109番目の煩悩

 金曜日の夜から日曜日の昼ぐらいまでは決まって横浜にあるイザナくんの家で過ごしているわけだが、月に二回ぐらいは月曜日の朝にそのままイザナくんの部屋から高校に向かうことになったりもする。更に何ヶ月かに一回ぐらいの頻度で、月曜日の朝に遅刻して結局夕方ぐらいまでだらだらとイザナくんの家で過ごしてから帰ることもある。

 今日はそのパターンだった。夜ご飯を作って一緒に食べて、流石に二日連続サボりは色々と面倒だし母に怒られそうだったので東京に戻ってきたのだ。約三日ぶりの見慣れた景色に「帰ってきたなあ」とぼんやりと思いながら、さっさと実家に帰ろうと最寄り駅から家路を辿っていた。
 その途中に知人らしき背中を見掛けたら、声を掛けるか否か。本日の私は連日イザナくんと過ごせたこともあって気分が良かったので、もちろん声を掛けた。駆け寄って顔を覗き込み、知人であることを確認してから手を振るサービス付き。
 一瞬足を止めた知人の名前を呼び、笑いかける。

「やっぱりムーチョくんだ。また背伸びたでしょ」
「伸びてねえな。今帰りか」
「うん。どこ行ってたと思う?」
「イザナの部屋」
「当たり。よく分かったね」
「それイザナの服だろ」

 わざわざ歩幅を緩めてくれたムーチョくんの隣に並びながら、その目線を辿るようにして自分の胸元に目を落とす。なるほど。服からバレたか。

 週の半分近くをイザナくんの部屋で過ごしているので、服やら化粧道具やら日常生活をおくる上で必要なものは大抵イザナくんの部屋に置いてある。とは言え急に冷え込んだりすると着る服がなくなって、イザナくんに借りることになったりもするわけだ。今日もそうしてイザナくんのパーカーを借りて帰ってきた。十月も半ばを過ぎたこのタイミングで冬物をまとめてクリーニングに出したのが失敗だったと思う。


 私がイザナくんの部屋に入り浸って服を借りてもこの人にも何も文句を言われないってことはやっぱり外堀は順調に埋められてるんだなと満足しつつ、一昨日二人で見に行った映画の話をする。ムーチョくんは聞き上手なので話していて楽しいし、余程のことでなければ特に文句を言うこともなくどんな話でもまずは聞いてくれる良い人だ。
 三ヶ月ぐらい前、私が見たがったスプラッター映画を一緒に見に行ってからイザナくんと映画を見に行くことが増えた。高校の友人たちはああいう血の気の多いものを見たがらないし、かと言って万次郎は途中で寝るしでこれまではずっと一人で見に行っていたけれど、やっぱり好きな人と見に行く映画は特別面白くて最高だった。恋愛映画はつまらなさそうにするのにスプラッターならそれなりに真剣に見てくれるところも大好き。

 そんな惚気をムーチョくんに聞かせ続けていたけれど、そう言えばとふと気になったことがあったので今度は質問を投げ掛ける。

「今日はバイクでも車でもないの?」
「マイキーに銭湯に呼び出されたんだ。単車は三途に任せてきた」
「はー、なるほど。男同士裸の付き合いってやつね」
「今回は違うだろうな」
「違うんだ」

 そんなにさりげなく否定されると自信満々にそれっぽいことを言った自分がちょっと恥ずかしくなってくるんだけど。じとりとムーチョくんを見上げれば、凪いだ瞳で見下ろされた後にサッと目を逸らされた。僅かに肩が揺れている。笑ってやがるな?

「怒ってもいい?」
「好きにしろ」
「ムカつくぐらいの余裕っぷりだあ」

 お前に怒られたところで痛くも痒くもないけどなと副音声が聞こえてきそうなぐらいの余裕加減にちょっとイラッときたので、腕を伸ばして軽くその肩を小突いておいた。こんな攻撃なんてそれこそ痛くも痒くもないだろうけど、怒ってるアピールはしておかなくては。


 ムーチョくんはイザナくんのお仲間で、彼が少年院に入っている時に出会ったという悪ガキのひとり。少年院から出てきたイザナくんについてまわっていた時にたまたま顔を合わせる機会があって、それから四年ほどこうして知り合いとして仲良くやっている。

 私が知っている限り、イザナくんの少年院時代のお仲間の中ではムーチョくんは穏健派寄りの人だ。あとの人たち、というかあとの人たちの中の一名が私のことを音の鳴る面白いおもちゃか何かだと思っている節があって苦手なのだが、ムーチョくんは優しいから好き。あとこれはイザナくんのお仲間全員に言えることだけど、歳が近くて話しやすい。

 まあ出会ったばかりの頃は当然警戒されていた。それでもイザナくんのお嫁さんを目指してヒロインレースを駆け抜ける私に心を許してくれたのか、今ではこうして和やかに会話もできるようになった。この人も言葉にはしないけど私のことを「黒川イザナのヨメ」と認識してくれているようなので、この辺りの外堀は既に埋まっている。やっぱり私の作戦勝ちだ。


 そんなムーチョくんは目に見えてイザナくんへの忠誠心が高い人で、正直な話、万次郎のチームでムーチョくんに会った時はとても驚いた。万次郎には「もう自分には唯一と決めた王がいる」ときちんと話をしたらしいけど、それでもめちゃくちゃ驚いた。だってそれって、私が「イザナくんのことは好きだけど真一郎と結婚する!」って言い出すようなものじゃない? ……いや全然違うな。

 何か分かりやすくて良い例え方あるかなと首を傾げていれば、何を思ったのかムーチョくんが「そう言えば」と口を開いた。

「羽宮一虎が今月の頭に出所したそうだ」

 普通の声で普通の調子でまるで世間話をするみたいにそう言ったムーチョくんに対して、それまで呑気にプラスのことばかり考えていた私はというと一瞬だけ足が止まる。けれどムーチョくんは止まってはくれなかったし、私も一秒と置かずに再び歩き出してその隣に並んだ。

「ああ、母さんがそんなこと言ってたかも。……何、春千夜が気にしてた?」
「態度には出してねえけどな」
「あはは。アイツって結構何でも顔に出すよね。知ってる? 私ね、春千夜に着信拒否されてるんだよ」

 本人に確認を取ったから間違いない。欠片も悪びれることなく「だから?」と返されてしまって、叱る気もなくなった。確かに最近は連絡を取り合ってもいなかったし、わざわざ電話するほどの用事もそうない。大抵はメールで済ませられるので、着信拒否されていると分かる前も分かった後もなんの問題も発生していないのも事実だ。


 にしても、そうか。少年院から出てきたか。言われてみれば確かに何週間か前に母がそんなことを言っていたけれど、「そうなんだ」と聞き流して終わってしまっていた。興味が無いわけじゃないけど知りたいことでもなかったし、知ったところで何が変わるわけでもない。
 じゃあ圭介はもう会いに行ったのかなと考えながら、意味もなくパーカーの襟の辺りを正して頬に落ちた髪を耳に掛ける。今日は風が強い。イザナくんがパーカーを貸してくれて良かった。

 あの日のことは私たちの間でも触れてはいけないこととして扱われていて、お互いが何を考えているかに踏み込むこともしていない。万次郎たちよりも年上で多少は客観的になれていたはずの私ですら触れたくないと思っているのだから、真一郎によく懐いていた春千夜なんて言わずもがな。
 ムーチョくんもそこに無理に踏み込んだりしない人だから、春千夜は一緒にいて居心地がいいのだろう。酷い言い方をするとアイツは実の兄がちょっとアレだったから、真一郎はともかくムーチョくんに懐くのはよく分かる。まあ、真一郎も良い兄ではあったからな。

「ムーチョくんって一人っ子なんだっけ」
「ああ」
「なのになんかお兄ちゃんって感じがするから不思議」

 お互い無言でいても居心地は悪くない。でも昔のことを思い出してしまったからかなんだか気持ちが下を向きそうで、思い付いたことを尋ねることで沈黙を破った。
 そのままイザナくんの話に持ち込んで、ついでに最近は青椒肉絲にハマっているのだと話していればすぐに分かれ道に辿り着いた。万次郎の指定した銭湯に行くならこの道を曲がる必要があるけど、帰宅するためにはまっすぐ進まなければならない。どちらからともなく立ち止まる。

「家まで送れなくて悪ィな」
「まだそこまで暗くないし平気平気。こっちこそ色々話聞いてもらっちゃってごめんね」
「いや、イザナの近況を知れてよかった」
「それならいくらでも話せるよ!」

 もう聞き飽きたって言われても話し続けられる自信がある。そう言って特に理由はないけど力こぶを作ってみせれば、ムーチョくんは「そうか」と頷いてくれた。やっばり聞き上手だし話しやすい人だ。
 再び吹いてきた風によって落ちた髪を耳に掛け、「ありがとう」と口にする。なんとなくお礼が言いたかった。多分、真一郎のことなんて思い出してしまったからだ。

「私が言うことでもないかもしれないけど、ムーチョくんには感謝してる」
「なんのことだ」
「春千夜のこと。最近結構落ち着いてきたみたいだけど、それってムーチョくんのおかげでしょ」

 それこそ、ムーチョくんにはその自覚は無いかもしれないけど。

「面倒かもしれないけど、これからも気にかけてあげてほしいの。『お兄ちゃん』にはなれなくてもいいからさ」

 そんなものになろうとなんてしなくてもいいから、春千夜のことを大切にしてあげてほしい。ムーチョくんならばこれからも春千夜のことを大切にしてくれるだろうと確信している。あの子は少し言葉が足りなくて突っ走るところがあるけれど、それでも素直で優しい子だ。それに私の大切な弟分でもある。

 突然こんなことを言い出したせいで驚いたのか、何も言わずに私を見下ろしているムーチョくんに微笑んで、後ろ足で下がって何歩か距離を置いた。らしくもないことを言ったせいでなんとなく照れ臭いし、自分にできないことを押し付けたみたいで申し訳ない。

 これ以上何か言っても全部余計なことか失言に繋がる気がして「そろそろ帰るね」と言おうかと思ったけれど、なんとなく、本当になんとなく「私もさ」と言葉が漏れた。これも真一郎のことなんか思い出してしまったせいだ。

「私も、お兄ちゃんが欲しかったんだ」

 なって欲しいと思ったその人は、私たちのお兄ちゃんにはなってくれなかったけど。
 その一文までは声に出来るわけもなく曖昧に微笑む。

 今度はあからさまに驚いたような顔をしたムーチョくんに手を振って、踵を返した。

ふたつおりのひとひら