掬って救われて

しばらく隠の女性の背で揺られていると、何やら広い敷地の中へと入って行くのが分かった。
そこに鎮座していたのは大きなお屋敷で、庭では至る所に蝶が舞っている。
きょろきょろと見回していると、隠の女性がおもむろに口を開いた。

「これからお会いする方には、くれぐれもご無礼のないように」
「え?はい、」

そう簡潔に告げた彼女は、どことなく緊張している様子だった。
やがて表玄関へと辿り着くと、ちょうど中から人が出てくるのが見える。

「蟲柱様、怪我人を一名連れて参りました」
「ご苦労様…まあ、見事にザックリいってますね」

蟲柱。そう呼ばれたのは、私よりも三寸ほど小柄で、微笑みを携えた美しい女性だった。
気配はまさに藤襲山で見た藤の花の色そのものだ。柱というだけあって、今まで見た気配の中で一番色濃く感じる。

「すぐに治療を、と言いたいところなんですが…生憎これから任務でして」
「わたしも縫合まではできませんし…すみません、」
「あなたが気に病む事はありませんよ」

困りましたね、と眉を下げる蟲柱様。
助手なのだろうか、隣で髪を二つに結った碧眼の女性も申し訳無さそうな表情で立っている。

「あ、あの、でしたら私が自分で縫います」
「あら、」
「処置用の器具さえお貸しいただければ…よろしいでしょうか?」

隊律的に問題無いのかとかその辺りが気になるところだけれど、ひとまず今の状況でこの選択肢が最善である事は間違いない。
蟲柱様は訝しげに首を傾げて口を開く。

「あなた、医学の知識があるのですか?」
「診療所の家の出なので…医療行為は多少経験があります」
「なるほど、」

蟲柱様は少し考える素振りを見せた後、再び口角を少し上げて微笑んだ。

「そういう事でしたら、お任せしておきましょうか」
「ありがとうございます…申し遅れました、苗字名前、階級は癸です」
「蟲柱 胡蝶しのぶと申します、苗字さん、何かあれば彼女に聞いてください」

では、と一言発したかと思えば胡蝶さんは恐ろしい速さでその場を離れ、瞬きする間にその姿は消えていた。
柱の凄さに圧倒されているところへ、不意に声が掛けられる。

「処置室へ案内します、こちらへ」
「あ、はい!」
「わたしは神崎アオイです、ここ蝶屋敷で主にしのぶ様の補佐や療養中の隊士の看護を担当しています」
「苗字名前です、お世話になります」

アオイさんと名乗った彼女は、人によっては冷たいと思われてしまうような雰囲気だと思う。
私としては、てきぱきと仕事をこなしている姿を見るのは気持ちが良いものだし、むしろ好感が持てる感じだけれど。
自己紹介をしている間にも私をおぶってくれている隠の女性は慣れているためか、迷いなく廊下を進み目的の部屋へと行き着いた。
ゆっくりと降ろされたベッドに腰掛けて、道中お世話になったお礼を告げる。彼女は次の派遣先があるらしく、一礼すると足早に去っていった。
改めて部屋を見回すと個人病室よりも少し広めの空間で、調剤のできる場所も設えてあるようだった。

「治療に必要なものは全てここに揃ってますので」
「ありがとうございます、アオイさん」
「いえ、……感謝されるような事、一つもできてませんから」

先程までの芯の通ったはきはきとした口調が、少しくぐもったような感じがした。
誰かと比べて負い目を感じたり情けなくなったり、自分を卑下してしまう事は私にも大いに身に覚えがある。
そんな時一番腹が立つのは、自分自身に対してだ。誰かや何かに八つ当たりできれば楽だろうに、凝り固まった矜持がそれすら許さず悪循環に陥って。
そんなアオイさんの姿が、まさに今の自分と重なって胸が痛んだ。

「…自分にできる事を、やるしかないんです」
「え、」
「いくら頑張っても他の誰かにはなれないから…自分の信じる道は自分で選ぶしかないんです」

まるで自らに言い聞かせるように口にしたその言葉は、そのまま自分の胸に突き刺さる。
自分に出来る事をやる。それは、一つの事を極めろと言った師範の言葉にも通ずるものがあった。

「あ…すっ、すみません偉そうな事言って!!」

とんでもなく上から目線だった事に気付いて、冷や汗が流れ出す。見たところアオイさんは年上の方だし、そもそも私はそんな大層な事を言えるような階級でもない。
というか出会って間もない相手にこんな一方的に持論をぶつけるような真似、非常識にも程がある…!
今更焦り出して平謝りする私に、彼女は目をぱちぱちと瞬かせた後、ずっと力の入ったままだった眉間を緩ませた。

「…いえ、おっしゃる通りです」
「アオイさん…」
「少し、気持ちが楽になりました」

ありがとうございます、とはにかむように見せたアオイさんの笑顔に、内心少しほっとした。
つられてこちらも笑い返すと傷口の痛みがぶり返してしまい、しばらく涙目で身悶える事となったのだった。


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蝶屋敷で療養を始めてから、ひと月ほど経った頃。自分で縫った傷口はその後無事に閉じ、しのぶさん曰くほぼ完治との事。
痕は残ってしまうかもしれませんね、と眉を下げて私を気遣う様子は女神か天女かと思うほどで、体だけではなくて心まで救われるような気持ちになる。
そんなしのぶさんは昨晩また任務へと出かけて行ったきりまだ戻らず、柱は本当に激務だと改めて思う。いつ休息を取っているのか不思議で仕方がない。

そんな折、何やら表が騒がしくなり始めた。気配の感じからして人の出入りが相当あるようだ。
様子を見ようと部屋から廊下へ出たところでこちらへ駆けてきたアオイさんとぶつかりそうになり、間一髪のところで身をかわした。

「っわ、ごめんなさい!あの、何かあったんですか?」
「名前さん!任務での負傷者が…」

その言葉と隠の人たちが忙しなく動いている様子で、瞬時に状況を理解する。

「病床の用意ですね、手伝います」
「あ…はい、助かります!看護服は処置室の予備を使ってください!」
「わかりました、奥の部屋から整えてきます」
「お願いします!」

昔、診療所に急患が運ばれて来た時と似たような空気で、気付けば口と体が勝手に動いていた。処置室で看護服を身に付けて、足早に病室へと向かう。
続々と運ばれてくる隊士たちは皆、現地で応急処置がされている状態とはいえ重傷者が多く息が詰まる。
裂傷や骨折ならともかく、明らかに頭身の比率がおかしかったり、髪がバッサリと抜け落ちているのを見れば、そこにいたのが異能の鬼であった事はまず間違いない。

「肋骨二本骨折と右側頭部の打撲、太ももの裂傷は…血は止まってますね、」
「え、なんで分かるんだ…」
「その他に気になる所は?」
「あ、いや特には、」
「わかりました、しばらくここで安静にしてて下さい」

運ばれてくる隊士に軽く問診をしつつ、色の変化を見て問題のある箇所を見つけ出す。紙にでも書き出しておけば、後でしのぶさんが見た時に滞りなく処置に移れるだろう。
縫合や点滴の用意をしつつ次へ次へとそんな作業を繰り返していると、奇妙なものが視界の端に入って来て思わず二度見した。
猪の被り物をして、腰にはその毛皮を身につけた上裸の男性。でも両腰に日輪刀が据えられているし、鬼殺隊士である事には違いない。
見たところ体の裂傷は現地で止血されているようだけど、なぜか喉頭と声帯までもが圧挫傷を起こしている。

「すみません…ちょっとだけ、これ外してもいいですか?」

被り物をちょんと軽くつついてそう問いかける。
猪の頭が無言で頷いたのを見てそっと外すと、とんでもなく端正な顔立ちが現れてまたも二度見する。翡翠のような瞳はその長い睫毛越しにどこか遠くを見つめていて、視線が合う事はなかった。
思ったより顔色も悪くなくて少しほっとした。この様子だと暫くは投薬での養生になるだろう。

「ありがとうございました、もういいですよ」

そう伝えると、再び無言で頷き猪の頭を被り直した。気配の揺らぎ方からして、おそらく肉体よりも精神的な傷の方が問題だ。しのぶさんならきっとその辺りのフォローも抜かりないだろうな。
そんな事を思いつつ猪の彼の状態を書き起こしていると、ふと意識の端に感じた気配に手が止まる。
そちらへ視線が移るより早く、向こうから聞き慣れた声が耳に飛び込んで来た。

「頼むよ!俺あっちの部屋がいいんだってば!!」
「いけません!陽光の多く差し込む部屋にと、しのぶ様から言付かっているんです!」
「音が聞こえるの、名前ちゃんの!!今すぐ会いたいんだよじゃなきゃ俺もう辛くて死んじゃうよぉおお」
「言う通りにしてください!本当に死にますよ!!」
「嘘でしょ冷たすぎじゃない!?こんな時くらい優しい言葉を掛けてくれよぉお!!」

扉からそっと中を覗くと、そこにいたのは全身を包帯でぐるぐる巻きにされた善逸の姿だった。
想像以上の痛々しさに一瞬息が止まりそうになったけれど、これだけ喚き散らせる元気があるのなら安心だ。
次に会えたら、あの時の事を謝ると決めていた。それなのに、いざその時になると彼の目すらまともに見れない。

「すみませんアオイさん、彼は私が引き受けます」
「お願いします、…あなた、屋敷内ではくれぐれもお静かに!」

そう言って次の患者の元へ向かうアオイさんの背に頭を下げる。
パタン、と部屋の戸が閉まれば、廊下の喧騒が遮られ少しだけ静かになった。なんとなく気まずくなって、目線を合わせないように点滴の準備をする。

「名前ちゃん!どうしたのその格好、」
「それはこっちの台詞よ、重症じゃない」
「…名前ちゃん、」
「ちょっと、人の話聞いてる?」
「よかった、怪我大丈夫だったんだね」
「…え、」
「俺、それだけがずっと気掛かりで」

不自然に短くなった手足、左手の刺傷と爛れ、毒による痺れ。
そんな状態の自分を差し置いてひと月も前の他人の怪我の方を心配するなんて、この人はどこまでお人好しなんだろうか。
そしてその優しさを跳ね除けたのは他の誰でもない、私だ。


「…ごめんなさい、」
「へ?」
「酷い事言って、ごめんなさい」

足元にぽつりと零した謝罪の言葉は、二人きりの病室の空間に溶けていく。

「守られてばかりなのが悔しくて、焦って…私、強くなるって決めたのに」
「…名前ちゃん」

後悔と、自己嫌悪と、羞恥心とで顔が上げられない。最初から素直になれていたら、自分も彼も傷付けずに済んだのに。

「こっち向いてよ」

俯いたままだった自分の顔が、善逸の穏やかな声色につられていとも簡単に彼の方を向く。
やっと合わせられた瞳は、いつもと変わらない綺麗な琥珀色だった。

「俺さ、名前ちゃんのおかげで助かったんだ」

善逸はそう言った後、こちらへ顔だけ向けていたのを正面へ戻して話し出す。

「毒が回ってもう駄目だって思った時に、名前ちゃんの顔がよぎってさ」
「…うん、」
「諦めないで、っていつも言ってくれてたの思い出して」

泣いても逃げてもいいけれど、決して諦めない事。
自分は弱いと嘆く善逸に、師範がよく掛けていた言葉だ。
ただの受け売りと思われても構わないと、私もおまじないのように口にしていたその言葉を、善逸はしっかり受け取ってくれていた。

「じいちゃんにも怒られるって思ったら、呼吸に集中できて毒の巡りを遅らせられたんだよね」
「…そっか」
「それにあのまま名前ちゃんに会えなくなるなんて、嫌だったから」

天井を見つめていた目が真っ直ぐにこちらへ向けられる。

「俺だって、名前ちゃんに守ってもらってるんだよ、男のくせに情けないけど」
「そんなことない、」
「あるの!少なくとも、いま俺がこうして生きてるのは名前ちゃんのおかげなんだから」

だからさ、と続けた善逸は眉を下げてへらりと笑った。

「ありがとう、名前ちゃん」
「善逸…」
「思い詰めた顔して一人で抱え込まないで、何でも話してよ」

こんな怪我人に言われても頼りないだろうけどさ、と善逸は苦笑した。

「それに前も言ったでしょ、名前ちゃん笑ってる方が可愛いって」
「な、」
「…久し振りに会えて嬉しかったの、俺だけじゃなかったんだねえ」

うぃひひ、と表情を崩して妙な笑い方をする善逸は、確実に私の音を聞いていた。
やっぱり彼に嘘は吐けないな、と思うと同時に嘘を吐く必要なんてないや、とも感じていて。

「…ずっと会いたかったよ、」

自然とそんな事を呟いていて、はっと気付いた時にはすでに善逸は目を見開いて固まった後だった。
変な空気を振り払うように、少し声を張って気持ちを切り替える。

「っほら!点滴入れるから、包帯取って病衣に着替えるよ」
「へっ?でも、どうやって…」
「私が着替えさせてあげるから」
「はい!?ヤッ、ちょ、待って待って!?さすがにそれはなんていうかあの、」
「仕方ないでしょ自分じゃできないんだから」
「あああッそうだ伊之助っ!伊之助いるでしょ、音もそんなに弱ってなさそうだし!」
「いのすけ?」

善逸が口にした私の知らない人物の名前に首を傾げる。彼の口ぶりからして、その人は怪我人の中にいるようだ。

「俺たちの同期なんだよ、少し前の任務で一緒になって…っていうか襲われて」
「お、襲われたってどういう…?」
「とにかく、着替えはそいつにどうにか手伝ってもらうから!」
「まぁそういう事なら…その、いのすけさんってどんな人?」

一人一人名前を聞いて回るには人数が多すぎる。ある程度特徴を聞いてから絞り込んでいった方が早いだろう、なんて考えていたら、善逸の言葉により一瞬で解決したのだった。

「猪の被り物したヤバそうなやつ」
「ああ、あの人ね」

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