かなしみひとつ、よろこびひとつ


 夢は終わったはずなのに頭がふわふわして何が何だかよく分からなかったから、これは新しい夢なのかもと思って考えることはやめた。やめて、どうしてだかすぐそばにある気がする好きな人の首筋に擦り寄せる。柔い銀色がキラキラしているのが眩しくて目を閉じた。不思議と落ち着く嗅ぎ慣れた香りをゆっくり吸い込んで、小さく息を吐く。ああ、大好きだ。

 そうしているうちに周りで聞こえていた喧騒がどんどん形を持っていって、誰かが私の手を握ってくれていることにも気付く。それが誰かなんてことは考えるまでもなかった。この数年間、幾度となく私が握ってたイザナくんの手のひらだ。
 だけどこんな風にこの人から手を握ってくれたことはあったっけ。いつもいつも私が手を握って、それをそっと握り返してくれて、私はただそれだけで何より嬉しかった。それだけでいいと思ってた。

 でもこうして手を握ってもらうのもすごく嬉しいものなんだな。私とそんなに身長は変わらないのに私よりも大きな手。なんだか暖かい気がするけど、これは私の手が冷たいだけの可能性もある。でもまあこうして手を握ってくれたという事実があるなら、そんなことはどうでもいいか。

 いつかこの人に手を握ってもらえればと思ったことがないと言えば嘘になるけれど、握られた後のことはなんにも考えてなかった。少し迷ってから握り返せば、手を握る力がもっと強くなる。簡単に人を殴り倒してしまうだけあって力が強い。いつも私の手をそっと握り返してくれる時はずっと手加減していてくれたんだろう。そういう優しいところも好き。


 それで結局なんでこんな風に手を握ってくれているんだろう。エマの代わりに真一郎の墓参りに行って、イザナくんを傷付けてしまって、そのあとにたけみっちと話をした。それで私が半狂乱になってる時にたけみっちも意味のわからないことを言い出したんだっけ? 稀咲の狙いはエマだけじゃなくて……あ。
 そういうことか。アイツ、イザナくんが計画は中止だって言っても止まらなかったんだ。それで多分ターゲットが私に変更された。言われてみれば頭が痛い。あのなよっちい性悪クソ眼鏡に素手で人間をどうこうできるとは思えないので、多分棒か何かでぶん殴られたんだろう。そんなの見せられたらあの場にいたたけみっち以外の人は慌てるに決まってる。だから今こんなに騒がしいんだと思う。私だって目の前でそんなこと起きたら、真一郎のことを思い出して騒いでしまうに決まってる。

 でも打ち所が良かったのか、獲物を使ってもどうにもならないぐらい性悪クソ眼鏡の腕の力が弱かったのか、私はこうして生きている。頭は痛むけど今から死ぬんだろうなあとも思わない。ざまあみやがれ。お前の計画はもう大失敗。結果的に当初の予定通り命を賭けることになった私の勝ちだ。


 イザナくんは私の手を握った上で更に抱き締めてくれているのか、肩越しに慌ただしい心臓の音がする。目の前で私がぶん殴られたせいで随分動揺させてしまったみたいで、なんだか申し訳なくなった。自分で思っている以上にダメージがあるのか上手く力の入らない指先でまたイザナくんの手を握り返して、その名前を呼ぶ。

「ごめんね……」

 何がとか、どんな風にとか、それは今は聞かないで欲しい。また後でちゃんと向き合って謝らせて。謝りたいことばかりだ。この何年間もイザナくんを利用してきたことも、イザナくんに私の理想を押し付けていたことも、全部謝りたい。それからちゃんと伝えたい。

「……行っていいよ。やりたいことやってきていいんだよ」

 無関係な稀咲に思い込まされたやりたいことじゃなくて、無責任な私が押し付けるやりたいことじゃなくて、イザナくん自身がやりたいと思うこと。真一郎に呪われ続けるのも終わりにして、イザナくんにはイザナくんの人生を歩いて欲しい。自分で選んで欲しい。

「絶対追い付くから……」

 今更どの面下げてと思われるかもしれないけど、ちょっと遅れたとしてもイザナくんがやりたいことをやってるところを見に行く。それでその呪いを解いてあげる。そればっかりは、イザナくんと同じように真一郎に呪われた私にしかしてあげられないことだから。

「イザナくんのこと、ひとりにしないよ」

 あなたが一人で泣いているのを見たあの雨の日に、そう決めた。あなたがもう一人きりで泣かないでいいように、たとえこの先何があってもあなたを一人にしないと決めた。そのそばに居るのが私じゃなくてもいい。イザナくんが一人で泣かないで済むなら、それでいい。


 頭の痛みに耐えながらそれまで閉じていた目を開けば、目の前に綺麗な銀髪がある。ちょっと赤くなってるのは私の血かもしれない。こんなに綺麗なのに汚してしまってごめんね。

 視界の中には焦った顔で私を見下ろすイザナくんもいて、それが泣き出す寸前にも見えたから、また手を握り返す。大丈夫。私でいいならそばにいる。ずっとそばにいる。だから泣いても大丈夫。
 何があったって置いていったりなんてしない。向き合うのをやめたりしない。一人になんてしないよ。

「悲しいからってひとりにならないで」

 それがどれだけ辛くて悲しいことかは、選んでもらえなかった私だってよく知っている。だから、あなたを選びたいと思う私を置いて一人で寂しい方に行かないで。

 イザナくんのピアスが、からりと音を立てる。

ふたつおりのひとひら