31 そんなのわからない〈2〉
昨日湯冷めしないように早く寝たおかげで、今日の朝はとっても寝起きがよかった。
だからすぐパジャマからワンピースに着がえて、髪もしっかりといで、リビングに向かった。
するとキッチンには伯父さんの奥さんの涼子さんがいて、朝食の準備をしているみたいで。
「あら、おはようまなみちゃん」
「おはようございます。あ、お手伝いしてもいいですか?」
「本当?じゃあお願いしちゃおうかしら」
早いのね、と涼子さんはたまごを焼きながら聞く。
「いつもこんな時間に?」
「お弁当つくらないといけないから…あ、毎日じゃないですけど」
「そっか、ひとり暮らしだもんね」
それから2人で会話が盛り上がってしまって、たまごをちょっと焼き過ぎてしまったことは伯父さんには内緒だ。
昨日散歩した道を進んで、あの橋もこえて、教えてもらった別荘のところまでやってきた。
でもタイミングが悪かったのか、別荘のなかに人の気配を感じなかったのでまわりをキョロキョロとみまわしてみる。
思った通り誰もいなさそうだったので、わたしは裏へまわってみることにした。
するとそこには椅子に腰掛けた藤隆さんがいて、手もとの本をみるとどうやら読書をしていたらしい。
わたしの足音に気がついた藤隆さんは目が合うとこっちに向かって優しく微笑みかけてくれた。
「こんにちは、まなみさん」
「こんにちは」
桃矢君達から話は聞いてますよ、と藤隆さんは読みかけの本にしおりをはさみながら立ち上がった。
わたしが伯父さんの別荘にいることは知っていたらしい。
なら、天宮さんの別荘が近くにあることは知っているのだろうかとそれとなく聞いてみると、それも知っていたみたいで。
「わたしのお祖父様と天宮さんが知り合いで、小さい頃によく園美さんに遊んでもらっていたんです」
そうでしたか、と藤隆さんは一瞬驚いた顔をした。
「じゃあ、撫子さんともお知り合いでしたか?」
「いえ、写真でみたことしか……園美さんに見せてもらって」
そうやって藤隆さんと少し話していたら背後に人の気配を感じて、いったい誰だろうと思っていたら何となくそれが月城君のような気がして。
わたしの後ろから近づく誰かに気づいた藤隆さんさんは、いつもの優しい笑顔で手を振っている。
「まなみさんがいらしてますよ」
ちょっと声を張り上げた藤隆さんは、気をつかってくれたのか、さっき座っていた椅子にまた腰掛けて読みかけの本をひらいた。
「来てくれたんだね、待ってたんだよ」
「昨日はバタバタしてて……ごめんなさい」
振り向けばそれはやっぱり月城君で、藤隆さんと同じようにいつもの優しい笑顔でわたしに声をかけてくれた。
「さくらちゃんもまなみに会いたいって」
どうやらそんなさくらちゃんは今、昨日知りあった人のところに遊びに行っているらしい。
じゃあ桃矢君はどこにいるの、と聞こうとしたら月城君がそれを阻んだ。
「とーやは向こう、だから行ってあげて?」
わたしが口をひらく前に月城君は自分が歩いてきた方向を指さしてそう言うと、それ以上は何も言わずにそのまま別荘のなかへ入っていってしまった。
わたしは何故だかすごく緊張していた。
いまから桃矢君に会うんだと思うと、すごく嬉しい反面意味もわからずどうしようなんて思ったりして、心臓がばくばくと音をたてていた。
そしてわたしはその心を落ち着けようと大きく息をはいてから、月城君が指さした小道を道なりに歩いていった。
道なりに少し歩いていってすぐ桃矢君は見つかった。
木陰で眠っているらしい桃矢君は、わたしが目の前にしゃがんでいるというのに目を覚まさない。
いつもの桃矢君なら気づくはずなのに、たぶん寝たふりをしているか、目を開けるのがめんどくさいのか、それともよほど疲れているのか。
けれど起きていることは確かだ。
「桃矢君?」
そう呼びかければ彼はゆっくりと、本当にゆっくりと目を開けた。
寝起きみたいに不機嫌そうな顔をして自らの髪をなおすようにくしゃくしゃと撫でる。
「寝癖なんてついてないよ」
「うるせー」
不機嫌そうな顔だけれど、話してみるとどうやらいつも通りの桃矢君で安心した。
そんな顔をした桃矢君が面白くって、堪えきれずにくすくすと笑っていたら「笑ってんじゃねぇよ」とおでこをつつかれてしまった。
けれど、決して痛くはしないのが桃矢君らしい。
すると桃矢君は腰をずらして木陰に座りなおすと、さっきまでの空気を断ち切るようにわたしの瞳をまっすぐと見つめる。
「悪い」
「?」
「何もしてやれなくて」
そう言われてあの噂のことだとすぐわかったけれど、何て返そうか、少し悩んでしまった。
そしてそのせいでうまれた沈黙と桃矢君の視線は、わたしの胸を苦しくさせるのにはじゅうぶん過ぎた。
「わたしは大丈夫だよ、だからそんなに難しい顔しないで?」
「………お前はいいのか?勘違いされたままで」
だって仕方がないのだ、何を言っても噂が消えないんだからと自分に言い聞かせている。
本当は少し嫌だけど、相手が月城君でよかったと思っているし、桃矢君を好きな気持ちにかわりはないから、周りから何を言われても我慢出来る。
「おれは嫌だ」
あまりにもまっすぐな視線に少し戸惑っていると、ぐいっと腕をひっぱられて、気がつけばわたしは座ったままの桃矢君の腕のなかにいた。
桃矢君の生温い息が自分の髪に触れているのが、その熱でわかる。
「相手がゆきでよかったって思ってた」
「……?」
「でも今は……それがすごく嫌だ」
ぐっとわたしを抱きしめていた腕がさらに強くしまると、桃矢君の大きな手がわたしの頭をすべるように撫でた。
桃矢君に頭を撫でられているのが嬉しくて、でもこの格好でいるのは少し恥ずかしくて、とりあえず自分の心臓を落ち着かせようとゆっくり呼吸を繰り返していた。
けれど息をすう度にまわりの葉っぱの緑の匂いといっしょに桃矢君の匂いがして、またわたしを混乱させる。
「桃矢君、あの」
「ちょっとでいい……黙っててくれねぇか」
嫌だとはとてもじゃないけど言えないし、でもやっぱりこの格好は恥ずかしいしで何が何だかわからなくなる。
そしてその後数分間、桃矢君はわたしを抱きしめたまま解放するまで一言もしゃべらなかった。
数十分座ったまま強く抱きしめられていたせいか、立ち上がったときの立ちくらみが酷くてふらふらしてしまった。
悪い、とワンピースの肩のあたりをつままれて、何かと思えばそのつままれた肩のあたりにちょっとシワがついている。
それはさっき変な格好で抱きしめられていた為についてしまったらしい、このワンピースの柔らかい生地にはくっきりとそれがのこってしまっていた。
「……このくらい気にしないで?」
気にしないでと言っても桃矢君はその手をはなさずに、もう片方の手でそのシワをのばしていて、相変わらず不機嫌な、いやバツの悪そうな顔をしていた。
「送るから、勝手に帰るなよ」
ちょっとのばしただけじゃ諦めきれないのか、桃矢君はじっとシワを見つめながら手を動かし続けている。
わたしとしては近すぎる桃矢君の姿に恥ずかしさがこみ上げてくるので、早く諦めて欲しかったのだけれど。
そしてようやく諦めたかと思うと、桃矢君はむすっとした顔をしたままわたしの隣を歩きはじめた。
最初はいつかみたいに手を繋いだりしてくれないかな、なんて期待をしていたけれど、生憎そんな甘い空気ではなくて。
何も話さないで数十分、長かったような短かったような道のりはあまり気分のいいものではなかった。
けれどわたしがドアのなかに入るまで見届けてから後ろを向く桃矢君は、やっぱりすごく優しい。
ばれないようにまた外に出て、桃矢君の後姿を静かに見送る少しの時間はとても楽しかった。
あ、そういえばさくらちゃんによろしく伝えてと言い忘れた、と思ったときにそれを伝えたかった人の姿はもう見えなくなってしまった後で。
まだ昼間だというのにどっと疲れた気がするのは、わたしにとってそれほどその時間が濃かったからだろう。
火照る頬を両手で押さえても、この熱はすぐに冷めそうにない。
そしてぼーっとしたまま貸してもらっている自分の部屋に戻ると、そのままの格好でベッドに倒れこんだ。
そんなのわからない
(どうしてもやもやするの)
(ワンピースのまま横になって気づいたこと)
(ちらりと見えたそのシワで桃矢君を思い出してしまうこと)