はじめての気持ち

師範の元に弟子入りをしてから、ふた月が経とうとしていた。
凄まじく厳しい修行も最初は毎晩地獄のような筋肉痛に苛まれていたけれど、毎日繰り返している内に体が順応していった。
師範に言わせれば私はどうやら『なかなか筋が良い』ようで、その証拠に雷の呼吸の型も一通りは形になってきている。きっと昔から父の診察や母の調剤を見て覚える事をしてきたから、何かを習得するのに比較的慣れているのだと思う。
壱ノ型に関してはもう少し精度を上げれば、あまり人を喰らっていない程度の鬼ならば渡り合えるだろう、と師範のお墨付きもいただいた。

けれど、相変わらずあの夢は見る。
白黒でぼんやりとしていた記憶が段々色づいて来ていて、夢を見ている時間も長くなったような気がする。
見る度に情景の鮮明さが増していく様はまるで、忘れた記憶を取り戻そうとするような繰り返しの作業。師範の言ったようにこの夢の原因が鬼によるものであるなら、その鬼は何の為にこんなものを見せているというのだろうか。

両親の死は、受け入れているつもり。
その現実から逃げ出したくなる時もあった。全く寂しさを感じないと言うと嘘になる。だけど、ひとり生き残った私にはやるべき事があるから。
この無限の苦しみを断ち切るには、その鬼を一刻も早く倒す事。そして、両親を殺した鬼を必ず見つけ出す。
その為にも、こんな形で絶望している暇なんて、私にはこれっぽっちもないの。


やっとの思いで目を開けば、視界に広がったのは見慣れた不揃いな板張りだった。
はぁ、と大きく一息ついて体を起こすと、汗が顔の輪郭を伝って顎先からぽとりと布団に落ちる。浴衣が体に張り付いて気持ち悪い。
また魘されていたんだろうか。嫌なリズムで鼓動する心臓を落ち着かせたくて、呼吸を深く巡らせる。
すると、縁側に面した障子の向こうに人の気配がある事に気が付いた。
暖かな春の陽気に包まれた、蒲公英のような色。そんな穏やかな色の持ち主はこの屋敷には彼しかいない。


「我妻くん?」


気配の主に呼び掛けると、ひゃあ、というひっくり返った声の後にどたんと大きな物音が響く。
姿は見えなくても、その慌てふためいた様子が手に取るように伝わった。

「ヤッ、あの!決してやましい事など!!」
「何、夜這い?」
「違います神に誓って!!苦しそうな声が聞こえたから!…それに、」

寂しそうな音も、と小さく付け加えたきり我妻くんは黙り込んでしまった。
声を聞きつけて来るくらいしっかりと魘されていた事に若干の恥ずかしさを覚えながら、廊下に佇んだままの彼に返答する。

「…心配してくれたの?」
「気になっちゃって…でも余計なお世話だったよね、ごめん」

しゅん、と障子越しでも分かるほどに落ち込んだ声色。
初めて出会った時からそうだったけれど、我妻くんは本当に色んな一面を持った人だと思う。そしてこのふた月で、我妻くんについてわかった事がいくつかある。
まず、私より歳が一つ上だという事。幼顔だし、てっきり同じか歳下だと思い込んでいたから歳を聞いた時は心底驚いた。
何よりあのヘタレっぷりだ、誰が歳上と思えようか。…と心の中で呟いたら、いま俺のこと馬鹿にしたでしょと悲しそうに言われて益々驚く、なんて事もあった。
これまでにも、この人はまさか人の心が読めるのでは、と思うような事が何度かあって。一度直接本人に聞いてみたけれど、返ってきたのは「なんとなくだよ」という曖昧な言葉と困ったような笑顔だけだった。
誰にだって、詮索されたくないことはある。気にはなるもののそれ以上は聞かないでおいた。

そしてもう一つ。我妻くんは、弱くないという事。
修行中に師範から逃げ出して稽古が中断される事もしばしばあるのに、翌日の稽古ではしっかりと師範の動きについて行けている。
一人だけ生傷が増えていく彼の事を、獪岳兄さんが「のろまのクズ」と蔑む事なんて日常茶飯事だ。
けれど、私は知っている。その傷の理由が彼の隠れた努力にあるという事を。
皆が寝静まった後にそっと部屋を出て、屋敷の裏手で一人黙々と鍛錬している事を。
我妻くんは弱くない。心の芯が強いのだ。


「えっと、もう休むよね!ごめんね邪魔しちゃって…おやすみ、」

空気に耐えられなくなったのか、我妻くんは縁側から腰を上げた様子だった。
ぎし、と床の軋む音を聞きながら中途半端に掛かっていた布団を捲り上げて抜け出し、縁側へと歩み寄る。
すっと障子を少しだけ引くと外の空気が部屋に抜けて、纏わりついていた汗を乾かしていく。

「自主鍛錬なら、当分やめておいた方がいいよ」
「え、」

立ち去ろうとしていた我妻くんの背中に声を掛けると、目を丸くしてこちらを振り向いた。
彼の腰まで目線を下げると、そこにはしっかりと刀が携えてある。
さらに視線を落とし、左の足首。そこだけ色が淀んでいて、やっぱり、と納得する。

「左足首の付け根痛めてるでしょ、腱が炎症起こしてる」
「…っ!ちょ、ちょっと待って、」

我妻くんは驚きと焦りとで目を白黒させながら、ずいっと両手の平を私の前に突き出した。

「名前ちゃん、なんでわかるの…!?」
「…なんとなく」

以前彼に言われた言葉をそっくりそのままお返しした。
開いた口の塞がらない我妻くんとしばらくそのまま見つめ合っていると、不意に目を逸らして決まりの悪そうに頭を掻いた。
ねぇ、と声を掛けると、少し不安の色を携えて揺れる琥珀色の瞳がこちらを向いた。
縁側に腰掛けて自分の右隣を軽く叩けば、とんとん、と木の音が控えめに響く。

「ちょっとだけお喋りしない?」

そんな私の提案を聞くや否や我妻くんから不安の色が消えていくのが分かって、素直でわかりやすくて小さい子どもみたいだなぁ、とまた心の中で綻んでしまう。

「…俺もそれ言おうと思ったとこ」

そう言った我妻くんは、むくれながらも私の隣におとなしく座った。



「私ね、色が見えるの」
「色?」

うん、と答えながら我妻くんの左足に目をやる。
見た感じそこまで重症ではないけれど、師範の修行の厳しさを考えると悪化する可能性は高い。明日の朝、一応師範に進言しておいた方がいいかもしれない。

「怪我とか身体の具合とか、人の不調が色になって見えるの」
「それって、ずっと昔から?」
「確か、両親の仕事を手伝い始めてからだったと思う…色んな病気や不調を抱えた人と接してたら、いつの間にか見えるようになってた」
「へぇ…」

少し身を乗り出して感心したような表情の我妻くんに気恥ずかしさを感じつつ、苦笑して首を横に振る。

「最初は子どもがでたらめ言ってると思われて、誰も信じてくれなかったよ」
「…そっか」
「でもね、一度父が不在の時に急患が運び込まれた事があって」

我妻くんは私の話を遮らないようにしているのか、うんうん、と黙って相槌を打つ。

「心臓の血管が狭くなってるのが見えたからすぐ処置ができて、その人は無事に助かって…そんな事があってから信じてもらえるようになったの」
「…すごい人なんだね、名前ちゃんは」
「え、そんなこと」
「そんなことあるよ!だって、名前ちゃんのおかげで一人の命が救われたんでしょ?」
「…うん、」
「そんなの誰にでもできる事じゃないよ、人の為になる事をするのは簡単じゃないんだから」

我妻くんは、淀みのないはっきりとした口調でそう言い切った。
修行の時の彼からは想像もつかないほど真剣な眼差しに、また一つ彼の新しい表情を知る。

「あと、人の気配にも敏感なんだよね」
「…それで俺が夜な夜な鍛錬してたのも…」
「ばっちり知ってた」

はぁぁ、と頭を抱えて大きなため息を吐いた我妻くんは、滅茶苦茶恥ずかしいやつじゃん…と心底恥ずかしそうに呟いたかと思えば、はたとこちらを向いて眉を下げる。

「って言うかそれ、名前ちゃんの事起こしちゃってたって事だよね?」

ほんとごめん!と両手を顔の前で合わせて謝り倒す我妻くんを、しばし呆然と見つめる。
どうして。謝る必要なんて無いのに。
そんなの、私が勝手に気配を察してしまうからいけないのに。
悪いのは我妻くんじゃなくて、普通じゃない私の方。

──ほら吐き娘、でたらめ女、どこにでも現れる幽霊みたいなやつ。
自分が普通だと思っていた幼い頃、そんな風に揶揄された記憶は消える事なく頭の片隅で燻っている。
それでも、両親と一緒にいる時だけは普通の子どもになれた。具合の悪い時にはあらゆる手を尽くして看病してくれた。気配を探る前にこっちだよと手を引いてくれた。
父も母もいなくなってしまった今、私はきっともう普通には生きられない。


「俺、耳がいいんだ」

少しの沈黙の後、我妻くんが口にしたのはそんな言葉だった。
話のその先を促すように彼の顔を見ると、前を見据えたままだった琥珀色がこちらを向いた。
以前はぐらかされた時とは全く違う、どこかすっきりとした表情だった。

「人って色んな音を発してるんだよ、その人特有の音もあるし、その時の感情とか思ってる事とかで変わったりもする」

へぇ、と今度は私が声を上げる。
自分の発している音なんて、考えた事もなかった。
聴診器で患者さんの心音を聞いている父の姿が一瞬脳裏に蘇って、少し懐かしい気持ちになった。

「その音を聴けば、嬉しいとか悲しいとか、どんな風に感じてるか大体分かるんだ」

流石に心は読めないけどね、とあっけらかんと笑う我妻くんが空を見上げ、それにつられるように私も顔を上げた。
少し雲に隠れた月が、夜空にぼんやりと浮かんでいる。

「嘘や陰口なんかも分かっちゃうからさ、損する事の方が多かったりするし」

自嘲するような苦笑いを浮かべた我妻くんは、変わらず夜空を見つめたまま。
ほんの少し、彼に纏った色が揺らめいた。

「何度も思ったよ、普通の耳に生まれたかった、って」

ぽつり、と零した我妻くんの言葉は、水面に落とした一滴の雫のように、あっという間に夜の静寂に吸い込まれていった。
それでも私の耳に、心に、強く大きく鳴り響いて波紋となって広がっていく。
普通が良かった、なんて考えちゃいけないと思っていた。ましてや口にでもしてしまったら、自分の居場所が無くなる気がして。
そうしてずっと言えずに抱えていた想いを、自分ではない誰かの口から聞く事になるなんて。
それがこんなにも、心強く思えるなんて。

「…でもさ、こんな耳でも良かったなって思える時があるんだ」

我妻くんの穏やかな声が、胸に広がった波紋を掬い上げていく。

「誰かが寂しがってたら、話し相手になるくらいはできるから」

いつの間にかこちらを向いていた琥珀色と視線がかち合って、ほんの一瞬胸の奥がぎゅっと苦しくなる。
この音も、我妻くんには聞こえてるのかな。そう思うとなぜか気持ちが少し焦った。

「とは言っても、あんまり大っぴらにしない方がいいのかなって…ほら、自分の気持ちを勝手に知られるのって、あんまり気持ちの良いもんじゃないでしょ?」

そう言って、我妻くんはまた眉を下げて笑う。
また一つ分かった事。我妻くんは、優しいんだ。
自分を守るためじゃなく、他人を傷つけないために隠し事をする、思いやりに満ちた人。
今までどれだけ周りに気を遣いながら生きてきたんだろう。
師範が彼を連れて来た理由が分かった気がした。

「…我妻くん、」
「あ、あのさ!」

お礼の気持ちを伝えようと名前を呼んだ途端、突然我妻くんの言葉に遮られた。
もじもじと視線を彷徨わせたかと思えば、辿々しく言葉を紡ぐ。

「前から思ってたんだけど、その、名前の呼び方なんだけどさ…」

言いたげに、でも言い辛そうに開いたり閉じたりする口を見て、しまった、と反射的に思った。距離感の詰め方を間違えたかもしれない。
いくら歳が近いとは言えやっぱり歳上なのだから、我妻さんと呼ぶ方がきっと正解なんだ。今までさすがに馴れ馴れしかったかな。

私が一人反省しているのが音で分かったのか、彼はわたわたと両手を振り乱した。

「違う違う、そうじゃなくて!!…って、ごめんまた俺勝手に!」
「…ふふ、あははっ」

ああもう、と一人でじたばたする我妻くんがおかしくて、思わずぷっと吹き出してしまうとしばらく笑いが止まらなくなった。
そういえばこんなに笑ったの久しぶりかも。
すると、顔を赤くした我妻くんが大人しくなった。


「話してくれてありがとね、…善逸」


彼の名前を初めて呼んだ。
どんな顔をしていたらいいのか分からなくて、ちゃんと目を見て言えなかった。きっと今の私は、困ったようなはにかんだような変な顔になっているに違いない。
チラリと彼を盗み見ると、両手で顔を覆ってしゃがみ込み、聞き取れないほど小さな声で何か呟いていた。
どうしたの、と尋ねる前に彼がすっくと立ち上がる。

「名前ちゃん祝言を挙げよう今すぐに」
「…もう寝るから帰ってくれる?」

心配した私が愚かでした、と大きくため息を吐く。だってぇえ!と言い訳を飛ばす姿はすっかりいつも通りの彼だ。
そんな彼を縁側に残して自室の障子に手を掛けると、背中に言葉が掛けられる。

「名前ちゃん、絶対笑ってた方が可愛いんだもん」


俺、そっちのが好きだなぁ。


にへら、と緩んだ口からそんな言葉が漏れて、また心臓の辺りがきゅっと痛んだ。

意地っ張りで可愛くない私も、今だけは。
素直な彼に、素直な気持ちを伝えたくなった。
部屋へ一歩踏み込んで、くるりと振り返る。
口角の上がったままの彼と目が合うと、私の顔も自然と微笑んだ。

「友達から、よろしくお願いします」

おやすみ、と告げて空間を隔てると障子の向こうから聞こえたのは、「反則でしょ…」という蚊の鳴くような声だった。

back
top