孤独を知らない誰かの瞳を知らない

 なんとなく気になったから「黒毛和牛と普通の牛の味ってどう違うんだろうね」と鶴蝶と話していただけなのにその日のうちに黒毛和牛のステーキを食べさせられた時に、金持ちって怖いと思った。あと、最初は遠慮してたのに好きなだけ食えと言われて本当に好きなだけ食べる鶴蝶の肝の座り方も怖くなった。普通に考えて、黒毛和牛のステーキをなんのメリットもないのに満腹になるまで食べさせてくれる人なんていない。「食ったな? じゃあ今日からオレの奴隷になれ」とか言われるのかと思って半泣きになりながら黒毛和牛のステーキは味がしなかった。

 一緒に食べに行った竜胆は「兄貴の考えてることなんて普通の人間には分かんないから何も考えずに食うべき」と言っていたけど、何を考えているか分からないから怖いのだ。特にこの灰谷蘭とかいう男は私のことを「音の鳴る面白いおもちゃ」だと思ってることを隠そうともしないから怖い。


 今日も今日とて「はいコレおやつ」と渡された一粒いくらするのか知りたくもないようなチョコレートを絶望的な気分で食べ進めながら、なるべく気配を消すようにソファーの片隅で膝を抱える。恐ろしいのは平気で人を傷付けて他人の人生をぶち壊す計画を練る周囲の男たちではなく、その話の中心に近いところに居ながらも時折「それ、気に入らなかった?」と私に聞いてくる灰谷蘭だ。怖い。この人怖すぎる。
 ここで今日のおやつに文句をつけたら次に会う時には私は五体満足ではいられないかもしれない。イザナくんならばこの男にそんなことをさせないであろうという信頼はあるが、正しく「それはそれ、これはこれ」なのだ。灰谷蘭ならやりかねないと思うと、自分がそれをされる可能性が低いと分かっていても怖くなる。


 端正な顔立ちを惜しげも無く晒しながら微笑みかけてくる灰谷蘭に曖昧に笑って返し、抱え込んだ膝の上に乗せた箱から適当にチョコレートを摘んで口に入れる。控えめな甘さととろけるような口当たり。高級品に慣れていない私でも分かるほどの高級品かつ絶品だが、灰谷蘭の視線を感じながらでは味が上手く分からない。

 いつもいつも、本当に会う度にいつも灰谷蘭は私に高級なお菓子を渡してくる。そして私がイザナくんに連れられて横浜天竺というチームの幹部陣の集まりに頻繁に顔を出すようになってからというものの、お菓子を渡される頻度は上がり続けている。そりゃまあそうだ。最近になって週に二回か三回は顔を合わせるようになったんだから、必然的にお菓子を渡される頻度も上がる。

 灰谷蘭が考えてるいることが分からない。本人の弟である竜胆も「何を考えてるかなんて知ろうとするだけ無駄」と以前言っていたが、それにしても分からない。私に高級なお菓子を渡して何になるのか。私の舌が肥えるぐらいしかメリットがないし、それは灰谷蘭にとってはメリットとは言えないだろうし、そもそも灰谷蘭にいつ感想を要求されるのかとヒヤヒヤして全然味が分からないから舌が肥えるもクソもない。


 出来れば灰谷蘭の居ないところで食べたい。この場で言えるはずもないがそんなことを考えていれば、横から伸びてきた手にさり気なく服の裾を引かれた。私を見ている灰谷蘭はともかく、他の誰にも気取られないようにこっそり隣に視線を向ける。私の隣に座っているイザナくんはこの場の中心も中心。周りにいるのは一部の例外を除いて気心の知れた人たちがほとんどとはいえ、私なんかに甘えているのを見られたら士気が低下してしまう可能性もあるし、例外の奴らにイヤミを言われかねない。ここはイザナくんの未来のお嫁さんとして、慎重にならなくては。

 話に飽きたのか集中力が切れたのか、見つめた先にいるイザナくんは眼前で繰り広げられる話し合いに参加することもせずに露骨につまらなさそうな顔をしている。そんな表情を至近距離で浴びてしまった私はどんな顔をしていても美しい人だと打ち震える心をなんとか隠し、膝の上に乗せた箱からひとつチョコレートを摘んでイザナくんの口元まで運んだ。疲れた時には甘いものというし、イザナくんにあげるなら灰谷蘭も許してくれるだろう。そうは思いつつ怖いのでチラッと視線を灰谷蘭に移せば、それはもうご機嫌ににっこり笑っていた。怖っ。

 案外美味しかったのかもう一度口を開けたイザナくんにチョコレートを食べさせてあげながら、さっき見た悪魔の微笑みを忘れるためにも目の前の美しい人に集中する。雛に餌付けする親鳥ってこんな気持ちなのかもしれない。まあ普段から私はイザナくんに食育という名の餌付けをしているわけだが。


 しばらくそうして何も言わずにイザナくんにチョコレートを食べさせていれば、後ろから肩に手を置かれた。仰け反るようにして上を向き、少し困った顔をしている鶴蝶を見て「あっ」と声が出る。慌てて、すっかり私の方に体を向けているイザナくんの背中を押して無理矢理正面を向かせ、ついでに私も出来る限りイザナくんから距離を置くようにしてソファーの端に寄ったがもう遅い。気付けば空調の動く音と灰谷蘭の押し殺した笑い声しか聞こえなくなっていた。
 間違いなく失敗した。私の手から素直にチョコレートを食べてくれるイザナくんがあまりに可愛いからついつい周りが見えなくなって、結果として話し合いを中断させてしまったようだ。四方八方から感じる視線を無視して俯き、咳払いをしながらおやつタイムを強制再開させる。今更遅いと言うなかれ、私は何にもしてないアピールだ。

 何がそんなに面白いのか楽しそうに笑っている灰谷蘭の声だけが響く部屋で、私は必死に祈る。誰かさっさと話を再開させて。あとイザナくんも私の手元から勝手にチョコレートを奪っていくのは一旦止めて、話し合いに戻って。チョコレートならあとでいくらでもあげるから。


 そんな必死の祈りが良くない形で通じてしまったのか、深々としたため息が聞こえた。俯いた視界の中でチョコレートに伸ばされていたイザナくんの指がぴしりと固まり、ついでに両手で箱を押さえていた私の手も固まる。灰谷蘭の笑い声も止まった。

「建設的な話し合いが出来ないなら帰らせてもらうが」

 こちらを見下す色を欠片も隠そうとしない声で放たれた不遜な言葉に口端が引き攣る。顔を上げてその声の主の方に顔を向けながら、なら帰れよと言ってやりたくなる衝動を必死で抑え込んだ。本来なら私はこの場にいる権利すらない、イザナくんのオマケみたいな存在。ここでそのオマケが声を上げて失礼な言動をすれば、それは私をこうして横に置いてくれているイザナくんの顔に泥を塗ることになる。だから言い返したりしちゃいけない。

 引き攣る口端を無理矢理釣り上げて笑顔を作り、「冷静に」と心の中で自分に言い聞かせた。冷静になれ。イザナくんの未来のお嫁さんになりたいなら、ここで言い返してはいけない。イザナくんのヒロインレースを独走するものとしての矜持を捨ててはいけない。


 それに私はこの失礼極まりない性悪クソ眼鏡よりも年上だ。コイツはまだ中二のガキ。エマや鶴蝶や千冬やたけみっちと同い年。万次郎よりも年下。私の方がお姉さん。しかも十年近く空手をやってただけの私にすら勝てないぐらいに喧嘩は弱い。いざとなればぶん殴って上下関係というものを叩き込んでやればいいだけだ。だから落ち着け、私。

「その程度の女にかまけている暇はないと何度も言っているはずだが、本当に分かっているのか」
「かまける女もいないやつがなんか言ってるよ、ウケる」

 やっぱり無理。落ち着けなかった。

 私が言い切るよりも早く背後に立っていた鶴蝶に肩を押さえられたが、それは無視して膝の上に乗せていたチョコレートの入った箱を目の前のローテーブルに置く。そのまま足を組んで再び性悪クソ眼鏡の方を向き、鼻で笑ってやった。

「自分の思う通りに事が運ばないとイライラしちゃうんなら、最初っから自分に都合のいい連中と積み木遊びでもしてればいいんじゃないの。今もアンタの後ろにいる図体だけデカい木偶の坊みたいなの集めてきなよ」

 その程度の奴ならどこにでもいるでしょと笑いながら言ってやれば、性悪クソ眼鏡は眼鏡のブリッジを押さえてカチャカチャ言わせている。怒ってる怒ってる。何回馬鹿にしてもその度に分かりやすく怒ってくれるので煽りやすくてたまらない。この下りも何度目か、イザナくんのお仲間たちもすっかり慣れた様子で水分補給をしたり軽食を取ったりし始めている。


 そう。何となくここまでの様子から分かるかもしれないけど、私がこの性悪クソ眼鏡を煽り倒して怒らせるのは、何も今日が初めてのことではないのだ。顔を合わせる度に私は私を抑えきれずに性悪クソ眼鏡を煽り、そして煽られて青筋を立てる性悪クソ眼鏡を馬鹿にし、良い感じのところで鶴蝶に止められるまで煽り続けることをやめない。鶴蝶も鶴蝶でこの性悪クソ眼鏡をよく思っていないので、肩を押さえたり名前を呼んだりして止める素振りは見せつつも本気で止めて来るのは私が散々煽り倒して怒らせたあとだ。

 灰谷蘭が面白そうに笑っている声を聞きながら、もう一度性悪クソ眼鏡を鼻で笑って目を細めた。どんな人だって自分の計画に組み込んでしまえると思っているところが大っ嫌い。イザナくんと自分が対等だと思っているどころか、イザナくんを自分の目的のために利用しているところも煩わしくてたまらない。そしてその目的も気に食わない。コイツの全部が私を苛立たせる。
 だけど煽り倒すならばまだしも、コイツに向ける怒りの理由を知られるのは私にはプラスにならないだろう。なんだって利用しようとするクズにこの怒りや私のしたいことまで利用されたらたまったものでは無い。

「こっちを見下しておいて建設的な話し合いを求めるとか、笑わせないでよ」
「見下してるつもりはない。見下されていると感じる方に問題があるんじゃないか」
「馬鹿にしてる? それとも真性の馬鹿なのかな。どんなに取り繕ったって意味ないって分かりなよ。アンタは私たちを見下してるでしょ」
「……そんなにオレに不満があるならここで手を引いてもいい。だがそうすれば黒川イザナの『やりたいこと』は叶わないだろうな。それでいいのか?」
「…………アンタの『やりたいこと』が叶わなくなるの間違いじゃなくて?」

 溢れ出そうになった罵詈雑言を飲み込んで、小さく息を吸う。本当にムカつく男だ。真一郎とは別のベクトルで嫌な奴。奴には打算抜きの優しさがあったけど、コイツにはそんなもの存在していない。やっぱり嫌い。

 そもそも、不躾にイザナくんのやりたいことに触れるような礼儀のなさが何より許せない。なんにも知らないくせに、自分の都合のいいようにイザナくんを使おうとしている。イザナくんの苦しみを知ろうともしないで、自分の目的のためにイザナくんを今この瞬間も利用している。


 嫌いだ。大嫌い。こんな奴そはに置かないでと恥も外聞もかなぐり捨てて懇願したくなるぐらいに、コイツのことが嫌いだ。

 顔合わせをさせられた数週間前はまだ良かった。何ヶ月か前に駅前で会った子じゃんと思っただけで、値踏みするような目を向けられても「ちょっと苦手かもなあ」としか思わなかった。それがイザナくんに連れられてこの部屋で集まるようになるとこのクソ眼鏡はイザナくんを利用するような言動を繰り返していることが分かってしまって、初めて煽り倒して馬鹿にしまくってやったその日からそれから嫌いな奴ランキングは更新され続けている。


 ただ、私だって一応弁えてはいるつもりだ。私は所詮イザナくんに連れてこられた未来のお嫁さん筆頭候補なだけで、このチームの肝心な所には踏み込んではいけない。イザナくんに聞かれれば万次郎や東卍のことは教えるけど、それだって別に私が居なくても灰谷蘭辺りが適当に調べられば済む話でもある。

 ここに私が居られるのは、イザナくんが私のしたいことを「イザナくんがやりたいことをやってるところをそのそばで見ること」だと忘れないでいてくれるからだ。イザナくんは私に自分がやりたいことをやり遂げるところを見せようとしてくれている。

 そんなイザナくんの優しさが嬉しい。私に向き合ってくれることが嬉しい。だから言えないのだ。それって本当にイザナくんのやりたいことなの、あのクソ眼鏡に利用されてるのを自分がやりたいことをやってると勘違いしてるだけなんじゃないの。そんなこと、言えるはずもない。


 そろそろ頃合だと思ったのか窘めるように私の名前を呼んだ鶴蝶に右手をあげて答えて、左手でチョコレートの入った箱を抱えて席を立つ。ここにいても私は性悪クソ眼鏡を口撃し続けてしまうので、建設的な話し合いとやらのために適度なタイミングでこうして別室に移る必要がある。
 今イザナくんがしようとしていることが本当にイザナくんのやりたいことなのかと疑問に思う気持ちは日に日に増していくが、だからといってイザナくんの計画の邪魔をするのも本意ではない。まあ性悪クソ眼鏡に対する罵倒は、性悪クソ眼鏡とその配下の木偶の坊とそれからイザナくんを除いたこの場にいる全員の総意だと確信しているので、毎回遠慮なく言わせてもらうが。

 最後まで煽ってやろうと性悪クソ眼鏡に見せ付けるようにイザナくんにチョコレートを食べさせてあげてから部屋を出る。すれ違う時に灰谷蘭がかなり熱烈な視線を向けてきたが気付かないふりをした。怖い人とは目を合わせないに限る。
 そのまま廊下を歩いて一番最初に目に付いた扉を開け、入り込んだ部屋の床に引かれた臙脂色のラグの上に座り込む。灰谷蘭が用意してくれたものを使うのは若干怖いが、そんなことを言ったら私はこの部屋に来ることすら出来なくなってしまう。横浜某所にあるマンションの高層階を抑えてこうしてイザナくんたちが好きなタイミングで集まれるようにしたのも灰谷蘭だ。ついでにイザナくんの作ったチームに所属しているわけでもない私に「あの部屋好きに使っていいよ」と言ってくれたのも灰谷蘭。この部屋にラグとか机とかを置いてくれたのも灰谷蘭。怖すぎ。


 しばらくラグの上に座り込んだまま無言でチョコレートを食べていれば、イザナくんたちのいる方の部屋の扉が開く音がして、すぐに閉まった。顔を上げて扉の方を見上げれば、少しの足音のあとに見知った人が入ってきて後ろ手に扉を閉めた。そのサラサラの金髪は今更間違えるはずもない。幼馴染みの一人、春千夜だ。

「チョコ食べる?」
「いい」

 私を避けて部屋の奥に突き進み、窓際に置いている椅子に座った春千夜に箱の中の最後の一粒を見せたものの、首を横に振られた。断られるだろうとは思っていたので「そう?」とだけ返して口に入れてしまう。灰谷蘭が居ないところで食べると味がよく分かる。美味しい。

 空になった箱を片付けている間中ずっと春千夜の視線を感じていたが、特に悪いものだとも思えなかったので放置する。こうして会って話す付き合いが復活したのはごく最近のことだが、昔からの仲だ。仲間意識ともなんとも言えないようなものもある。視線程度は今更気にならない。

「あのクソ眼鏡、どうだった? まだイライラしてた?」
「お前が出てった後に灰谷が煽ってたからもっとキレてた。アレも仕込みか?」
「えっ……どっち? どっちの灰谷?」
「兄貴の方の灰谷」
「こっわ! 仕込みなわけないじゃん、あの人が勝手に煽ってんだよ!」

 ほんと怖いんだけどと怯えていれば、春千夜は興味がなさそうに他所を向いた。聞いておいてなんだその態度は。ムーチョくんを経由してイザナくんに私のお守りを命じられて不機嫌になっているのは分かるけど、自分の聞いたことぐらいちゃんと聞け。

 そもそもイザナくんもイザナくんだ。話し合いが終わるまでこの部屋で放って置いてくれてもいいのに、毎度律儀に春千夜を寄越してくる。私だってもう十七歳だから、一人でも部屋で大人しくしていられる。灰谷蘭にもらったおやつを食べ終わっても本でも読んでればいいだけだし、誰かの監視の目がないからって暴れたりしない。

「春千夜も、もっと文句言ってもいいんだよ。ついでにクソ眼鏡にも文句言ってきて」
「なんか食った手であちこち触んのやめろ」
「この流れで私に文句言う?」
「文句言っていいって言ったのはお前だろ」
「言ったけどさあ……」

 言ったけど、私に言う? それにもっとまともな文句あるでしょ。

 ボヤきながら、二日前に万次郎から寄越されたメールに返信をするかどうか考えようかとも思ったけど、なんとなくそれはやめた。春千夜を見つめながらラグに転がれば露骨に舌打ちをされる。こういうだらしない行動が嫌いなのは分かるけど春千夜がこの部屋を出ていく時にはちゃんと起き上がるから許して欲しい。


 今更沈黙が気まずくなるような関係でもないのでそのまま黙りこくって目を閉じる。最近はいつも気張ってるから全然疲れが取れなくて、正直今も眠い。でも眠る度にあの夏の日の夢を見て、目が覚めた時には余計に疲れを感じる。この数週間はずっとその繰り返しだ。

 こうなってしまった理由はなんとなく分かっている。万次郎と最後に話したあの日、私は全部分かっていて万次郎を傷付けた。万次郎を傷付けることを自分の意思で選んだ。選ばれなかった苦しみを抱え続ける私が、選ばれなかった苦しみを人に与えたのだ。これはその罰なのだろう。

 鈍く痛む頭の中、扉を何枚が隔てた先で今この瞬間も万次郎とケリをつけるための話し合いをしているであろうイザナくんの姿を思い浮かべる。その話し合いの中心は考えるまでもなく、イザナくんと性悪クソ眼鏡なのだ。結局、私が何を言ったところでそれは変わらない。
 あの性悪クソ眼鏡──稀咲にずっとイラついているのも、この慢性的な眠気の影響がないとはいえない。今の私は冷静な判断が出来なくなっている。イザナくんしか選べないことは自分自身が一番よくわかっているのに、万次郎を選んであげられなかったことを後悔している。それがどれだけ酷いことなのかをよく分かっているのに、いくら後悔したところでイザナくんを選びたいと思ってしまう心はもう止められないのに、これまでは普通に出来ていたはずのメールの返信すら戸惑うぐらいには後悔が尽きない。


 どんどん暗い方向に落ちていく思考をどうにか抑え込み、目を開いた。私が目を閉じて考え込んでいる間にもじっとこちらを見ていたらしい春千夜と見つめ合う。そうしていると、春千夜は私をどう思っているんだろうかと気になった。真一郎の努力と愛と苦しみを否定して、今も尚真一郎を許せずにいる私を、憎む権利もないのに真一郎を憎み続ける私を、春千夜はどう思っているんだろう。
 しかし、いくら気になってもそんなことを聞けるはずもない。聞く勇気もない。聞く権利が私にあるわけがない。

 見つめ合ったまま、呟く。

「気付いてるんでしょ」
「……なにに」
「私のこれがただのエゴで、イザナくんに理想を押し付けてるだけだってこと」

 眉間に皺を寄せた春千夜を見上げたまま、気付いていないはずがないと思った。あの夏の日に泣き喚きながら真一郎を責め立てた私の姿を知る春千夜が、真一郎の葬儀の日に一歩も前に進むことが出来ずに逃げた私を知る春千夜が、自分が何をしたのか真一郎が私に打ち明けてしまったのだと知っている春千夜が、気付いていないわけがない。

 あれからの日々も、あの日までの日々も思い出せば等しく胸が痛む。涙すら出てこないのに真一郎の前でそうしたみたいに泣き喚いて誰かを責めたくなる。だから目を閉じて、その上から両手で瞼を覆った。もう思い出したくない。


 息を吸って吐く。思い浮かぶあの夏の日を振り切るように、何度もそれを繰り返す。夢の中でしかもう会えないあの酷い男を早く忘れられるように。呪いが解けるように。


 しばらくの沈黙のあと、イザナくんたちがいる部屋の方から何かが割れるような音がした。その後に重い物がひっくり返るような音も響いて、鶴蝶が慌てたようにイザナくんを呼ぶ声も僅かに聞こえる。
 瞼を覆っていた両手を離して、最後に一度だけ深く深呼吸をしてから目を開いた。そのまま起き上がり、その弾みに顔にかかった髪を耳に掛ける。向こうで何があったのか知らないけど、今この瞬間も揉めている声が聞こえるのにここで黙って騒ぎを聞いているわけにもいかない。

 イザナくんに向き合い続けたい。一人で傷付いて欲しくない。イザナくんのそばに居たいと願うことをまだ諦めたくない。出来ることなんて限られていても、イザナくんを抱き締めることが私には出来る。それが出来るのにしなかった人とは、違う。


 のろのろと立ち上がって部屋の扉を開く。それから振り返り、椅子に座ったまま私を見上げる春千夜を見た。どうせ私が部屋から出たら着いてくるのだろうけど、まだ立ち上がるつもりは無いらしい。

 まあそれはどうでもいい。最後にひとつ、気になることがあるだけだ。

「聞いてもいい?」

 春千夜は何も答えない。私たちの中では無言こそが肯定なので、スカートのポケットから携帯を取り出しながら勝手に言葉を続ける。

「春千夜は万次郎のために人を殺せるって、まだ思ってる?」
「思ってるだけじゃねえよ」

 視線を落として携帯を操作する私を見つめたまま平然と春千夜が答えているのが想像できた。目当てのメールを見つけて顔を上げた先で、春千夜は想像通りの顔で私を見ている。

「オレはマイキーのためなら誰だって殺せる」
「……そっか。話は変わるんだけど、二月二十二日の件、聞いた?」

 携帯の画面をそちらに向けながらわざとらしく小首を傾げれば、春千夜はスッと目を細めた。詳細は言わずとも私の伝えたいことが分かったらしい。さすが幼馴染み。伊達に何年間も一緒にいない。

 さっきも春千夜は答えてはくれなかったけど、私のしたいことにもやっぱり気付いているんだなとなんとなく思った。でなきゃ二月二十二日というワードだけでそんな顔はしないだろう。私の問い掛けに何も返さないこともまた答えだ。

「当日協力して欲しいの。私ひとりでも何とか出来るけど、念の為」

 しばらく返事を待ったけど何も言われなかったので協力してくれるらしいと判断し、ひとつお礼を言ってから携帯をポケットに仕舞う。「二月二十二日に真一郎の墓参りに一緒に行きたい」というメールが万次郎から来たことはイザナくんにはまだ話していないし、これからも話す気は無い。春千夜にしか明かさずに当日を迎えるつもりだ。


 二月二十二日に稀咲がしようとしていることを聞いた時には言葉を失った。そこまでするのかと心底軽蔑し、それを受け入れたらしいイザナくんにもほんの少しだけ、苛立った。
 それでも、それはあなたのやりたいことじゃないでしょと詰め寄らないでいられたのは、私がどうにかすればいいかと思ったからだ。もしも本当にそんなことをしてしまったら、イザナくんはその先一生苦しむことになる。イザナくんが本心から望んでその計画を黙認するならまだしも、稀咲に流されてそんなことを見逃してしまうのは、イザナくんの傷を増やすことにしか繋がらない。


 私は私のしたいことをする。例えばこれでイザナくんにすごく怒られて「もういい」と言われてしまうとしても、私はその計画をぶち壊すだろう。だって二年前に決めたのだ。真一郎の出来なかったことも、しなかったことも、全部私が勝手にやる。真一郎がイザナくんからもらえたはずの愛とか苦しみとか悲しみとか怒りとか、その全部を私が横から奪う。

 私がイザナくんの呪いを解く。同じ人に呪われた私にしかそれは出来ない。


「私はイザナくんのためなら死ねる」

 再び扉に手を掛けながら、誰に言うでもなく呟いた。春千夜はやっぱり何も言わない。

 だって私たちは、こんなやり方しか真一郎に教えてもらえなかった。


 扉を開ける。今もまだ騒がしい隣室に早く行って、少しでも長くイザナくんのそばにいてあげたかった。

ふたつおりのひとひら