君の落とした小石を拾う私

 本日の抗争現場に無事に到着した時には、もうすっかり夜だった。春千夜との通話が終わったあとに携帯の電源は落としてしまったので正確な時刻は分からないけれど、タクシーを降りてから五分も経っていないはず。急がなくては。

 そのまま埠頭に侵入してコンテナの影に隠れるように進み、これ以上は誰かにバレるかもなと思った辺りで立ち止まった。周囲の様子を伺うためにこっそり顔を出す。

 聞こえてくる騒ぎの内容からして今はイザナくんと万次郎が戦っているのだということは分かっているけど、移動しながらじゃよく見えなかったしよく聞こえなかった。今にしろもう少しあとにしろ必ずイザナくんのそばに行くつもりでも、その前に少し情報収集はしたい。あとぶん殴ってやる予定の性悪クソ眼鏡がどの辺りにいるのか知りたい。
 こういう時も不思議なことに顔見知りばかりが目に付くもので、ムーチョくんや春千夜なんかはすぐに見付けられた。あとは竜胆とか獅音くんとかモッチーとか。当然のことだが万次郎のチームの子たちもいる。あとはあの……明らかに私を見ている悪魔とか。

 鼻血を拭いながら私に向かって微笑みかけ手を振ってくる悪魔こと灰谷蘭に向かって勢い良く何度も首を横に振る。ここで叫んでやめさせるわけにはいがないが、そのままにしておくわけにもいかない。
 やめろやめろやめろ。バレるだろうが。アーッ待て待て、待って。竜胆に声掛けないで。私の方指差さないで。竜胆も私の名前呼ばないで!

 「お前なんで来てんの」との疑問付きで竜胆に名前を呼ばれた辺りでこれはまずい、出ていくにはまだ早いとコンテナの裏に隠れようとした。したけど、イザナくんと万次郎の声しかほとんど聞こえないこの埠頭では竜胆の声は大きすぎて、何人かの視線が一斉にこちらを向いた。そこからはもう私には何も出来ずにざわめきが広がり、「あれって総長の」と両陣営から声が上がり、視線がどんどん集まってきて冷や汗が背筋を伝う。まずいまずい、流石にいきなりすぎる。

 今更かもしれないけれどとにかくコンテナの裏に引っ込もうと一歩後退ったときに、ざわめきに気付いたのか隣にいるこの場には似つかわしくない可愛らしい女の子に何かを言われたのか、私の方を見たたけみっちとばっちり目が合った。そのままとんでもなく大きな声で名前を叫ばれて、もっとたくさんの人が私の方を見る。

 いや、春千夜と同じぐらい声デカいじゃん。現実逃避のためにもそう悪態をつこうかと思ったけど、逃げるように目を逸らした先にいた春千夜本人に親指で騒ぎの中心の方をグッと指されてしまってなんにも言えなくなった。逃げたら殺してやるとその瞳が雄弁に語っている。逃げるなと、つまりはそういうことだ。
 示された騒ぎの中心にいた二人ですら殴り合う手も蹴り合う足も止めて、目を見開いて私を見つめていた。春千夜の射殺さんとばかりの視線に促されるようにしてそんな二人を見た瞬間に「情報収集したかったのに」なんて考えは吹き飛ぶ。

「き、来ちゃった」

 何も言わないわけにはと思ってひとまずそう言ってみたけど、誰も何も言ってくれない。そりゃそうだ。来ちゃったってなんだよって感じだよね。
 その続きの言葉が出てこなくてただ見つめた二人はそれぞれボロボロだ。特にイザナくんなんて見ていて心配になるぐらい鼻血が出てる。

 でも、そうか。二人とも本気なんだ。本気でぶつかり合って怪我してるのか。そう思うと胸の奥が握り潰されたみたいにぎゅっと痛んで、鼻の奥がツンとした。


 見つかってしまった以上ここに居るのもどうなのかなと思って、少し下を向きながらコンテナの影から出る。今更だけど気が重くなってきてそれに引っ張られるようにして足取りも重くなった。

 なんて言おう。最初に謝るべき? 今までしてきたことを全部謝って、許しを乞うべきなのか。それともどうやってここに来たのかと疑問を口にするたけみっちに答えてあげるべきなのか。独り言なのかもしれないけど誰も話し出さない中でそんなことを言われてしまうと、つい返事をしてあげないといけないのではないかという気になる。

 とにかく、ずっと黙ったままでいるわけにはいかない。何かを言わなくては。顔を上げる。そうしたら、まるで磁石のS極とN極が引き寄せ合うみたいに、最初からそれしかなかったみたいにイザナくんと目が合った。どんな宝石だって敵わないほどに美しい紫色が、しきりに瞬きを繰り返しながら私を見ている。困惑を湛えた瞳が、泣きそうな色をしている。

 それを見ているとどうしようもなくなって、一人で泣かないで欲しいとしか思えなくなってしまうのだ。


 だから私は何を考えるよりも先に駆け出して、すれ違う瞬間に私の名前を呼んだ万次郎に答えることも出来ずにイザナくんの胸の中に飛び込んでしまった。驚いた顔をしたイザナくんの背中と頭に腕を回して、これまでにしたことが無いぐらいに力を込めてイザナくんを抱き締める。

 突然現れた女が抗争のど真ん中に飛び込んできて片方のチームの大将を抱き締めたせいでまた一気に広がっていくざわめきなんて全部無視して、逸る心臓を落ち着かせようと息を吸った。そうしたらイザナくんの体からは血の匂いがして、その中にいつものイザナくんの匂いだってあったから、私はもうイザナくんの名前を呼ぶことしか出来なくなってしまう。逆効果だ。


 混乱しているだろうにイザナくんは私の名前を呼び返してくれたけれどその声があんまりにも泣きそうで、思わず抱き締めていた腕を離してその肩を掴みながら真正面からその顔を見た。一体どんな風にされたらそうなるのか、両方の鼻から流れ落ちて止まりそうにもない鼻血をコートの袖で拭ってあげる。そのまま流れてもいない涙を拭うようにして指で目の下にも触れた。イザナくんの瞳が大きく揺れる。

 そんなに寂しい顔をしないでと言いたかった。悲しい顔も辛い顔も、そうさせているのは私なのかもしれない。だけどそんな顔をしないで欲しい。

 血の通った肌の温かさに、流れ続ける血の赤さに、思わず私の方が泣きそうになって強く唇を噛み締める。私の呪いを解いてもらうためにここに来たんじゃないだろう。
 イザナくんはそんな私の思いを知ってか知らずか、迷うように何度か口を開けたり閉めたりしたあとに呟いた。気付けばざわめきも収まって静まり返っていて、その声がよく聞こえる。

「……なんでここに来た」
「絶対追い付くって言ったでしょ」

 ダメだと思うのに声が震えた。喋っていない間は必死で唇を噛んで、何度も瞬きをして、心の中で自分に言い聞かせた。泣くな。こんなところで泣くな。いつまで経っても忘れられない「笑ってた方が可愛いから」という声を何度だって思い出す。そうすればいつだって涙が止まる。真一郎への憎しみと恨みが、悲しみが、涙を止めてくれるはずだ。今までだってずっとそうやって耐えてきただろう。

「……病院は?」
「抜けてきた」
「なんでだよ……なあ、お前にここまで来る理由があるか?」
「イザナくん」
「ないだろ! ひとつもない! こんなことになってまでオレのそばにいる理由なんてどこにも」
「どうしてそんな風に自分のこと傷付けるの」

 イザナくんの両肩に置いていた手で思いっきりその頬を掴む。最後まで話を聞こうと思ったけれど耐えられなかった。噛みすぎた唇からは血の味がする。視界がどんどんぼやけていって、吐き出す息さえ震えた。


 ここがどこか、今一体何が起きているのか。それまではちゃんとそのどちらもを頭の片隅で考えられていたはずなのに、今はもうイザナくんのことしか考えられなかった。真一郎の声すら聞こえなくなっていく。

 辛い、悲しい、痛い。イザナくんはその一言も口にしてはくれない。その一言も私に打ち明けてはくれない。そうやって今もまだ真一郎の呪いを抱えたまま苦しみ続けている。それがどれだけ辛いことなのか、その辛さからも目を逸らそうとしている。

「なんでそうやって苦しい方にばっかり行っちゃうの。どうして一人になろうとするの」

 滲む視界の中で、イザナくんはグッと眉を寄せて唇を噛む。それを見て、ああと思うのだ。真一郎はやっぱり酷い男だった。イザナくんに会ってあげて欲しかった。一日でも一分でも一秒でも早く、イザナくんに向き合ってあげて欲しかった。あの雨の中、イザナくんを追い掛けて抱き締めてあげて欲しかった。
 それをしてくれなかった真一郎には分からないだろう。選ばれなかったまま終わってしまったイザナくんの苦しみも、迎えに来てもらえなかったイザナくんの寂しさも、真一郎の「一番」になれなかったイザナくんの辛さも、真一郎には分からない。


 ねえ、なんであの時死んじゃったの。なんでイザナくんに向き合ってくれなかったの。どうして、私たちを置いていったの。


 真一郎は選ぶ側で、置いていく側だった。だから万次郎を選んだ。たった一人の血の繋がった弟。十歳年の離れた可愛い弟。何より大事な弟のために何もかも捨てて、罪を犯して、その癖してその弟ですら置いていった。何もかもを置いて死んでしまった。選ばれなかった私たちも、他の何を犠牲にしてでも選んだはずの万次郎も、みんな真一郎に置いて行かれた。

 だから大っ嫌いなのだ。全然分かってない。私もイザナくんも万次郎も、みんながみんな真一郎に呪われ続けている。泣けないままで、苦しいままで、辛いまま。真一郎はそんなことなんにも分かっていなかった。


 溢れそうになる涙を堪えて、私を睨むイザナくんを見つめ続ける。そんなに睨まれたって怖くない。睨まれた程度で揺らぐ程の覚悟でこれまでイザナくんのそばに居続けたわけじゃない。

「一人になろうとするも何も、オレは最初からずっと一人だった」
「そんなことない」
「一人だったんだよ!」
「そんなことないよ。エマも真一郎もいたし、鶴蝶だっていたでしょ」
「ソイツらとは血が繋がってねえだろ⁉︎ エマはオレの妹じゃなかった! 真一郎だってオレのお兄ちゃんになってくれなかった! 鶴蝶もお前もオレの家族じゃない!」

 頬に触れていた私の手を無理矢理振り解いたイザナくんが、肩を荒らげながらまた叫ぶ。

「どうせお前は真一郎に何か言われてオレのそばに居るだけだ! 違うか⁉︎ 真一郎のために」
「違う! 真一郎のためなんかじゃない!」

 それ以上は聞きたくなくて無理矢理遮って、振り払われたまま宙に浮いていた手でその肩を殴った。イザナくんはそんなことをされると思っていなかったのか驚いた顔をしたけれど、取り繕う余裕もなくなってもう一度その肩を殴る。

「イザナくんは全然分かってない。私の気持ち、この七年間で、なんにも分かってくれなかった!」
「は……?」
「真一郎になんか言われたぐらいで、わざわざ毎週毎週横浜で通うと思う? 私を呪うだけ呪って勝手に死んだ真一郎の言葉に従って私がイザナくんのそばにいたんだって本気で思う? イザナくんを好きだって思う気持ちも、イザナくんのそばにいたいって思う気持ちも、そうやって全部真一郎のためだって理由を付けて否定するの⁉︎」

 何度もイザナくんの肩を叩きながら、堪え切れずに浮かんだ涙がこぼれ落ちる前に無理矢理拭った。頭の中でまた真一郎の声がしたけどもう無視する。うるさいから黙ってて。もうこれ以上呪いを掛けないで。

 殴られるまま、イザナくんは何も言わない。その呆気に取られた表情を見て、本当に私の気持ちはなんにも伝わっていなかったのだと突き付けられたみたいで場違いにも悲しくなる。
 振り下ろした拳を途中で止めて、開いた手のひらでもう一度イザナくんの両頬に触れる。下に向けていた顔を上げて、これ以上涙が堪えないように気を張りながらイザナくんの目を見た。

「確かに、真一郎への復讐心もある。なんで私を選んでくれなかったんだろうって、どうして約束を守ってくれなかったのって、今でもずっと思ってる」

 私だって真一郎に選ばれたかった。真一郎の妹になりたかった。妹みたいに可愛がるんじゃなくて、妹として可愛がって欲しかった。大切な人を託せる人だなんて思って欲しくなかった。だってその時点で私はもう決定的に線引きをされてしまって、絶対に真一郎の妹にはなれなくなってしまったから。

 そうやって何度も何度も真一郎は私の願いを踏み砕いて、気付こうともしないで、約束すら守らずに死んでしまった。私を置いていった。


 だけど、だからって真一郎に託されたイザナくんを恨んだことはない。憎んだこともない。真一郎への復讐に利用してしまったとしても、イザナくんといる間に思っていたことは全部本心だった。全部本音だった。

「でも、そんな理由でイザナくんのそばにいたいって思ってない。そんなバカみたいな理由でイザナくんのそばにいたわけじゃない」

 私を見つめながら呆然と「ならなんで」とイザナくんは呟く。まだ分からないのか、分からないふりをしているのか。本当に分かっていなくて、私が真一郎のために自分のそばにいるんだと思い続けてきたのか。その答えはイザナくんしか知らないのだ。

 だから私はもういいと言われるまで、イザナくんが私の気持ちを知ってくれるまで、好きだと言い続けることにした。

「好き。イザナくんのことが好きなの」
「な、に言って……」
「あなたのことが好きだから、あなたのそばにいたい。あなたに一人で泣かないで欲しい。あなたにこれ以上あなた自身を傷付けるところを見たくない」
「……なんで、そんなに……」
「イザナくんが好きだからだよ」
「……」
「好きな人のそばにいたいって思うのに、他に理由がいる? 好きな人と一緒に生きていたいって思うのも、大好きな人に一人で泣かないで欲しいって思うのも、イザナくんは理由がないと信じられない?」

 何かを言おうとして口を開いて、何も言えずに閉じて、また開いてを繰り返していたイザナくんが、一度目を逸らして視線を斜め下に向ける。だけど私がその頬を掴んでいるから顔を背けることは出来なくて、数秒経ってからまた視線は私に向けられた。


 言いたいことが沢山あるし、謝りたいことも沢山ある。イザナくんに聞いて欲しいことばかりだ。これまでのことも、これからのことも、ちゃんと話したい。それでたくさんイザナくんの話を聞きたい。どんな些細なことだっていい。帰り道に見た面白い形の雲とか、おかしな所に咲いていたタンポポとか、美味しいと思った食べ物とか。
 そういう普通の話をイザナくんとしたい。そういう普通の話をしながら、イザナくんと生きていきたい。


 真一郎がなんて言おうが、私に何を託そうが、どれだけ約束を破って私たちを傷付けようが、そんなことは私の気持ちには関係ないのだ。最初から好きだった。出会った時からずっとイザナくんのことを好きだった。たとえ真一郎がイザナくんを選んでいても、今も生きてくれていたとしても、私のこの気持ちは変わらない。

 悲しいことも辛いことも苦しいことも、もちろん嬉しくないことだって私に打ち明けて前を向けるなら全部話して欲しい。私はどんなイザナくんからも逃げたくない。イザナくんに向き合うことをやめたくない。イザナくんと生きていく未来を、諦めたくない。

「イザナくんがいい。イザナくんじゃなきゃ嫌なの。イザナくんのことが好き。だから、私にイザナくんのことを選ぶ権利をください。これからもあなたのそばにいる資格を、ください」

 イザナくんは黙ったまま目線を下に向けて、涙を堪えるように唇を噛み締めた。頬に触れていた指を伸ばしてその唇に触れる。噛み過ぎると血が出るし、そんな風に一人で涙を堪えるのはもうやめて欲しい。私がいるのだと、知って欲しい。

「この先も私はイザナくんを一人になんてしない。ずっとイザナくんのそばにいたい」

 一度限界まで見開かれた紫色の瞳から大粒の涙が溢れ出す。それを見た瞬間に私まで堪え切れなくなってしまった。イザナくんの泣き顔がぐにゃりと歪む。頬が熱いと思った時にはもう既に涙が溢れて止まらなくなってしまっていて、まともに喋ることさえ出来なかった。

 何度も何度も吐き出すように繰り返される私の名前がだんだん嗚咽に塗れて聞こえにくくなっていって、答えるようにしてイザナくんの名前を呼ぶ私の声も嗚咽でぐちゃぐちゃだった。両頬を掴んでいた手を離してイザナくんの右手を両手で握り締めながら、止まらない涙を拭うことも出来ずに俯く。


 こんな風に涙が出てくるのは二年ぶりだ。十三年以上昔に掛けられた呪いが解けなくて、解き方も分からなくて、あの夏の日以来涙の一滴すら出なかった。真一郎が死んだと聞いた時も、その葬式の日ですらも、私は泣けやしなかったのだ。泣きそうになっても唇を噛んで堪えて飲み込んで、そうするうちにそれが普通になった。
 それが苦しくて悲しくて堪らなく辛くて、だから一緒に生きていきたい、そばにいたいと願うのと同じだけイザナくんの呪いだけは解いてあげたかった。他の誰の呪いを解けなくたっていいと思った。私自身の呪いのことなんてもう諦めていた。だって私の日常の至る所に真一郎の呪いがある。その全部を解いて回るなんて無理だ。不可能なのだ。

 だけどこうしてイザナくんは私のそばにいるだけで呪いを解いてくれてしまった。上手く泣くことすらできない私の手を振り払わないでいてくれてしまう。私に呪いを、解かせてくれてしまう。


 伸びてきた手に涙を拭われて、そのまま流されるようにして顔を上げる。見つめた先にいるイザナくんが少しだけ眉を下げて泣きながら笑っているのが、滲んだ視界でもよく分かった。名前を呼ばれて必死で頷く。私の両手の中でイザナくんの右手が動いて、ゆっくりと手を握られた。それだけでまた涙が出てきて、イザナくんはそんな私を見てまた笑う。今度はどうやって止めればいいのか分からなくなってしまったみたいだ。

ふたつおりのひとひら