誰かが明日、夢を見る

 七年間寄せ続けた好意を向け返してもらえたという事実に涙が止まらなくなって、ただでさえもぼんやりしてきた頭が今度はふわふわし始める。嬉しい。嬉しくて死んじゃいそう。イザナくんに死ぬなって言われたし、いつかお嫁さんにしてもらうその日まで死ぬわけにはいかないけど。でもやっぱり嬉しくて死んじゃいそうだ。
 そんな風にイザナくんに抱き着いて舞い上がっているうちにふわふわした頭で「そう言えば今って普通に抗争中だったな」と本当に今更すぎることを思い出して、連鎖的に「というかアイツ、私たちだけじゃなくてイザナくんのことも撃ったんだ」と衝撃的な事実に気付いてしまった。え、何やってくれてんだアイツ。


 万次郎はなんにも仕出かしてないかなと思ってイザナくんの肩から顔を上げ、先程まで性悪クソ眼鏡がいた方を見ればたけみっちと万次郎に詰め寄られて糾弾されていた。私たち三人が仲良く「これからも一緒に生きていこうね」みたいな話をしている間にも、どうやら他の人たちは勝手に話を進めていたらしい。そういうのってどうかと思うな。この場の主役はイザナくんだと思うんだけど。

 まあクソ眼鏡はまだ銃を持っているからその二人も今以上に距離を詰めることが出来ないらしく、言い合いが続いている。そして何故か誰に指摘されることもなく、その三人にクソ眼鏡の背後から堂々と近寄っていく灰谷蘭。私と目が合うなりにっこり笑って「任せろ」とばかりに親指を立てられたんだけど、これはつまり、そういうことなのか?
 察するつもりはなかったのに今から灰谷蘭がしようとしていることが何となく分かってしまった。いつも通りに分かりにくいけど灰谷蘭は灰谷蘭なりに、クソ眼鏡にイザナくんが傷付けられたことやこの期に及んでイザナくんを利用されたことにキレている。だからクソ眼鏡を背後からぶん殴ろうとしているのだ。そして奴は「お前もコイツのこと殴りたいだろ」と私を誘っている。

 躊躇う。すっごく躊躇っている。灰谷蘭にお膳立てしてもらうのも、その計画に乗るのも怖い。だってこの後で何を要求されるか分かったものじゃないのだ。私がステーキにされる可能性だってゼロじゃない。奴隷宣言もなくもない気がする。
 だけどここで動かなきゃもう二度と機会はないかもしれないのも事実だ。現在の私は今にも気を失いそうなぐらいボロボロで、いくらクソ眼鏡より喧嘩の腕が強くたってまともに動けなければ意味が無い。誰かにお膳立てしてもらわなければ、撃ち殺されて終わる。

 あと、私が動かなければ万次郎が動いてしまう可能性が高い。それが一番ヤバい。私はこんなことになっても手加減ができるからいいけど、万次郎にできるだろうか。たった一人の妹であるエマを殺そうとして、一度ならず二度も従姉である私を死の淵に追いやったあのクソ眼鏡に、万次郎は手加減なんてできるのか。

 この場で万次郎のあの衝動のことを知っているのは私と春千夜だけなはず。春千夜は万次郎を止められないし、そもそもこの場に万次郎に勝てる人はいない。イザナくんならいけるかもしれなくても、撃たれて重傷を負っているイザナくんを万次郎にけしかけることは出来ないし、しない。私の未来の旦那さんだぞ。


 灰谷蘭が片手に持った警棒を上下に振り下ろしながら、音を出さずに口を動かして私の名前を呼んだ。その不審な動きに気付いたらしいイザナくんと鶴蝶も「アイツは何を……」と言い出す。本当に何やってんだよ。動けってこと? 「音の鳴る面白いおもちゃ」としてやることはやれって?

 ひとつ息を吐いて、それと一緒に口端を伝っていった血を手の甲で拭った。腹を括って力の入らない足を無理矢理動かして立ち上がる。どの道、今夜アイツをぶん殴ってやろうと思ってたんだ。やられっぱなしは性にあわないし、大切な弟分である万次郎に人を殺させるぐらいなら多少死にかけてでも私がどうにかした方がいい。大好きな人の忘れ形見に、これ以上何かを背負わせるわけにはいかない。


 イザナくんと鶴蝶が焦ったように私の名前を呼ぶ声を背に、意外と近いところにいた三人に向かってよろよろ進んでいく。正直ぼんやりもふわふわも通り越して頭が痛いし、今この瞬間にも倒れそうだ。絶対貧血。あと撃たれた箇所がどちらともすごく痛い。あと一発でも撃たれたら死ぬんじゃないかなと本気で思っている。
 まあ、イザナくんのお嫁さんになれるまでは死ぬ気はないし、なってから死ぬつもりも欠片もない。イザナくんを一人にしない。イザナくんが一人で泣かないでいいように、私がそばにいる。目指せ薔薇色の新婚生活。

 だからこれは、死にに行くわけじゃない。ただ落とし前をつけさせるだけだ。

 歩み寄りながらご機嫌そうな灰谷蘭にひとつ頷いて見せれば、灰谷蘭は悪魔みたいな笑みを浮かべながら一切躊躇うことなくクソ眼鏡の手首目掛けて警棒を振り下ろした。クソ眼鏡は突然の背後からの攻撃に思わず銃を取り落とし、手首を押さえてしゃがみこむ。結構痛そうだし骨折れてそう。アンタに撃たれた私たちの方が痛いけどね。


 灰谷蘭が地面に落ちた銃を蹴っ飛ばして遠ざけるのを視界に入れつつ、重い足を動かして少しずつクソ眼鏡に近付いていく。気配を感じたのか振り返った万次郎が驚いたように私を呼び、つられて振り返ったたけみっちもギョッと目を見開いた。ひとまずそれは無視して、二人を軽く手で押す。手首を押さえてしゃがみこんでいたクソ眼鏡は目の前に現れた影に何を思ったのか顔を上げ、そうして口端を引き攣らせた。その無様な表情に思わず笑ってしまう。人を利用するだけ利用して調子に乗っていたからこうなるのだ。

「よくもまあ、やってくれたね」
「どうして生きてる⁉︎」
「どうしてだと思う?」
「は……?」
「どうしてまだ生きてるんだと思う?」

 目線を合わせるためにしゃがみこむ。そうして顔を近付けることで分かったけれど、追い込まれたことで焦ってきているらしいクソ眼鏡は冷や汗を流していた。うんうん、怖いよね。撃ち殺したと思った女が血反吐を吐きながら自分の元に向かってきて怖くないはずがない。

「イザナくんが不死身のイザナって呼ばれてるの知ってる? 私はそのイザナくんの未来のお嫁さんだから、まあ私も不死身でもいいと思ってるんだよね」

 上手く回らない頭で適当なことを言いながら、手を伸ばしてクソ眼鏡から眼鏡を取り上げて後ろ手に放り投げる。これがあると邪魔だ。そのまま血だらけの左手で顎を鷲掴んだ。

「でもまあ、撃たれたら普通に痛いわけ。それにアンタ、私と鶴蝶だけならまだしもイザナくんのことも撃ったよね。今まで散々イザナくんのこと利用してきたくせにそういうことするんだ」
「何が……何が言いてえんだ⁉︎」
「このチームの王に歯向かうんならケジメつけろ。イザナくんを裏切るんだからそれぐらいの覚悟はしてるよな」

 そんな覚悟すら決めずに人を殺そうとしたわけではないだろう。生かすも殺すも付き従うも、必要なのは覚悟だ。なんの覚悟も決めずにただただ利益を手にして夢を叶えようだなんて馬鹿馬鹿しい。

 顎を掴んでいた手を後頭部に回して、キスをするかのように顔を近付ける。そうしてしばらく至近距離から恐怖に支配されたその表情を観察したあとに、思いっきり顔のど真ん中に向かって頭突きをした。ゴンッとかボキッとか嫌な音がして、やることはやったので手を離せばクソ眼鏡はひっくり返る。
 それを見届けてから私もその場に腰を下ろした。もう一歩も動けそうにないし、今すぐこの場に救急車を呼んで欲しい。イザナくんのお嫁さんになれてもいないのに出血死は嫌。というかこの人たち、流石に三人も撃たれたんだから救急車呼んでくれてるよね?

 額からツーッと流れ落ちていく血を拭い、私を見下ろして笑う灰谷蘭にやけくそになってピースをしておいた。私の勝ちでしょ、コレ。

「殴んのかと思ってたわ」
「今利き手使えないし、こういうのは利き手で殴んなきゃ面白くないじゃん。殴りたいなら自分で殴っておいて」
「飽きんの早ーな」
「元からそこまでコイツに興味ない。獅音くんとモッチーの初恋の人とかの方がまだ興味ある」
「へー、ちなみにオレの初恋は」
「ねえそれ聞かなきゃダメ? 聞きたくないんだけど」
「同級生の母親」
「聞きたくなかった」

 クソ眼鏡をつま先で蹴っ飛ばしながら話し続ける灰谷蘭には適当に相槌を打っておいて、膝を着いて体を支えてくれた万次郎に「あっちに連れてって」とお願いする。「あっち」とは言わずもがな、イザナくんがいる方だ。もう疲れたのでイザナくんのところに行きたい。今日やろうと思ってたことは全部やったから、あとはもうやりたいことがある人が勝手にやって欲しい。


 万次郎に寄りかかったまま目を閉じて呼吸を整えているうちに、私とそう身長が変わらないのに随分身体付きは良くなったんだなと気付く。昔は私が万次郎を叩いて泣かせたこともあったけど、今殴られたとして痛くて泣くのは私の方だろう。もう力じゃ絶対に敵わない。

 ぼんやりと微睡むように遠い昔の記憶を呼び起こす。まだエマが母の実家に引き取られるよりも前のこと。二歳年下のよく泣く従弟。大事な友人。大好きな家族。

「大きくなったね、万次郎」
「……なんだよ急に」
「真一郎が今の万次郎を見たら泣いて喜ぶんだろうなあ」

 大きくなったなと万次郎を抱き締めて、顔中ぐしゃぐしゃになるぐらい大泣きしながら喜ぶはずだ。今の私はきっと、そんな真一郎に「よかったね」と心から言える。憎しみと恨みが消えなくても、私は心の底から真一郎と一緒に喜べる。

「……一個聞いてもいい?」
「なあに」
「真一郎のこと、嫌いだった?」

 呟かれたその疑問を何度か頭の中で反芻し、ゆっくり目を開ける。気付けば雪が降り出していたみたいで、見上げた先にある万次郎のまつ毛は僅かに濡れていた。それがまるで泣いているみたいに見えて手を伸ばそうかと思ったけど、指先を動かすことすら困難で諦めた。

 だからせめて真剣に返事はしてあげようと記憶を掘り返す。思い出したくないと思うことばかりが思い浮かぶけど、この先イザナくんと生きていれば真一郎にしてもらって嬉しかったことや楽しかったことも思い出せるようになるんだろうか。思い出を思い出として割り切って振り返ることができるようになるんだろうか。

「泣くのが怖い。カブト虫も怖いし、ジャングルジムも怖い。暗いところも雷も海もおばけも怖い。……これね、全部真一郎と一緒にいる時に色々あって怖くなったの。他にもたくさん怖いものがある。ずっと怖いままのものが沢山」
「……」
「前に言ったでしょ。真一郎は私には優しくなかった。可愛がってもらったとは思うし、恩も感じてる。だけど酷いことも沢山された」

 それこそ万次郎にもイザナくんにも話せないような酷い思い出が沢山あって、その全部を忘れたくても忘れられずにいる。これからも忘れられないままだろう。これもまた真一郎が私に遺した呪いだ。

 雪の散らつく空を見上げながら息を吐く。疲れたし眠いし寒い。どうやらイザナくんのところに連れて行ってくれるつもりは無いようなので、諦めて万次郎の肩に頭を寄せて目を閉じた。イザナくんとはまた後でゆっくり話せばいい。今は万次郎に答えてあげなくては。

「真一郎のことは、やっぱり嫌い」

 万次郎は何も言わない。居心地の悪くない沈黙だ。バイクの排気音やらクソ眼鏡の名前を呼ぶ声やらたけみっちの怒鳴り声やら、そういうものが聞こえなくもないけど全部無視した。

「だけど大好き。私のお兄ちゃんになってくれなくても、酷いこと沢山されても、それでも大好きなの」

 ずっとずっと大好きだ。

「これだけは忘れないで、万次郎。真一郎は誰より万次郎を愛してた」

 真一郎の愛故に万次郎を蝕むその呪いですら受け入れてしまえるほどに、その呪いごと愛し続けられるほどに、真一郎は万次郎を思っていた。それを万次郎が忘れてしまったら、選ばれなかった私たちの立つ瀬がない。

 意識が落ちていく。きっとまた夢を見るのだろうなと思った。

ふたつおりのひとひら