従順な我が侭を

私が蝶屋敷に身を置いてふた月程が経つ。
任務をこなしつつ屋敷では毒の研究、運ばれてくる負傷者の手当に療養中の隊士のお世話、空いた時間を見つけて自分の鍛錬…とそこそこ忙しい日々を送っていた。
休む間もなく働く私をきよちゃんたちは心配してくれるけれど、こうして動いている方が性に合っているのだ。このくらいの疲れは師範の元で修行をしていた頃の比ではないし。
それに、私なんか比べ物にならない程の大きな働きをした人達だっているのだ。
自らの命をもって、その責務を全うした人も。

つい先日、無限列車での任務を終えて戻ってきた炭治郎、善逸、伊之助の三人。
別の任務に出ていた私は後から炎柱の煉獄さんの訃報を知り、聞くに聞けなかった彼らの悲壮感に合点がいった。
中でも炭治郎の憔悴具合は酷く、その様子は見るだけでこちらも胸が苦しくなる程で。あれほど前向きでめげない心を持つ彼が挫折し、煉獄さんの事を悼んでは自分を責めていた。
普段は無鉄砲で粗雑に振る舞う伊之助も、この時ばかりは心底落ち込んでいた。
さすがのアオイさんも逐一気に掛けていて、少しでも元気が出るようにと夕食にしばしば天ぷらを拵えたりして。

各々が自分の気持ちに折り合いをつけ、ようやくその悲しみから立ち直ろうかという今日この頃。
そんな雰囲気に似つかわしくない能天気な声が屋敷に響き渡る。


「ねーずこちゃあぁああーーんっ!!」


屋敷の庭をちょこちょこと駆ける禰豆子ちゃんを、だらしなく頬を緩ませて追いかけている善逸。
ここのところ日が暮れるとずっとこの調子で、アオイさんのお説教もお馴染みとなってしまった。
しのぶさんも初めこそやんわりと注意していたものの、最近は微笑みを絶やさずともしっかりと額に青筋が浮かんでいて冷や汗ものだ。

それに私としても少し…どころか、相当頭にきてしまっている。
確かに体はそこそこ疲れていても平気だし、むしろこの疲労が体力向上に一役買っていると捉えられるくらいには前向きだ。
ところが、善逸のあのへらへらとした顔と女の子のお尻を追いかける様を見ると途端に心が冷え込んでしまう。その冷たくなった心が気持ちをざわつかせて、いつしか頭の奥で火種を生んでいるのだ。
自室に設えた調剤台に手をついて、もやついた気持ちと共に息を吐き出す。

善逸が他の誰かに求婚していたと耳にしたあの時も、同じような感覚に陥ったのを覚えている。
腹立たしいのと寂しいのと、それから胸がちくりと痛む感じ。
彼が女性に対していつでも好意的であるのは今に分かった事ではないし、それが原因で過去散々な目に遭って来ている事も本人の口から聞いている。
初めはむしろ呆れや不憫な気持ちが強かったというのに、時を重ねていく程にどんどん自分本意な感情へと姿を変えてしまっていた。
どんな言葉でも態度でも、彼の好意の対象が私でないというだけで、こんなにも心が掻き乱される。それは他の誰でもない、善逸だからで。
あの地獄のような修行の日々も、決死の覚悟で臨んだ最終選別も、不安だらけの初任務も、ずっと一緒に乗り越えてきた彼だから。

私にとって善逸は苦楽を共にした相弟子であり、同じ志を持つ同期仲間であり、かけがえのない友人だ。善逸にとっての私も、きっとそう。
互いの絆が強くなる事はあれど、その垣根を越える事なんてない。命を掛けて鬼と戦っている以上、心に隙を作るような事があってはならないのだ。
そんな決意とは裏腹に主張する執着心、嫉妬心、独占欲…知らないままでいたかった感情たち。
平穏を取り戻そうと冷静になればなるほど真相に迫ってしまう。失うのが恐ろしくて、目を逸らし続けてきたはずだったこの気持ちに。
きっと私は、善逸のことが――




「あの、名前ちゃん、」
「っきゃあ!」


いつの間にか突っ伏していたところに突然声を掛けられ、まさに心臓が口からまろび出そうになる。
あまりに没入していたからか、気配なんて完全に意識の外だった。慌てて立ち上がり振り向くと、そこに立つ善逸もまた驚いた顔をしていた。

「ごめん、驚かすつもりじゃ」
「なに?私に用事?」
「いや、何だか辛そうな音が聞こえて…どうしたのかなって」
「…別に、ちょっと考え事」

そう言葉を濁して答えると、善逸は眉を下げて少し躊躇いがちに口を開いた。

「名前ちゃん、何か怒ってる?」
「…音で分かってるんでしょ、聞かないでよ」
「俺のせい、かな…?」

そうだよ、善逸のせいだよ。そんな言葉を飲み込んで黙っていると、善逸は思い当たる節がないといった様子で狼狽えている。それもそうだ、彼にしてみればただ禰豆子ちゃんと楽しく遊んでいただけなんだから。
『禰豆子ちゃん』と嬉しそうに口にする彼の姿が脳裏を掠める。私の名を呼ぶ時は、あんなにのぼせ上がったりなんてしないくせに。
チリチリと胸の裏側が焦げつくような感覚がしたと思ったら、少しの欲が喉から顔を出す。


「ねぇ善逸、」
「うん?」
「呼び方、変えてほしいんだけど」
「…へ?」

出会って間もない頃にも、彼からそんな申し出があった事を思い出す。ただの同門だった私と彼の関係が、親しい友人へと昇格したあの日。
呼び方が変われば関係性も変わるとするなら、私は善逸との関係に何を望んでいるというのか。

「えと、名前ちゃん、呼び方ってどういう…?」
「その名前『ちゃん』っていうの、」
「…それはつまり、呼び捨てにしてほしいってこと?」

私が皆まで言わなかった事を善逸は遠慮がちに口にした。明確に言葉にされると、なんて図々しくて意味不明な催促なんだろう。
一瞬後悔したけれど自分が言い出した手前引っ込みがつかず、俯き加減のまま小さく頷いた。
こんな自分勝手な申し出、幻滅されてしまうかもしれない。おそるおそる目線だけを上げると、善逸は目をまん丸にして固まっていた。

「どしたのいきなり、」
「だって、私は善逸のこと呼び捨てにしてるでしょ?釣り合い取れてないじゃない」
「でっでも俺、女の子には女の子扱いしてあげたいっていうかさ!」
「何その変なこだわり」
「い、いいでしょ別に!」
「…付き合い長いのに、なんかもどかしいよ」


寂しい、とは言えなかった。
素直に甘えてしまいたい欲求と、それを断固として許さぬ理性がせめぎ合い、結果後者が打ち勝ったのだ。
善逸は何か迷っているような素振りを見せていたけれど、やがて諦めたように口を開く。


「…こっちも今更呼び捨てとか小っ恥ずかしいといいますか、」


顔を赤らめて照れ臭そうに目を逸らすその様子で、さっき彼が口にした女の子扱い云々というのはただの建前であると察する。
何にせよ私はきっと脱却したいのだ、ただの女の子という括りから。

「じゃあ、二人きりの時だけでもいいから」
「…え?」
「誰も聞いてなかったら、恥ずかしくないでしょ」

拒否されたらどうしよう、そんな気持ちを隠そうと強がった分、ぶっきらぼうで可愛げのない口調になってしまった。
不安と恥ずかしさで目線を逸らすと、視界の端で善逸がしゃがみ込んだのが見えた。
もー…、と絞り出すように声を発したきり顔を両手で覆い隠してしまい、何やらぶつぶつ呟いている。黄金色の毛束から覗く耳が先程よりもさらに真っ赤に染まっているけれど、そんなに恥じらいを煽るような事を言った自覚はなかった。
少し戸惑い気味に呼び掛けると、善逸は指の隙間からちらりとこちらを上目遣いに見て、肩が上下する程の大きな息を吐いた。

「…っあのさ、ずるくない…?」
「え、なんで」
「だって断れないじゃん、そんな可愛い事言われるとさ」

いちいち恥ずかしがったりする割には、可愛いだとか素敵だとか、女性に対する讃美をさらりと口にする。
いつもの事だと、誰にでもそんな言葉を掛けているのだと、分かっていてもあっという間に心拍数が上がってしまう。
そんな都合の良い心が彼に悟られる前に、何でもない風を装った。

「じゃあ決まりね」
「うぅ…わかったよぉ」

善逸は渋々といった様子で承諾し、観念したように腰を上げた。この様子だときっとすぐには呼んでくれそうにないだろうな。
主導権を握るついでに、はっきりとした口調で念を押す。

「もしまたちゃん付けで呼んだらお仕置きするから」
「名前ちゃんのお仕置きならむしろ受けたい…」
「もう!言ったそばから!」
「うわごめん、つい癖で!今のは見逃して!!」
「はいお仕置き!しっぺ六連!!」
「え、なにそれ新しい型?いっ、た!痛い痛い!」

ぺしぺしと容赦なく善逸の腕にお見舞いしていると、窓ガラスをコツコツと突くような音が聞こえて手を止める。
可愛らしい鳴き声と共に鎹雀が窓の外で羽ばたいているのが見え、窓を開けて中に招き入れた。

「チュン太郎、もしかして指令かな?」
「チュン、チュン!」
「いや今それどころじゃないの、アッほら腕真っ赤っか!ね!?こんなんじゃ刀なんか握れないって無理無理、無理だってば!!」
「もう大袈裟な、指令が来たならすぐに任務行かないと」
「やだよぉお!いっつも気付いたら鬼死んでるしさぁ!もうワケわかんないし怖いんだけど!!」

そう騒ぎ始めた善逸を、呆れ半分同情半分で見つめる。
無意識下で戦っているという事は、鬼の首を斬る瞬間や自分の技が通用しているという実感を得られていない事になる。実際に鬼を倒しているとはいえ善逸が未だに自分の力を信用できないのは、それが大きな要因だと思う。
いくら他人に褒められ認められようと、自分で自分を許す事ができなければ、いつまで経っても自信は持てないままだ。

「もし怪我して帰ってきたら、私が治療してあげるから」
「…もう二度と戻って来れないかもしれないよ、」

ここで働き始めてからたくさんの隊士の治療に当たり、その度に傷だけでなく心の痛みにも触れてきた。
戦いの恐怖に打ちひしがれた人、目の前で鬼に喰われる友を助けられなかった人、勇猛果敢に戦い犠牲となった上司を想い自分の無力さを嘆く人…戦いの数だけ、それぞれに痛みや想いがある事を思い知った。

善逸はいつもそんな想いを包み隠さず言葉にする。怖い、助けて、死にたくない、自分は弱いんだ、と。
本人は意図せず思うまま感情を吐き出しているんだろうけど、そうやって無意識に自分の価値を下げる事で自分を守っているのだと思う。
誰かがいないと駄目なようで、実は一人孤独に戦っている。鬼と、それから自分の弱さと。

どうすれば、善逸の力になれるだろうか。
今の私にできる事は。


「大丈夫だよ、」


善逸は強いから。
これまでもしっかりやってきたんだから。
師範にだってお墨付きを貰ったんだから。

咄嗟に口から出そうになったのはそんな言葉だったけど、どれも中身が空っぽで飲み込んだ。
そうじゃなくて、もっと心と心を結びつけられるような、そんな言葉を。
善逸が少しでも、自分自身を信じられるように。


「私が信じてるから、善逸のこと」


ずっと面と向かって言えなかった言葉を、ようやく目を見て伝えられた。
すると善逸は一瞬泣きそうな顔をして、あどけない子どもみたいにはにかんだ。

「じゃあ、さ…帰ったら、一緒に甘味処行かない?」
「うん、いいよ」
「ほ、ほんと!?絶対だからね!!」
「力んでると余計に怪我するよ、ほら力抜いて」

善逸の肩に両手を伸ばし、ポンポンとならしながらゆっくりと撫で付ける。
師範の元で修行していた頃はよく体をほぐしたりしていたけど、思えばこうしてしっかり善逸に触れるのは久し振りの事だった。
私よりも少し高い背丈に、見た目よりもがっしりとした体。確実にあの頃よりも成長していて、やっぱり善逸も男の人なのだと変に意識してしまいそうになる。
そんな思考を振り払うように、ぱんっと強めに肩を叩く。

「行ってらっしゃい、待ってるね」

笑顔でそう告げると、善逸はぐっと何かを耐えるような表情を見せた後、おもむろに開けた扉から首だけをひょいと突き出した。
何やらキョロキョロと辺りを見回し始め、その様子を不思議に思っているとまたこちらへ向き直る。


「行ってきます、…名前」


そう言って逃げるようにして部屋を出て行った善逸に、私は閉じた扉の前で立ち尽くす他なかった。
あれだけ恥ずかしいと渋っていたし、しばらくは叶わないだろうと思って油断した。
完全に不意打ちをくらった私の心臓は、静かな部屋とは対照的にドキドキとやかましく騒ぎ出す。

ずっと苦しくもがいていた感情の海の中で、やっと息継ぎできたような感覚が体に満ちていくのが分かる。呼び方一つでなんて単純なんだと内心自分に呆れつつも、行き詰まっていた道が開けていくような解放感に心が晴れていく。
もやもやが消えてすっかり元気を取り戻した私は、勝手に上がる口角もそのままに調剤台へと向き直った。


それからしばらく蝶屋敷では、真っ赤な顔で私の部屋を出て行く善逸を目撃したすみちゃんの盛大な勘違いによって、あの二人はただならぬ関係だとまことしやかに囁かれたのだった。

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