「ん……朝…?」
あんなことがあってからもう何時間も経ってるっていうのに、まるでついさっきのことみたいにその時の光景が頭によみがえってくる。
そのせいできのうはほとんど眠れなかった。
一瞬その時のことを忘れて寝付けたと思ったらすぐに目覚めて、また思い出してを繰り返していたら、いつの間にかカーテンの隙間からうっすらと太陽の光がもれていて、もう朝なんだと気がついた。
『……謙虚で優しくてしっかり者。けど、おれの前でだけ泣き虫になるやつ』
『え?それって』
『おれの好きなやつのこと』
桃矢君がおれの前でだけ泣き虫になるやつ、と言ったとき、すぐにわたしのことだと思った。
だってそれは前に自分が桃矢君に直接言ったことだったから。
わたしはいままで人前であまり泣けないタイプだったのに、なぜか桃矢君の前でだけは泣き虫になってしまう。
それは桃矢君の前でだけは素直になれるからだね、なんて、話したことがあった。
だからいったい何なのかと「それってわたしのこと?」と聞こうとしたら、まさかの答えがわたしには何も言わせまいというように、少し食いぎみに返ってきた。
いったい何の冗談かと思ったけれど、決して冗談なんかじゃないってすぐに気がついた。
だって桃矢君は間違ってもそんな冗談言う人なんかじゃない。
桃矢君がわたしのことを好きでいてくれているとは思っていた。
もちろんそれは大切な友人として好きってことで、恋だとか愛だとか、そういうものだなんて考えたこともなかった。
自分の気持ちに気がついたのだってつい最近なのに。
だからあんなこと言わなきゃよかった、なんて今更後悔していた。
桃矢君に好きな人のことを聞かれて、はじめは困惑していたし、恥ずかしいしで「そんな人いない」と言うつもりだった。
でも桃矢君を目の前にしていると、そんな嘘つけないと思った。
自分の大切な人に、嘘なんてつきたくないと思ったから。
だからわたしは正直に言った。
『いるよ、好きな人』
『どんなやつなんだ?』
『……優しくって、でもちょっと意地悪で……照れ屋さんなの』
本人を目の前にして言うのはすっごく恥ずかしくて、すっごく声が出にくくて。
まさか自分のことだなんて思わないだろうと思って、桃矢君のことを考えながら、そう言った。
でもいま思えば賢い桃矢君のことだから、それは自分のことだって感づいてるに違いない、というよりあのときの表情は絶対にそう。
だったら単純に考えて両思いじゃないか、よかった、とはなぜか思えなくて。
そのことについて考えれば考えるほど頭のなかは混乱して、いまから学校に行くのに桃矢君に会うんだと思うと、どうしたらいいのかわからなかった。
放心状態のまま学校に行く準備をしていたら、朝からめずらしく電話が鳴った。
正直電話に出ようと思える気分ではなくて、今回だけはごめんなさいと、電話の音が聞こえていないふりをした。
それでも鳴り続ける電話にしびれを切らしたわたしはかかってきた番号の確認もせずに受話器をとった。
「はい森下です」
『もしもしまなみ?元気?』
「っ……お母さん!?」
突然の電話の相手がまさかお母さんだなんて、それまでのもやもやとした気持ちも吹っ飛んじゃうくらい驚いた。
『急に電話してごめんなさいね、で、突然なんだけど今日学校休める?』
「は……?」
『いまアパートの近くまで来てるから!』
「えっ、いま日本にいるの?」
そして何が何だかわからないまま、わたしは言われるがまま学校を休むことになった。
「旅行?」
「ええそうよ、二泊三日でどう?」
「どう?って……」
突然の来日になったお母さんは日本に来たからにはわたしに会いたいと、まとまった休みを無理矢理とったらしい。
前に日本にいたときには仕事が忙しくって会えなかったから、どうしてもと会社の人に無理を言ったら皆さんが快く業務を引き受けてくれたみたいで。
「お母さんのワガママ、聞いてくれる?」
「……うんっ、もちろん!」
風邪でも何でもないのに学校を休むのは気が引けたけど、お母さんと3日間もいっしょにいれるんだと思ったら嬉しくて嬉しくて。
とにかく学校と、まだ家にいるはずの月城君に連絡しなきゃと電話をかけた。
『はい月城です』
「月城君?おはよう」
『おはようまなみ、朝から電話なんてどうしたの?』
事情を話すと、月城君は「楽しんできてね!」と爽やかな声で答えてくれた。
「それじゃあ待ち合わせの時にとーや達にも言っておくよ」
「うん、お願いするね」
そう伝えて電話を切ると、わたしは早速旅行に要りそうなものを準備しはじめた。
さっきの電話で桃矢君の名前がでたとき、正直びくっとして、その動揺が伝わってしまっていないか心配したけど、どうやらだいじょうぶそうだった。
いまは桃矢君に会えない、そう思う。
どうやって話したらいいかわからないし、ちゃんと話せるかどうかもわからない。
ちゃんと自分の気持ちを伝えられないような状態で、桃矢君と会うなんて嫌だ。
だからこの旅行はゆっくりと自分の気持ちを整理できるいい機会なのかもしれないと思った。
「ねえ、旅行ってどこに行くの?」
「それはまだ言えないわ」
わたしはそんな事を聞きながら荷物を準備し終えると、お母さんにはこのことを勘ぐられないようにしなきゃと急いで家を出るようにお母さんを促した。
そして家を出るとお母さんの仕事用の車が停まっていて、なかに乗り込むと、昔からお母さんの会社で専属の運転手をしてもらっている立花さんがいた。
こうして立花さんと会うのはちょうど1年ぶりくらいで、本当に久しぶりだった。
運転手の立花さんは年齢的にもうおじさんだけれど、見た目は若くて、当時からその性格と同じように笑顔がすごく優しいひとだった。
小さかった頃はよく遊んでもらったり、仕事で来られない両親のかわりに習い事の送り迎えをしてもらったりしていて、わたしの大好きな人だ。
「また数段と綺麗になったね!すっかりお姉さんだ」
「わたしの娘だもの、当然でしょ?」
お母さんはふふふ、と微笑みながら続けて車を出してくれるよう立花さんに言っていた。
そして肝心の旅行の行き先は、優しい立花さんに聞いても教えてはもらえなかった。
お母さんとグルになっているみたいで「それは秘密だ」と言って、それきり黙ってしまった。
「ヒントはね……わたしの好きな場所よ」
本当に嬉しそうに笑いながらそう言うお母さんは、鞄の中身をごそごそと漁りだした。
何か探していたみたいで、少しするとようやく見つかったらしいその何かをわたしの目の前に差し出した。
「チケット?」
「ええそうよ、コンサートのチケット!」
いったい何の演奏会だろうとそのチケットを詳しく見ようとしたらすっと隠されてしまった。
どうやらそれはまだ秘密みたいで、コンサート会場の場所だけ教えてくれた。
そのコンサート会場はすごく有名で、よく海外から著名な指揮者や交響楽団が演奏会をしているところだ。
二泊三日の旅行と言っていたのになぜ初っ端からコンサートなのかと聞くと、このコンサートもお母さんの旅行プランに含まれているらしい。
なんだか変なプランだとは思ったけれど、お母さんと一緒にいられるならどこでもいいやと思った。
「このコンサートが終わったら、お待ちかねの温泉だから安心してね?」
「温泉?すごく楽しみ!」
温泉はもちろん、まだ誰のどんな内容なのかもわからないコンサートも、わたしにとってはすごく楽しみだった。