25 抱きしめて、泣いて〈1〉

 


「本当にごめんなさい……残念だわ」

 都心にある小さいながらも高級感あふれる外観のお店の前で降ろされると、お母さんはそう言った。
 完全予約制で知られているこのお店は、いわゆるセレブご用達なんて言われている人気の洋食屋さんで、お母さんお気に入りの行きつけのお店でもある。
 そこでお母さんとウィリアムと3人で食事をするはずだったのに、店の前で降ろされたのはわたしとウィリアムの2人だけだった。

「会社から?」
「そう…コンサート前にも電話があったでしょ?実はお得意様で、わたしが日本にいるって聞いたらしくて、それなら一緒に食事でもって……」

 そのお得意様とはお祖父さんが社長をしていたときからのお付き合いで、わたしがまだ小さかった時に誕生日のプレゼントをもらったことがあるくらい仲よくさせてもらっている人だった。
 そんな大切なお客様なら一緒に食事が出来なくなっても仕方ないと思ったから、わたしはお母さんに行ってきて、と言った。

「……本当にごめんね、まなみ」
「全然いいの、お食事だけなんだし、ね?」

 本当はお母さんと一緒に食事がしたかったけど、温泉旅行がなくなるわけじゃないし、お母さんがいつも一生懸命に仕事をこなしているのは知っているから。
 そうしてもう時間も無いんだからとお母さんが乗る車を急いで見送ると、わたしとウィリアムは早々と店のなかに入ることにした。

「誘っておいてごめんね、お母さん仕事に一生懸命だから……」
「知ってるよ、だから謝らないで」

 そしてウィリアムは、悩み事相談するにはお母さんがいないほうが逆によかったじゃない?と優しくフォローしてくれた。
 確かにこの悩みはお母さんにはあまり聞かれたくない話かもしれない。

「森下様ですね、お待ちしておりました」

 そしてお店に入ると、給仕の男性が見るからにまだ子供であろうわたし達2人だけということに驚きもせずにスムーズにテーブルに案内してくれる。
 それはきっとお母さんがよく通っているお店だからなのだろうなと思う。

「君のお母様は凄いね、こんな高そうなお店の常連さんなんだ」
「そんな、思ってるよりもリーズナブルなんだよ?」

 わたしも日本にいるときはよく家族でこのお店に来ていたから、このお店のことはよく知っていた。

「ここのリゾット、好きなの」

 このお店に来たとき、決まってわたしが注文するのはいつも同じ料理。

「………まなみは本当に社長令嬢なんだね…セレブって感じ?」
「えっと……、どういうこと?」
「まなみって結構なお金持ちだけど嫌に気取ってたりしないから、普段一緒にいるだけじゃわからないんだよ。それで今実感してる、本当にセレブなんだって」

 確かに国内外にいくつか別荘があったり、一人暮らしをする前に家族で住んでいた家はとても広かったし、小さい頃は幼いながらも自分は裕福な家に生まれたんだなと思っていた。
 けれどそれをあんまり気にしたことはなくて。

「わたしって……変かな?」
「いや、僕はそこがまなみのいいところだと思うけど」




 料理が運ばれてくるまでの間、わたし達は出会った頃の昔話や最近あったことの話で盛り上がっていた。

「いつまで日本にいるの?」
「んー……、あと3ヶ月くらいかな。そしたらまたロンドンに帰るよ」
「3ヶ月も?それならいっぱい遊べるね」

 ウィリアムは元々イギリスに住んでいて、年に数回お父さんの実家がある日本に来て、そして何ヶ月か日本で過ごしてまたイギリスに帰る、なんていう生活をしていた。

 わたし達家族は色んな国を転々としていたけれど、一番長く、そして何度も滞在していて、時にふらっと遊びにいくのは家族皆が大好きなイギリスだけだった。
 だから年に数回は必ず家族ぐるみで会っていて、ウィリアムとは本当に仲がいい。

「僕といっぱい遊んでもいいの?」
「……え、ダメかな?」
「恋人はいないの?って、遠回しに聞いたつもりなんだけど」

 ズバリ、とまるでわたしが今から話そうとしていることが分かってるみたいに、にやりとした顔で聞いてくる。

「…………いない、よ」
「そう」

 すると料理が運ばれてきて少しの間お互い無言になると、ふっと息を吐く音が聞こえて、急に何なのかとさっきまで料理に向けられていた視線をウィリアムに向けた。


「それで、まなみをこんなに悩ませてるのはどんな人なの?」

 にやりとした口元はそのままに、瞳は真剣そのものだった。

「…………………」

 わたしは心を落ち着かせて、ゆっくりと口を開いた。

「わたしにとって家族みたいに大切な人」

 少し緊張していて声が小さくなってしまったから、ちゃんと聞こえているのか不安になる。

「……好きって言われたの」
「それで、まなみはどうしたの、好きなんでしょ?」
「うん、でも……すぐに好きって言えなかった」
「どうして?」

 それが何故だかわからなくて、わたしは悩んでいたのだ。

「両想いじゃないか、違うの?」
「つい最近好きだって気がついたの……だからわたし、まだその人のことを全然知らない」

 例えば歌帆のことだとか、そういうこと。

「……その人の元恋人、わたしも知ってるすごく素敵な人なの……わたしなんかより、ずっとずっと素敵な人」
「うん、」
「だからどうして、わたしなんかを好きになってくれたのか、わからないの」

 悩んでいたのはそこだったのだと、いま冷静に考えるとわかる。
 どんなときでも桃矢君はわたしを助けてくれて、優しくて、あったかく見守ってくれていた。
 だから家族みたいに信頼出来て、桃矢君の前ではつい泣き虫になってしまって、そして気がついたら本当に心の底から大好きな人になっていた。

「その人にたくさん助けてもらって元気をもらったのに……わたしは彼に何もしてあげられてない」

 強い霊感みたいな力がある人に出会ったのも、歌帆と桃矢君だけだ。

「わたしばっかり助けてもらっておいて、申し訳がないって、思うの」

 一気に話して、どっと疲労感に襲われてしまったわたしはそれきり黙り込んでしまって、話し中は相槌をうってくれていたウィリアムも同じように黙り込んでしまった。

 ゆっくりと食べはじめたリゾットはいつもみたいに美味しいとは思えなくて、ため息がひとつふたつと増えるだけだった。