表と裏のあいだ

「イヤァアアもう無理無理!!これ以上は死ぬーーッ!!!」
「待たんか善逸ーーーっ!!!」

三ヵ月経っても半年経っても、相も変わらず師範と善逸の攻防は続いていた。
こうして善逸が逃げ果せてしまうと稽古は中断せざるを得ない。けれど察してくれているのかただの偶然なのか、善逸が逃げ出すのは決まって私も音を上げそうになる時だった。
休息を取るきっかけができて密かに安堵しつつ、力の入り切らなくなってきた手を柄から解放する。
まぁ、隣のこの人は心底不満そうだけれど。

「ふざけんなあのカス!」
「兄さん、休憩にしましょうか」
「その呼び方やめろって言ってんだろうが」
「…かなり心拍上がってますし、一旦落ち着かせた方が鍛錬に集中できますよ」
「勝手に見るんじゃねぇ!」
「すみません、昔からの癖でつい」

てへ、とわざとらしく笑うと、盛大な舌打ちで返された。
獪岳さんにこうして悪態を吐かれるのは慣れている。師範の事を先生と呼んで敬っているのも見て取れるし、なんだかんだで常識は弁えている人だ。
ただ一つ気になる事と言えば、善逸に対しての当たりが異常に強い事だ。
確かに最終選別を近く控える獪岳さんにとって、修行中に泣き喚いたり逃げ出して稽古を中断させられるのは迷惑な事だろうと思う。
だからと言って、人格や存在を否定するような言葉を投げ掛けていい理由にはならない。

私たちは雷の呼吸の全ての型を師範に教わり、来る日も来る日も鍛錬を繰り返している。
何度試しても善逸は壱ノ型しか習得できず、獪岳さんはなぜか壱ノ型だけが形にならないけれど、師範はそれでいいと言った。
その真意はおそらく自らの持ち味を高め、互いが互いを補い合って強くなれという事だと思う。けれど鍛錬を積むほどに、技の精度が上がるほどに、獪岳さんの色は深く濁っていく。
私に出来ることは何だろうか、と幾度考えてみても、どんなに思慮深い言動も彼にとっては耳障りで余計なお世話と成り果ててしまっていた。


「おい」
「はい?…っわ!」

相変わらず威圧的な態度で呼び掛けられ、振り向いたと同時に目の前に何かが降ってくる。
反射的に受け止めたそれは、いつも稽古で握るそれよりも一回り大きく、ずしりと重みがあった。

「…真剣?」
「それ使って、俺と手合わせしろ」

一瞬自分の耳を疑ったけど、どうやら獪岳さんは本気らしい。それに目の前に立つこの人が冗談を言う人間で無い事くらい、嫌という程分かっている。

「さすがに師範が止めますよ」
「要するにバレなきゃいいんだろ」
「でも、最終選別前に怪我したら大変ですし」
「…へぇ、そうまで言うなら怪我させてみろよ」

真剣を使った手合わせを師範の立会いもなしで行うなんて、どう考えても危険すぎるし稽古の域を超えている。
何とか避けられないかと交渉しても、益々火に油を注いでしまう。

「…わかりました」
「やけに素直じゃねぇか」
「その代わり、約束して欲しい事があります」

相手を尊重することで生まれる清らかな精神は人間性を育て、技量そのものを底上げしてくれる。故に対人稽古というものはいつだって対等な立場で行われるものだ。
虐げられる理由もなくなる、折角の機会だから。

「もし私が勝ったら、今後一切、善逸を貶さない事」
「は?何勝手な事言ってんだお前」
「獪岳さんの方が私よりも長く鍛錬してきてるんですから、これくらいの条件は飲んでもらわないと」

でなければ今すぐ師範に報告しますけど、と付け加えると、またもや大きな舌打ちが飛んでくる。

「…さっさと位置に着け」
「約束ですよ」

そう念を押してから、踵を返し獪岳さんから数歩離れる。
位置取ってぐるりと体の向きを戻せば、すでに獪岳さんは刀に手を添えて構えを取っていた。
さっきまで雲一つなかった青空にいつの間にか暗雲が立ち込め、みるみるうちに頭上へ拡がっていく。
どことなく嫌な感じの空気だ。暖かな陽射しが遮断され、風が砂埃を巻き上げる。

「かかって来いよ」
「お先にどうぞ」
「余裕こいてられるのも今のうちだぞ、」

…雷の呼吸、

口から漏れる棚引くような吐息。呼吸音を耳が捉えた瞬間、獪岳さんは片足を踏み込んで距離を詰めてきた。

「弐ノ型、稲魂!」

多方向からの畳み掛けるような連撃を刀身で何とか受け止める。
やはり力の差で言えば圧倒的にあちらが上だ。一撃一撃が重く、体がどんどん押されて後退していく。

「ッハ、こんなもんじゃねぇぞ!陸ノ型、電轟雷轟!!」

さらに激しさを増す連撃に体勢が崩される。
押し負ける前に手を打たないと、勝機は無い。

「伍ノ型、熱界雷…!」

斬り上げて何とか技の威力を上へと逃がす。
体勢を整えようと一度距離を取れば、獪岳さんがニヤリと笑みを浮かべた。

「肆ノ型、遠雷!」
「っ、参ノ型、聚蚊成雷!」

距離を取ったのが完全に裏目に出た。呼吸を整える間もなく遠距離から攻撃が飛んで来て、咄嗟に回転で受け流す。


「逃げてばっかりだな、どっかのカスみてぇに」

確かに、このままじゃいつまで経っても技を防ぐので精一杯だ。しかも体格差がある分攻撃範囲もあちらの方が広く、距離を取れば取るほどこちらが不利になってしまう。

ならば、相手より早く間合いの内側に入るのみ。
獪岳さんが繰り出す、技と技の合間。その僅かな隙に入り込むしかない。

すっかり雲に覆われてしまった空からは、ゴロゴロと稲光の小走りする音。
獪岳さんがまた同じ構えを取ったのを見て、深く長く呼吸を全身に巡らせる。


「雷の呼吸 壱ノ型、」

血を沸かし、骨を強固に、筋肉を躍動させ、私という私すべてを熱く滾らせて。


「霹靂一閃」


踏み込みと同時に抜刀して、即座に手首を返す。
獪岳さんの懐へ滑り込もうかという、まさにその時だった。


ドォオオン!!!

と、今まで聞いたことの無いほどの凄まじい轟音が鳴り響いた。

「っきゃああ!!」
「な、なんだ!?」

驚いた拍子に頭から地面に突っ込みそうになり、咄嗟に受け身を取る。羽織が土と擦れるのに混じって、ズゥゥン…という地鳴りのような残音が耳に入る。

「い、今の、落雷?」
「それもクソ近ぇぞ」
「…この辺りで雷の落ちそうな場所って、」

桃園の傍らにそびえ立つ大樹。
樹齢何百年になるだろうかという存在感だ。避雷針代わりになったとしてもおかしくない。
その高さゆえ、善逸が師範から逃れられる唯一の場所でもある。

……ちょっと待って、

「兄さん、さっき師範たちどっちに…!?」
「…知るかよ」

そう言い放った獪岳さんは我関せずといった様に、屋敷の中へと戻っていく。
勝負なんてもうどうでも良い。二人の安否を確認する方が優先だ。もつれそうになる足を無理矢理動かして、屋敷の裏手へと急ぐ。


息を切らして駆けつけたその場所は、明らかに以前と様相が変わってしまっていた。
風が運んでくるのは桃の瑞々しい香りではなく、肺に重たく積もるような焦げた匂い。そこに鎮座する、青々と生い茂っていた枝葉たちが焼け落ち剥き出しになった太い幹。
その根本に、地に膝を着く師範の姿があった。何かを必死に呼び掛けるその背中越しに、黄色に鱗模様の羽織が見える。

「っ、師範!善逸は…!?」
「名前!返事をせん、息はあるようだが…」
「失礼します、」

師範の横から乗り出して見た善逸の様子に、一瞬言葉を失う。
所々焼け焦げてボロボロになった羽織、痛々しい熱傷。そして何より強烈に目を引く、鮮やかに染まった金色の髪。
とはいえ狼狽えている場合ではない。理解が追いつかなくても、いま最も優先すべきは善逸の安否確認だ。呼吸は、脈は、脳への影響は。

「…特に問題はなさそう、落雷の衝撃で気絶してるだけで」
「ほ、本当か」
「はい、でも熱傷は冷やさないと完治しにくいので、これからすぐ処置します」

はぁぁ、と師範が胸を撫で下ろすのを見て、私も大きく息を吐いた。命に別状が無くて本当に良かった。

「師範はお体大丈夫ですか?」
「うむ、問題ない…すまんが、こやつの看病を頼んだぞ」
「承知しました」

師範の背中を見送ってから、依然目を閉じたまま横たわる善逸に視線を落とす。
まずは部屋まで運ばなければ。善逸は大柄ではないものの、さすがに私とは体格差があるから少し大変かもしれない。
早く傷を冷やしたいのは山々だけれど、怪我人を引き摺るのも気が引ける。どうにか休み休み行こう、と自分の羽織に手を掛けた時、背後から人の気配が。
今度は私が振り向くより早く、あちらが口を開いた。


「さっきの勝負、落雷がなきゃ俺の勝ちだった」

獪岳さんはいつもの調子で不平不満を口にしながらこちらを見下ろす。言い返し掛けたところをぐっと飲み込んで、いつも通りを装った。

「そうですか、それは助かりました」
「…あの時、なんで峰打ちしようとした」

明らかに私が優勢だったのは、きっと獪岳さんもわかってる。間合いの内側に入ったあの瞬間、獪岳さんの色が見た事もないほど焦りを見せたから。
その事実の前では、謙遜しようが何を言おうがこの人の気に触ってしまうのは目に見えている。
こういう時、善逸なら何て答えるんだろう。


「…調子に乗んなよ雑魚」

適当な言葉を出しあぐねていると、獪岳さんは悪態を吐きながらこちらへ歩み寄る。
どけ、と一言吐き捨てて私を横へ押しやるとおもむろに善逸の前にしゃがみ込み、そのまま体を担ぎ上げた。

「え、」
「何だよ、反論でもあんのか」
「いえ!あの、私の部屋まで」
「俺に指図するんじゃねぇ!」

噛み付きながらもしっかりと目的地へ向かっている足取りを見て、思わず少し笑みが漏れる。
バレるとまた面倒な事になるので普段通りの表情に努めていると、あっという間に部屋へと辿り着いた。

「つーか何なんだこの髪…気色わりぃな」
「こればっかりは私にも分かりませんね…」

獪岳さんの肩で揺れる黄金色の毛束に目を遣る。気を失っているのは心配だけれど、目が覚めた時の彼を想像して思わず苦笑した。
雷に打たれるだけでも相当稀有な事なのに、裂傷程度で済んでいるばかりか髪色が変化してしまうなんて。奇想天外の連発。雷神様に愛されているのは間違いない。
獪岳さんは私が布団を敷き終わるまで、善逸の体を担いだまま待ってくれている。こういう所は律儀で節操あるんだなぁ。

「ありがとうございました、兄さん」
「だからその呼び方やめろ!」

どいつもこいつも舐めやがって、とまた一つ愚痴を溢した後、その攻撃的な口調を少し和らげる。


「これで貸し借りなしだからな」


吐き捨てるようにそう呟いた獪岳さんは、そのままこちらに目もくれず部屋を出て行ってしまった。
振り向かないであろう事は重々承知の上で、私はその背中を深いお辞儀で見送ったのだった。

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