。療養している一隊士なんかではまず立ち入らない場所だ。
ばん、と勢い良く戸を引くと、現れたのはがらんとした十畳間だった。不自然なくらいに殺風景でまるで生活感のない空間に、何の手がかりもないのかと冷や汗が伝う。
少し開いた障子の隙間から差し込む月明かりに、質素な机の上できらりと何かが反射した。藁にも縋る思いで近づけば、それは瑠璃色の装飾が施された小さな手鏡だった。先程ようやく拝むことのできた彼女の明眸を彷彿とさせて、合わさった留め具を少し乱暴に外す。
その鏡面に映し出されたのは情けない表情の自分…ではなく。
夢で見た通りの、泣き腫らした彼女の顔だった。


俺は、この子を知ってる。知ってるなんて程度では済まないくらい。
俺が泣く時、笑う時、どんな時もきみが傍にいた。
俺という存在の、下手したら半分くらいは占めているかもしれない。だとしたらあの自分が自分でなかったような感覚もすっきりと腑に落ちた。

思い出した、と言うにはきっと語弊がある。
だって、ずっとずっと、頭に、心に、俺の中にきみはいたんだから。
押し寄せる感情の波につられて開いた口が、もうその形を描いてる。
俺にとって特別で、いっとう大切で愛おしい、きみの名前を。



「名前、」



呼び掛けた瞬間に視界がぐわりと歪んで、同時にあの嫌な音が耳を掠める。空気を切り裂くような鋭い閃光に反射的に目を閉じた。
ガシャン、と何かが壊れるような音と、耳馴染みのある呼吸音。弾かれるように顔を上げれば、そこには床にへたり込む彼女…文字通り夢にまで見た、名前ちゃんの姿があった。


「っ…ぜん、いつ、」

まるで長い時間水中に潜っていたかのように、彼女は肩を大きく上下させて肺に酸素を取り込んでいた。
呼吸の隙間を縫って俺の名前を呼んだ彼女がゆっくりと上体を起こすと、その碧眼と目線が交わる。
ああ、本物だ。そう思った途端に張りつめていた糸が切れて、もつれそうな足でなだれ込むように彼女の元へ駆け寄った。

「ぁ、足…怪我が、」
「またそうやって、人の心配ばっかり」

床に散らばった鏡の破片を躊躇なく踏みつけて、その小さな頭を自分の胸に引き寄せた。
自分はぼろぼろの癖してさ。きっとまた、他人の業を全部背負ってこんな事になってしまったんだろう。
誰にも思い出される事のないままひっそりと去っていく、そんな決心をたった一人で為した彼女の心を想うと居た堪れなくなって、抱き寄せる腕に力が篭る。

応えるように背中に回された手は震えていて、それでも縋るようにしっかりと俺の体を捕まえていた。
名前ちゃんが与えてくれた体温でやっと平熱に戻った感じがする。このふた月の間、俺はやっぱり低体温症で仮死状態にでもなっていたのかもしれない。
噛み締めるように大きく息を吐き出して腕を緩めると、彼女も少し体を離しておずおずとこちらを見上げる。潤んだ蒼い瞳は神秘的な美しさと扇情的な魅力のどちらも兼ね備えていて、思わず息を飲んで見とれてしまった。

「…善逸…私のこと、ちゃんと…」

言葉の途中で口を噤んだ彼女が躊躇いがちにその瞳を揺らす。抱えた不安を拭い切れない、そんな音を立てながら。
ちゃんと、聞いてるよ。
もう絶対に聞き逃さない。

「言ったでしょ、忘れるわけないって」
「っ…うん、」
「…俺の事を呼んでくれて、ありがとう」

彼女の両の目に厚く張られた膜がまた湿度を増していく。引き絞った唇が震えたのを合図に溜め込んだ涙が決壊して、赤みがかった頬をぼろぼろと滑り落ちていった。
泣いて嘆いていくら悔やんだって失われたものが回帰しないのは、確かにそうだと思う。けれど、心まで、想いまで、無かった事にする必要なんてどこにもないんだ。
彼女が誰の為でもない、自分の為に泣く事を厭わなくて済む世界が、もうここにはある。

俺の胸にしがみつき時折しゃくり上げながら声を上げて泣くその姿は、家族を失い傷ついた心を曝け出す一人のか弱い少女でしかなくて。
ありのまま思うままに生きてほしいと願った彼女の幸せと、大切な人を助け守り抜きたいと願った俺の幸せが同時に報われた瞬間だった。

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