42 きっかけはワンピース〈1〉




「……良かった」
「?」
「もう、会えないんじゃないかって思ってた」

 先日の音楽コンクール入賞者のコンサートが明日に迫っているというのに、昨日の晩珍しくウィリアムから電話があった。
 留守番電話にのこされたメッセージには待ち合わせの時間と場所が。
 一応ウィリアムに直接確認しようと電話をかけたけれど、それは繋がらなかった。

 待ち合わせ場所はコンサート会場に近い喫茶店。
 約束の時間の少し前に店内に入れば、既に席で待っていたウィリアムと目が合った。

「急に呼びだしてごめんね。冷えたでしょ、ココアにする?」
「うん、ウィルは?」
「僕もココア」

 注文をしてふっと一息つくと、ウィリアムはいままでに見たことのある笑顔なかでも本当に嬉しそうな笑顔をみせた。

「……良かった」
「?」
「もう、会えないんじゃないかって思ってた」

 安心したような表情で、まるで数日前までわたしが決心していたことを全て見透かしているみたいだった。
 いや、みたいじゃない、気づいていたんだ。
 わたしがウィリアムから遠ざかろうとしていたことに。

「………隠しててごめんなさい」
「謝るのは僕のほう…気づいてないフリしてたんだから」
「でも、」
「あー…やめよう!謝りだしたらキリがなくなる」

 ウィリアムがお互いに内緒にしてたんだからおあいこ、と微笑むとつられてわたしも笑ってしまった。

「もう会えないって思ってたから、さっき窓の外にまなみが見えた瞬間本当に嬉しかったんだ」
「……まさか、それを確かめる為にわたしを呼んだの?」
「うん。だから留守番電話に、まなみからの電話にもでなかった」
「どうして」
「君の声でもう会えないって聞きたくなかったから、かな」

 それにまなみは優しいから、上手に嘘つくだろう?普段は嘘つけないし下手なのに、こういうときだけ僕には気づかせない。ま、今回は気づいちゃったけど。
 そんなウィルの言葉に心があたたかくなって、でもウィルの考えに気づけなかったのが本当に申し訳なく思った。

「桃矢君に言われたの、大切な親友に会わないなんてダメだって」

 そしてわたしの一言にウィリアムは少しだけ驚いたように目を見開いて、それから表情を和らげた。

「優しいね、桃矢は」

 肯定の為に頷けば、ウィリアムはまたさらに優しい微笑みをわたしに向けてくれた。

「でも僕とばっかり会ってたらダメだよ?オトコは皆ヤキモチやきだから」
「もちろん気をつけます!」

「……さ、ココアだけ飲んだらリハーサルに戻ろうかな、」
「うん。あっ、ココアの香りがしてきたわ」

 店員さんに運ばれてきたいれたてのココアのいい香りにほっとしつつ、わたしたち二人は少しの時間を充分に楽しんだ。






「どこかお出かけされていたんですか?」
「うん、ちょっとね」

 今回の入賞者コンサートではソロとは別に、ピアノの僕が声楽の大道寺知世ちゃんと共演することになっていた。
 朝からその二人だけでのリハーサルがあって、休憩をはさんで今からコンサート全体を通してのリハーサルがある。

 まなみと別れて帰ってきてすぐ、お弁当を食べていたらしい知世ちゃんに出くわした。
 午前中に二人での練習を終えてそそくさと立ち去った後、外に出て行った僕の姿を偶々目撃していたらしい。

「どなたかとお会いに?」
「え、?」
「帰っていらしてからとても嬉しそうにされてましたから、てっきり、」
「…………凄い、エスパーだね、知世ちゃん」

 彼女はおほほ、と口元に手をあてて上品に笑うと、とても小学生とは思えない大人びた瞳をみせた。
 いくら「こういう」ことに鋭い女性、とはいえ小学生の女の子に何かあったと気づかれてしまうくらい僕はわかりやすかったらしい。
 浮ついていたことは認めて少しだけ反省しよう、と思いながら僕はリハーサルの為の準備をはじめた。






「まなみ」
「?」

 あれから桃矢君は少しだけ変わった。
 まわりに人がいないふたりきりのときだけ、すこし、ほんの少しだけわたしに触れるようになった。
 それは本当にふたりきりになった時だけだけれど、ふと目が合えば手をすっととられているし、数秒見つめあえば頬やくちびるに贈られるキス。

「…………」
「桃矢君?」
「……ほんと照れねえのな、お前」

 これは最近よく桃矢君が口にする、わたしがキスに照れないのを面白くないと伝える恒例のひと言。

「照れてるよ!恥ずかしいし…っほら、赤くならないだけで、」
「別に気にしてない」
「じゃあする度に言わなくても、」
「慣れてんだなあ、っておれが勝手に思うだけだから」
「桃矢君……」

 言い合い、とまではいかないけれどこのやり取りとする度に、さくらちゃんにはいつもこうだったなあ、と思う。
 桃矢君の場合は照れ隠しのためにいじわるしていると言ってもいい。
 けれど恥ずかしながらもきちんと恋人らしいことをしようとしてくれているのが嬉しくて、わたしは離れていた桃矢君の手を自らとりにいった。
 すると何だ、と少しびっくりしたみたいな声をだす桃矢君。

「ありがとう」
「?」
「桃矢君は優しいね」

 ふふ、と笑えば何だか馬鹿にされてるみたいで嫌だと膨れる桃矢君に、でも無理矢理手を離したりはしないじゃないかと言えば今度はそっぽを向かれてしまった。
 そして壁に掛けられた時計をみて、続けて自分の腕時計をみてから桃矢君は口を開いた。

「そろそろ行くぞ、いい時間だ」
「わ、ほんとだ」

 わたしも同じように時計の針を確認すれば、出かける予定の時間をちょうど5分過ぎていて、用意済みのカバンを慌ててつかんだ。

「………このままでいいか?」

 ふ、とひと息ついて、繋いだ手を目線の高さまですっと持ち上げて、やわらかい笑みをみせてくれる桃矢君は、やっぱり優しい。
 もちろん、そう一言返すかわりにわたしはその手をきゅっと心を込めて握り返した。








 今日は久しぶりにバイトが休みだった桃矢君が家まで迎えにきてくれて、そこから映画を観に行こうと電車で都心まできていた。
 今は無事映画もみ終わってちょこっとだけ街をウインドウショッピング中だった。

「あ、」
「?」

 あるお店のショーウィンドウに飾られたお洋服が可愛くって、思わず出てしまった声を不思議に思ったのか、わたしの視線を追う桃矢君。
 とくに相談するもなく、入るか、と手を引かれ導かれるようにしてわたしはそのお店に入った。

 店内にはメンズから子供服まであるとても広い洋服屋さんで、お客さんも多かった。
 店頭に飾られていたものと同じように、わたしの好みに合いそうな服が沢山ある。
 当たりだ!と思わず嬉しくなってしまう。

「これ、似合いそう」
「子供服だぞ?誰に」
「さくらちゃんに」

 ピンク色の裾がふわりとしたワンピースが目にとまって、さくらちゃんに似合いそうだと思わずそれを手に取った。

「プレゼントしちゃダメかな?……あ、でも女の子だし、自分で気に入ったもののほうがいいよね…」
「あいつは喜ぶと思うけど」
「本当?……じゃあ、プレゼントしても大丈夫かな」

 自分の服選びたかったんじゃねえのか?と言われたけれど、思わず目にとまったのだから仕方ないじゃないかと返せば笑われてしまった。

「ま、ゆっくりみてこうぜ。おれも新しいジャケット欲しかったし」
「…!気づかなくてごめんなさい!この隣メンズみたいだし好きなの選びに」
「何で謝るんだ?」
「だってジャケット探しに行きたいんじゃ、」

 やってしまった、と思った。
 本当は桃矢君も色々みたかったのに、わたしの服選びに付き合ってくれていたんだと思ったら突然申し訳なくなって、早口でそうまくしたててしまった。

「……おれのも見てくれるもんだと思ったけど違ったか?」

 ひとりで上着を見にいきたいんだと思っていたわたしはその言葉にびっくりしてしまった。
 だって桃矢君は何でも自分で選んで決めたいような人だと思っていたから。
 月城君にでさえ、自分の服をこれどう?なんて、しているのが想像がつかない。わたしの勝手なイメージなのだけれど。

「お洋服選ぶのにわたしは邪魔かなって思っただけで」
「……いっしょにいて邪魔な奴なんかと、おれは休みの日に映画行ったり出来る人間じゃねえよ……わかるか?」
「……ごめんなさい、わたし」
「こういうときは謝るんじゃなくて笑えって言ったろ」

 ほらはにかめ、とわたしの頬をつかむ桃矢君は本当に楽しそうで、優しくて、それに前より意地悪を言うようになって、よく喋ってくれるようになった。
 いや、よく喋ってくれるのは違うかもしれない、無口なのは相変わらず、はっきりと意志を伝えてくれるようになったのかもしれない。

 けれどそれはわたしも同じだと思う。

「うん。いっしょにみよう、桃矢君」
「ああ」

 前ならこのひと言でお互い終わりだった。別にダメじゃない、けど、今は違う。

「桃矢君は格好良いから、何でも似合うよ」

 言われた通りの笑顔でそう言えば、照れたように笑って返してくれる桃矢君のこの表情は、ちょっと前までは見せてくれることのなかった、知らなかった表情だ。

「なんて言ったってお母さんはモデルだったし、」
「おれは父さん似だ」
「でも藤隆さんだって凄く素敵な方じゃない」

 こんな風にお互い沢山しゃべっているのが嘘みたいで、でもすごく楽しくて。
 今までは何も話さなくても、側にいるのがただ心地よかったから、またこれは違う感情だ。

 まだまだお互いの知らない事が沢山あるから、これからそれを沢山知っていこうとわたしと桃矢君で話したのはつい最近のこと。
 それがきちんと実行出来ているな、と思って嬉しくなった。

 そんな時だった。

「すみません、少しだけお時間頂けませんか?」