傷付けなければ生きてはゆけない

 春千夜はどうやら上手くやってくれたらしい。その事に気付いたのは、二月二十二日当日の朝、待ち合わせ場所にしていた母の実家まで行っても万次郎しか出てこなかった時だ。

 当日までまともに連絡を取ることも相談をすることもせず、例のマンションで会う時もくだらない話しかしていなかったので春千夜がどんな方法を取ったのかは分からないが、とにかくエマは遅れてくるらしい。万次郎は「ケンチンに呼ばれたんだって」と言っていたけど、本当にどんな方法を取ったんだろう。ドラケンまで動かしたってこと……?


 疑問は募るばかりだが裏に私と春千夜がいると気付かれても困るので、何も言わずに真一郎の墓参りに向かった。約二ヶ月ぶりに会う上に最後に会った時は最悪な別れ方をしたとはいえ、私たちは従姉弟で友人。互いに近況を報告しあっていればすぐに時間は過ぎたし、さして気まずさを覚えることもなく墓地に辿り着いた。

 道中で買った菊の花を潰さないように気を遣いつつ腕に抱きながら、墓地の前で一度足を止めて息を吐く。この後のことを思っての緊張故か、額に滲んだ汗を拭う指先は冷たい。息が詰まる。命を賭けるのが怖くないはずがないし、後からこのことを知ったイザナくんにどれほど怒られるかと思うと足場さえ曖昧になる。

 私が着いてこないことに気付いたのか先を歩いていた万次郎が振り返ったので、「なんでもない」と笑顔を作った。話せることは何もないし、話していいことも何もない。
 どの道もう事は動き出してしまっているのだ。今更引き返すことはできない。イザナくんたちによって沢山の仲間を傷付けられた万次郎には悪いけど、私がエマを助けることで手打ちにして欲しい。


 数歩先にいる万次郎の方に歩み寄りながら、エマはどのタイミングで合流するつもりなのかと考える。好きな人に呼び出されたとはいえ、今日はエマにとっても大事な日のはずだ。絶対に手を合わせたいとは思っているだろう。早いうちに合流する可能性が高い。出来ればエマと合流する前に終わらせたいんだけど。

「あんま来てないんだっけ」
「年に何回かは来てるよ。でも、そうだな……多分半年ぶりぐらいかな」

 私が足を止めたのをこの場への苦手意識と思ったらしい万次郎からの質問に答えつつ、記憶を遡る。最後に来たのは記憶が正しければお盆のはずだ。それからはずっと逃げるようにこの場を避け続けてきた。いいや、逃げてきた。

 それがこんな形で逃げられなくなるとはと自嘲のため息をついたタイミングで、墓地の中から誰かが叫ぶ声が聞こえてきた。万次郎に向けていた視線を声の方に動かす。人がいる、と思うのと、その人が誰かを認識するのはほとんど同時だった。喉がひゅっと鳴る。気付けば勝手に足が動いて万次郎を押し退けるようにしてその人の方に向かっていた。

「イザナくん!」

 走るまでもない距離を足早に進んで、何を考えるよりも早く名前を呼ぶ。胸ぐらを掴んでいたよく知らない人の手を無理矢理離しながら私を見たイザナくんは、そのどんな宝石よりも美しい瞳を見開いて何度か瞬きをした。走ってもいないのに息が上がって、背筋を冷や汗が伝い落ちていく。菊の花を包む包装紙がガサリと音を立てて、慌てて力を抜いた。そんな私に何を思ったのか、視界の中心にいるイザナくんの表情がらしくもなく強張る。

「なんでここに来た」
「真一郎の……墓参り」

 情けなく震えそうになる言葉を息を吸い直すことで誤魔化して、必死で思考する。どうして、なんでここにと聞きたいのはこっちの方だ。今日の夜に仕掛ける抗争がイザナくんにとってのメインなはず。つい昨日会った時も確かにそう言っていた。だからエマの件は稀咲に一任しているんだと思っていたのに、どうしてこんな早朝にわざわざここまで出てきたのか。

 もしかして計画を止めてくれたのかと少し期待したくもなるが、それはないだろう。イザナくんはもう止まれなくなってしまっている。だからそんなイザナくんを止めるために、一度考え直して自分のやりたいことに向き合ってもらうために、私は命を賭けることにしたのだ。イザナくんのためならそれすら惜しくないと思ったから。イザナくんにこれ以上自分を傷付けて欲しくないと思ったから。


 私の後を追って来た万次郎に名前を呼ばれたがそれに返事をする余裕があるはずもなく、イザナくんの視線が私と万次郎との間で揺れるのを見つめることしかできない。

「エマは来てないのか」
「……来ないよ」

 本当はこの後多分来るけど。空気を読んでくれたのか万次郎も余計なことを言わず、沈黙が場を支配していく。伏せられたイザナくんの瞳の色は上手く読めなくなった。逃げ出してしまいたくなる。

 何かを言わなくてはと思うのだ。でも、何を? いくつもいくつも言いたいことは思い浮かぶけれど、イザナくんが今どんな言葉を必要としているのかが分からない。だって私は、どうしてイザナくんがここにいるかすら分からないじゃないか。

 真冬だと言うのに止まらない汗を拭うことも出来ずにただ浅い呼吸を繰り返していれば、ふとイザナくんが視線をこちらに寄越した。出会ったあの日と変わらず、それどころか年々美しさをまずその人は、ただただ私を見つめている。


 まともに回らない頭でそれでも、どうしてイザナくんは怒らないんだろうと思った。怒ると思っていた。時間を掛けてきた計画をぶち壊した私を怒って、それで切り捨てるんだと思ってた。その覚悟はしていた。

 なのにどうして怒ってくれないの。

「これがお前のしたいこと?」
「……そうだよ」
「オレがやりたいことやってんのをそばで見てたいって言ったのは嘘か」
「嘘じゃない」
「……じゃあなんでエマがここにいない? なんでお前がここに来た?」
「なんでって……」

 どんどん鋭さを増していくその口調に思わず言葉を詰まらせれば、イザナくんはフッと笑って「もういい」と言った。その突き放すための言葉に、あまりにも悲しそうな笑顔に、一瞬周囲の音が全部消える。息すら出来なくなる。怒ってくれない理由が分からないけど、元からイザナくんに捨てられる可能性だって考慮していただろう。だから冷静にならなきゃと思っても、頭も口も上手く回らない。

「違う、待って、話聞いて」
「稀咲には計画は中止だって連絡する。それでいいんだろ」
「聞いてってば!」

 包装紙がぐしゃりと歪む音が腕の中からしたけれど、そんなこともう気にしていられなくてイザナくんに詰め寄ろうとして、一歩も動けなかった。「どうして動けないの」と思ったその瞬間に自分がどこにいるのか分からなくなって、周りの景色が曖昧になる。泣いている人。怒っている人。俯いている人。母が私の手を引く。線香の香りがする。献花をしなきゃ。棺の中を見て、その中にいるあの人を、真一郎を。

 未だにまともに思い返すこともできない記憶がフラッシュバックして、意志とは正反対に後退る。喉の奥から引き攣った短い呼吸が漏れた。視界が明滅して、なのにイザナくんから目を逸らせない。なんでそんな顔をするの。誰のせいでそんな顔してるの。

 真一郎のせい? 違う。

「タケミっち、コイツ連れて離れてろ」
「待って、まだ話終わってないから……」

 なら、稀咲のせい? それも違う。

 都合良く涙が出てくれないせいで歪まない視界の中、イザナくんは笑みを浮かべたまま私を見ている。何より美しい人。誰より大切な人。私の生きる意味。私の希望。

 視界を遮るように前に出て私の腕から菊の花を抜き取った万次郎が、最初から居たような気もするけどいつから居たのか分からないたけみっちに勝手に私を任せて、イザナくんに向き合った。イザナくんはもっと笑顔を浮かべて、万次郎に何かを言っている。万次郎もイザナくんに何かを言い返す。その間もずっと笑ったままだ。


 それを見ているうちにもう何も考えられなくなってしまって、困り顔でそれでも万次郎の指示に従おうとするたけみっちを押し退けて、万次郎ですら突き飛ばすみたいにして、イザナくんの前に出た。いつかのあの日にしたみたいにその手を握る。言いたいことが何も纏まっていないのに勝手に開く口を抑えられなかった。

「話、聞くだけでいいから、お願い」
「……聞きたくない。もう帰れ」

 イザナくんがこんなに寂しそうな顔で笑うのは、全部私のせいだ。


 少しの沈黙の後に手を振り解かれて、イザナくんをこんなに傷付けたのは私なのだとようやく思い知った。涙はやっぱり出なかった。

ふたつおりのひとひら