無自覚に焦がれている

獪岳さんは、ひと月ほど前に最終選別へ発った。
彼の無事を祈る師範の心配をよそに、獪岳さんは一向に帰ってくる気配は無く、ただ一言「お世話になりました」と書かれた文を寄越しただけだった。
せめて顔くらい見せに帰ればいいのにとも思ったけど、「あの人の性格だし、なんとなく気恥ずかしいんでしょ」という善逸の言葉に、確かにと同意した。
まあ、文が届いたという事は、無事に最終選抜を突破したという事だ。
今度どこかで会えたら、嫌味の一つでも言ってやろう。


そのためにも、絶対に生きて帰らなきゃ。



「…師範、今まで本当にお世話になりました」
「これまでよく頑張ったのう、名前」


両親を亡くして途方に暮れていた私を。
どこにも居場所がなかった私を。
突然弟子にしてくれと頼み込んだ私を。

いつだって師範は、その大きな大きな懐で包み込んでくれていた。
師範がいなければ、今の私は存在しない。

両親の仇を取るために。自分の幸せを守るために。
最初はそれだけを胸に、強くなる事を決意した。
けれど、今はもう一つ。
師範から教わったものを継承し、その教えに決して恥じない剣士になる事。これが私なりの恩返しだ。

「…ところで、あやつはまだ来んのか」
「厠に籠って震えてます」
「まったく、あの馬鹿者が!」
「任せてください、師範」

すうぅ、と大きく肺に息を取り込んで、できるだけ感情的に声を震わせた。

「やだよぉ、最終選抜なんて行きたくない…!私、怖くて怖くて死んじゃいそうっ」

ひっくひっくぐすん、と効果音が付きそうなほど盛大に泣き真似を披露する。
そうすれば程なくして、焦りに焦った様子の善逸が物凄い勢いで駆けて来る気配が見えた。

「うまくいったみたいです」
「…お前と一緒ならば、善逸も大丈夫じゃろう」

任せたぞ、と眉を下げて笑う師範に、私も笑って大きく頷いた。


「…師範、最後に一つお願いがあります」
「なんじゃ」

考えたくはない。けれど、もう会えない可能性だって大いにある。だから。

「お名前で、呼んでもよろしいですか」

そう告げると、師範は一瞬目を潤ませた後、嬉しそうに優しい顔で笑った。

「っはぁ、名前ちゃんっ!泣いてるの!?大丈夫!?」
「うん、お別れは済んだから、先に行ってるね」
「えぇ!?」

私の尊敬する師である前に、大切でかけがえのない、たったひとりの家族。

「行ってきます、慈悟郎さん!」


大きく手を振って、これから待ち受ける試練への第一歩を踏み出した。


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「すごい景色…」

辺り一面に藤の花が咲き乱れていて、美しいのを通り越して恐ろしさすら感じる。
屋敷を出て少し後に追いついてきた善逸も、一層ガタガタと怯えきっている様子だった。

鬼が野放しにされた山の中で七日間生き延びる。
一通りの説明を受けて把握した合格条件は、至って単純だった。
だけど、単純であるからといって容易であるとは限らない。

これまで死ぬ思いで地獄のような鍛錬を積んできた実績はあるにせよ、当然ながら鬼を斬った事は一度も無いのだ。
自分の剣技が鬼に通用するかも、やってみなければ分からない。
もし、歯が立たなかったら?何体もの鬼に囲まれでもしたら、どうする?
嫌な想像ばかりが膨らんで、力を込めた拳が微かに震える。

ぽすん、という感触が背中にあって、そこからじんわりと体温が伝わる。優しく添えられたその手は、私のそれよりも震えていた。
音で察したのだろう。自分だって怖いのに、逃げたいのに、この人はいつも人の気持ちに寄り添ってくれる。

恐怖で引き攣り泣き腫らした顔はお世辞にも頼り甲斐があるとは言えない。
だけど、ひとりじゃないというだけで、心が救われる。
不思議と、さっきまで頭を支配していたものが消えて、肩の力がすっと抜けた。


「…行こう、」


見渡す限りの藤色がぱたりと無くなり、鬱蒼と生い茂る山中へと景色が変わる。
善逸は私の羽織を掴み、背に隠れるようにしてついて来ていた。

「善逸、そろそろ離して」
「もう俺無理だ絶対七日間も生き抜けないよ死んだわコレ」
「まだ鬼に出くわしてもないでしょ」

歩みを止めて一つため息を吐くと、善逸はその場に伏せてシクシクと泣き出した。
しゃがみ込んで目線を合わせ、さっき彼がそうしてくれたように背中に手を添える。

「ねぇ善逸、善逸は自分が思ってるほど弱くないんだよ」
「んなわけないでしょ、結局壱ノ型しか使えないんだし!」
「…師範の言葉、思い出して」

半ば自暴自棄になりかけている善逸に、諭すように声を掛ける。
師範が掛けてくださる言葉はいつもどんな時も、例外なく肯定するものばかりだった。
それは私たち弟子を信頼してくれているからこそ。

確かに善逸は一つの技しか使うことができない。
けれど、その精度の高さは師範も認めるほどだ。速くて、力強くて正確で、一切の無駄がない。
そんな彼の壱ノ型は、師範の「極め抜け」という言葉をしっかりと体現している。


「絶対、二人で帰ろう」

立ち上がって手を差し伸べると、善逸は先ほどよりも幾分か落ち着いた様子に見える。
震える手がゆっくりと重ねられようとした時、ぴたりとその手が静止した。


「なに、これ、この音…」

善逸のその言葉と同時に、妙な気配を感じ取る。
背筋が粟立つような感覚。今までに感じた事のない、気分が悪くなるような禍々しい気配。
ひゅっと息を飲んで青ざめる善逸も、おそらくとてつもない異音を耳にしてるんだ。
もしかして、もしかしなくとも、

「鬼…!」
「イィイイイヤァアアーーーッ!!!!!」


耳をつんざくような善逸の叫び声と同時に、茂みからがさりと現れたのはどう見ても人間ではない。
辛うじて人の形はしているものの、頭から生えた無数の角や鋭い爪と歯がそれを物語っている。

「久方振りの獲物、それも二人一遍にとは…俺にもツキがまわってきたなァ!」

ちょうど腹が減ってたんだよ、と舌なめずりをして少しずつ距離を詰めてくる鬼に、すかさず抜刀して構える。
落ち着け、落ち着くんだ。
修行で培った技術と師範の教えは絶対に裏切らない。

善逸の様子をちらりと横目で確認すると、完全に腰が抜けて地面に尻餅をついている。
標的が善逸に移る前に、私が斬らなくちゃ。

「雷の呼吸…伍ノ型、熱界雷!」

げひゃひゃ、と耳につく声で笑いながら飛び掛かってきた鬼を斬り上げる。
が、切先は何の手応えもなく空を切った。

「っ外した…!」

この鬼、速い。
それに異常に跳躍力があって動きが読みづらい。
だん、と地面を蹴ったかと思うと、鬼はその鋭い爪を剥き出しにして善逸に襲い掛かった。
危ない、と声を上げる前に善逸は四つん這いでジタバタと逃げ回る。

「ヒィイイ!!!死ぬっ、死ぬ死ぬぅうう!!!」
「っ、善逸!!諦めないで!!!」

「人を気にかけてる場合か、女ァ!」

しまった、と思った時にはすでに背中を殴打されていた。
そのまま勢いで木の幹に体を叩き付けられ、激痛で呼吸が一瞬止まる。

「かハッ…!」
「名前ちゃんっ!!!」

善逸が叫んだであろう私の名前も、激しい耳鳴りに掻き消される。
チカチカと視点が定まらない。脳震盪を起こしてる。
動かなきゃ、じゃないと、善逸が、

「オイ、男。弱そうなお前から喰ってやる」
「ぜ、ぃつ…にげ、て…っ!」
「その後はお前の番だ、そこで大人しくしてな」

刀を振るいたいのに、力が入らず起き上がる事もできない。
その間にも鬼は徐々に善逸へと迫っていた。

「おおおお俺なんて食っても美味しくないってぇええ!別に良いもん食って育ったわけじゃ無いし見ての通り食べ応えもなさそうな貧弱な人間ですよ俺は!!!」
「安心しろ、脳髄は食い物に影響されないからなァ…耳から一息に啜ってやるよ」

「のっ脳…ずい…ッ」


その瞬間、ぷつん、と糸が切れたように地面に突っ伏した善逸は、ぴくりとも動かなくなった。


嘘、嘘でしょ。
逃げて、とは言った。言ったけど、まさか現実から逃げるなんて思わないじゃない。
このままじゃ二人とも鬼に喰われてお終いだ。
突然気を失った彼を前に、鬼は心底愉快そうに笑った。

「賢明な判断だなァ!その方が少しは怯えずに済むじゃねぇか」

そう言って、鬼の手が善逸の頭へと伸びていく。
起きて、起きて!私の体か、善逸の意識、どっちでもいい、動いてお願い!!

その刹那、ザン、と何かを断ち切るような音。
ぼとり、と土の上に転がったのは、浅黒く皮膚が変色した鬼の腕だった。

「っな…!なんだ!?」

鬼は自分の腕が突如切り落とされた事に狼狽え、慌てて善逸から距離を取る。
私も一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
だけど、揺らぐ視界の中に佇んでいたのは紛れもなく、しっかりと大地を踏み締めて鬼に対峙する、黄色い羽織。

ざり、と左脚を引いて低く構え、鯉口を切る。
聞き馴染みのある呼吸音と共に、その口が開かれた。

「雷の呼吸 壱ノ型、」

普段よりも低く発せられたその声は、冷静で落ち着きのある、けれども太く芯の通ったような響き。
そんな初めて目にする彼の凛とした姿は、私の鼓動をどんどん早めていった。


「霹靂一閃」


ビリビリと音を立てて、目の前を閃光が走った。
そのあまりの速さに視認できず、目を凝らして様子を伺う。
巻き上げられた砂煙に紛れて見えたのは、草むらに転がった鬼の頭だった。

断末魔の叫びと共に、ぼろぼろと鬼の体が朽ちていく。
善逸が、鬼の頸を斬った。
それは苦しい修行が実を結んだ瞬間だった。
安堵したのも束の間、善逸がそのまま地面に雪崩れるように倒れ込む。
ようやくまともに動けるようになった身体を叩き起こして、彼の元へ駆け寄った。

「善逸!!…え、」

体を転がして表に向けると、善逸はすやすやと気持ち良さそうに眠っていた。

「どういう事なの、これ」
「ムニャムニャ…フガッ!!!」

飛び跳ねるようにして起きた善逸は、腰の引けたような体勢でキョロキョロと辺りを見回し始めた。

「お、おおお、鬼はっ!?」
「ひとまず大丈夫だよ」
「よ、よかったぁ…っそうだ、名前ちゃん怪我は!?」

打ち付けた背中がズキズキと痛むけど、意識もはっきりしているし戦えないほどではない。
大丈夫だよと頷くと、善逸は俯き加減にごめんと一言呟いた。

「どうして善逸が謝るの」
「やっぱり俺、足手纏いにしかならなくて」
「え?そんなわけ、」
「さっきの鬼だって、名前ちゃんが倒してくれなきゃ俺絶対やられてたよぉ…!」
「…うん?」
「助けてくれて本当にありがとう、名前ちゃん!!」

そう言って善逸はまた目に涙を溜め始める。
もしかして、自分が鬼の頸を斬った事を覚えてない?
あの見事な居合いを、無意識下でやってのけたというの?
それに、助けてくれてありがとう、と言葉を掛けなくちゃいけないのは私の方だ。

「…こんな弱い俺じゃ、じいちゃんに怒られる」
「師範はちゃんとわかってるよ、善逸のこと」

ううん、と首を横に振った善逸は、少し後ろめたそうな様子で。

「出立の時、じいちゃんと約束したんだ」
「約束?」

「…名前ちゃんの事、何があっても守るって」


悔しさとやるせなさを滲ませながら、善逸は絞り出すように言葉を紡いだ。


約束通り、守ってくれた。
怖くても、逃げ出したくても、私を守る事を優先した。

そう認識した途端、ぎゅうぎゅうと胸の奥が締め付けられる。
私の知っている喜びや感謝の気持ちは、もっとお日様みたいに心がぽかぽかと落ち着くものだった。
でもなぜか今は、少し息苦しさを感じるほど心臓がどくどくと鼓動して、体が熱い。

「名前ちゃん?」
「…善逸は、弱くないよ」
「へ?」

私の様子が音で分かったのか、心配そうに覗き込んだ善逸にそんな言葉を掛けた。
ずっと思っていた通り、善逸はやっぱり強いよ。
きっと、さっきの出来事を伝えても彼は頑なに信じないだろうから。

「善逸がいてくれて、よかった」
「え、名前ちゃん、」
「ありがとう」

私も善逸と同じ。一人ではきっと駄目だった。
自分に出来る事を極め抜いて、助け合い高め合う。
そんな師範の教えを反芻しながら、私も彼を精一杯守ると心に誓った。

その後善逸が「やっぱり俺たち結婚かな!?結婚だよね!?」と恥を晒し始めたのは言うまでもない。

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