湖に流星が落ちたよ

 二年ぶりに訪れた葬儀場には重苦しい空気が満ちていて、嫌でもあの日を思い出して息が詰まった。それでもあの日と違って前に踏み出せたのは私が変わったからか。それとも、踏み出した先の棺で眠るのが真一郎ではなかったからか。そう考えれば考えるだけ憂鬱になったし、自分をぶん殴ってやりたくもなった。

 そんな風に現実逃避と自責を繰り返しているうちに気付けばお通夜は終わり、通夜振る舞いの席へと移っていた。そのまま母の隣で数十分ほど料理を食べていたけれど、余程顔色が悪かったのか強制的に帰されてしまい、今は葬儀場の近くのベンチに座っている。途中で逃げ出したり倒れたりしなかっただけ進歩と見るか、退化と見るか。個人的には後者だ。
 最初は母に言われた通りに家に帰ろうとしていたけれど、どうにもこの先に進む気力が湧かずに座り込んでから何分経つだろう。もうすっかり辺りは暗くなってしまって、頭上にそびえ立つ切れ掛けの街灯によって作り出される私の影はどこまでも曖昧だった。


 ここ数日、こうして一人になるとどうしても春千夜から連絡を受けたあの瞬間のことを思い出してしまう。着信拒否を解除してまで私に連絡してくるなんてどうしたんだろうと思いながら電話に出て、どうしたのと尋ねるよりも早く「場地が」と言われた時のあの、どうしようもないぐらいの嫌な予感。そのあとに続いた十秒近い沈黙が全ての答えだった。


 未だに実感は湧かないが、ほんの数日前に場地圭介は死んだらしい。羽宮一虎に刺された後に自分で自分を刺したんだそうだ。それ以上のことは詳しく聞いていないし、どちらの刺傷が致命傷だったのかも知らない。知りたくもなかった。

 祖父の空手道場に通う年下の男の子。従弟であるマイキーの友人。私の幼馴染み。圭介と私の関係とを言葉だけで簡潔に表すならばそんなものだ。
 出会った時期も覚えていないし、仲良くなったきっかけもいまいち覚えていない。それでも私にとって圭介は大切な幼馴染みだった。最近はお互い忙しくなってきて昔みたいに頻繁に遊ぶことも無くなってしまっていたけれど、会えば話すし、会わなくたって忘れることはない。そんな大切な幼馴染み。それが、どうして。


 気付けば下を向いていた顔を上げ、息を吸う。近付く冬を思わせる乾いた冷たい空気が肺を満たしていった。圭介の名前を呼ぶ。返事があるわけもない。 それが悲しかった。

 ベンチから立ち上がることすら億劫だ。どんどん重苦しい方向に沈んでいく思考をそのままに再び俯いてまた圭介の名前を呼んだちょうどその時、遠くの方から遠慮がちに名前を呼ばれた。まさかと思って勢い良く顔を上げ、思っていたのとは違う人たちと目が合って何も言えなくなる。相手も相手で私が圭介を呼ぶ声は聞こえていたのか、何も言えないようだった。

 私は馬鹿だ。もう生きてはいない人の名前を呼んだところで、返事なんて返ってくるはずがない。そんなことは何年も前に思い知ったはずだったのに、何を期待していたんだろうか。
 そう思い知らされたことで不思議なことにほんの少しだけ気持ちは上を向いた。見つめ合うだけではどうにもならないので手招きをして呼び寄せる。二人座らせるスペースは残念ながらないが、このまま立ち尽くしていたって意味が無いと思った。

 手招かれるままに歩み寄ってきてくれた二人のうち一人は見たことのない人だったので、ひとまず知り合いの方に声を掛ける。

「来てたんだ。気付かなくてごめんね」
「いえ……あの、今回のことは」
「私はただの幼馴染みだから、そういうのはいらないよ。それに、千冬はなんにも悪くないでしょ?」

 それが圭介の幼馴染みとして、その死を悼む者としての心の底からの本音だ。そう言えば千冬は涙を堪えるように何度か瞬きをして、軽く目線を下げる。私も千冬から目を逸らしてその隣に佇む金髪の男の子に向かって笑顔を浮かべようとしたけれど、思ったよりも上手く笑えなかった。

 千冬は圭介を介して知り合った、圭介の親友だという男の子だった。物怖じせずにきっぱり物を言うところに好感が持てて、個人的にも仲良くしている。圭介のそばに居ようとしてくれたところには感謝もしていた。
 本当だったら年上としてもっと早く千冬に声を掛けてあげるべきだったけど、自分の中で上手く整理を付けられずにここまで来てしまった。だから今日このタイミングでこうして話せたのはある意味よかったのだろう。今の精神状況的に自分から千冬に会いに行くことは当分出来そうにもなかった。

「私が言えたことじゃないけど、千冬ならきっと大丈夫。圭介の親友に選ばれた男なんだから、胸張って生きてよ」
「……はい!」

 遠くに行ってしまった人との思い出は次第に薄れていっても、選ばれたのだという事実は消えない。置いていかれた私たちに出来るのは、そういう事実をひとつひとつ大切にして、向き合って生きていくことだけだ。


 ポロポロと涙をこぼし始めた千冬がそれでも隣にいる男の子のことを紹介しようとしてくれたので、それは遠慮して自分から名乗った。泣いている年下の子に無理矢理喋らせたりしたくないし、悲しむ権利は誰にだってある。泣きたい時に泣く権利もそうだ。
 この子は千冬か圭介の友だちなんだろうなと勝手に判断して、名乗るついでにそこの二人の知り合いだったら恐らく知っているであろう「無敵のマイキー」の従姉だとも言っておいたのだが、あっという顔をされたのでどうやら私のことも知っているらしい。どんな知られ方をされているのかと思うと憂鬱になる。それが顔に出たのか、慌てたように両手を顔の前で振りながら「悪い話は聞いてません」と弁解みたいなことをされた。

「マイキーくんの昔からの友だちなんだって聞いてます。いつか紹介したいって……」
「……もしかして、たけみっち?」
「えっ、オレのこと知ってるんですか⁉︎」
「……私も万次郎に、いつか君のこと紹介するって言われてたから」

 その紹介の機会ですらなくすためにこれまで以上に積極的にイザナくんに会いに行ったり帰りを遅くしたりしていたのに、まさか紹介される前に出会うことになるとは思ってなかった。しかもこんな日、こんな時に。

 思わずこぼしてしまったため息をあらぬ方向に受け取ったのか、たけみっちはぎゅっと眉を寄せて勢い良く頭を下げてきた。その姿をベンチに座ったままぼーっと見つめながら、本当に真一郎に似てるかどうか考えてみる。記憶の中の真一郎はこんなに簡単に、こんなに突拍子もなく人に頭を下げられるようなやつだったか。
 そもそも真一郎の記憶ですら既に曖昧になりつつあるのだ。思い出したくなくて忘れようとしているのに、些細なことで記憶が揺り起こされて、それをまた無理矢理忘れようとして、そうしているうちに記憶の中の真一郎はどんどん朧気になっていく。今私が覚えているのは、真一郎にされた嫌なことばかり。好きじゃないところや嫌だったところは簡単に思い出せるのに、真一郎にしてもらって嬉しかったことや楽しかったことは全然思い出せない。

 そんな風にマイナスなことばかり思い出すとまた真一郎のことを思い出すのが嫌になって、どんどん思い出が悪い方向にばかり塗り潰されていく。だからもうこれ以上真一郎のことなんて思い出したくない。

「場地くんの件……すみませんでした」
「……」
「オレなら助けられたかもしれなかったのに……」
「……そんなに気にすることないと思うよ。全員を救うなんて無理なんだからさ」
「……え?」

 顔を上げたたけみっちから目を逸らして財布を取り出し、千冬にお札を一枚渡して喉が渇いたからとおつかいを頼む。この辺りは自販機もなければコンビニまでも距離があるので、多少は時間がかかるだろう。二人の分も適当に買ってきていいと言えば、少しだけたけみっちを心配する素振りを見せながらも元気にお礼を言って駆けていった。察しが良い子だ。
 千冬が居なくなって気まずい沈黙が広がる。風に吹かれた髪を耳に掛けながら、これから来る冬のことを思った。思えば随分遠くまで来てしまったものだ。


 別に、たけみっちを真一郎に重ねたわけではない。だけどこの子のどんなところが真一郎に似ているかは知りたい。知れば傷付くことになるだけだと分かっていても、どうしてか分からないけれど、それでも知りたいのだ。

 私の知る佐野真一郎は酷い男だった。万次郎やエマにとっては良い兄だったとしても、圭介や春千夜にとっても優しくて憧れのお兄さんだったとしても、私にはそうじゃなかった。良い人ではあったけど、優しい人ではなかった。

「大切な人全員を救うなんて、神様でもなきゃそんなこと出来ない。君にも私にも、それこそ圭介や万次郎にだってそんなことは出来ないんだよ」

 たけみっちは分かりやすく唾を飲み、目を見開いて私を見つめている。やっぱりこの子あんまり真一郎に似てなくないかなと思いながら、私もその目を見つめ返した。

「だから人は優先順位を決める。あの人もあの人もあの人も大事。だけど一番大事なのはこの人。いざって時に選ぶのは一番大事なこの人。それ以外の人も大切だけど、でも一番大事な人しか選べない」
「……」
「それでいいの。一番大事な人を選べばいい。みんなそうしてきた。だからそんなに気負う必要なんてないんだよ」

 ほんと、初対面の相手に、それも年下の男の子になんてことを話してるんだろう。そう思いながらも言葉を止めることが出来ずに、空を見上げながら話し続ける。
 これが迷い続けて出した私の結論だ。選ばれなかった人間が、選ばれなかったと言う事実しか残らなかった人間が、何年も迷って出した結論。真一郎に似ているとその実の弟に言われる少年が、そんな私の結論に何を言ってくれるのか。

「……それは」
「うん」
「実体験、ですか」
「どうだろうね。……そうじゃなきゃいいとは思うよ」

 そうじゃなきゃ良かったとずっと思い続けてるよ。
 選ばれなかった人なんて居なければ良かった。自分は選ばれない側なのだと突き付けられる人なんて居なければ良かった。選ばれなかったという事実を捨てられずに傷付く人なんて居なければ良かった。
 選ばれなかったことで今でもずっと苦しみ続けている人がいるのだと、選ばれたかったと思っている人が今でも悲しみの渦の中で蹲って前に進めずにいることを、知って欲しかった。


 私の言い方だけで何かを察したのか、たけみっちは一度唇を噛み締めてから大きく息を吸った。その真っ直ぐすぎる位に真っ直ぐな表情に、また思い出したくないことを思い出す。そう言えば真一郎は真っ直ぐな奴だった。

「それでもオレは、大切な人たちを諦めたくないです」
「……そっか」

 私がたった一人で悩んで迷って頭を抱えて結論に、そういう信念をぶつけてくれるのか。

 込み上げる感情を抑え込んでまた空を見上げて、ちらほらと夜闇を照らす星を目で追う。この中のいくつかはきっともう遠い過去に消えてしまった星だ。
 しばらくそうして星を見ていたけれど、そろそろ千冬が戻ってくるかもしれないと気付いて再びたけみっちの方を見た。私と同じように空を見上げているたけみっちは、やっぱり、似ていない。

「万次郎はアンタのどこを真一郎に似てるって思ったんだろ。あ、説明はしなくていいからね」

 聞きたくないからと付け足して、ベンチから立ち上がる。数十分前までは立ち上がれそうにもなかったのに、立ち上がるどころか自分の力で前に進むことだって出来た。真一郎に似ている人となんて話したくもないと思っていたけれど、全然似ていなかったから逆に少しだけ前を向けたのかもしれない。

「聞くのが遅くなったけど、圭介とはどんな関係だったの? たけみっちも東卍に入ってたり?」
「どんな関係……マイキーくんに場地くんを連れ返してくれって言われて、それで……東卍には入ってます」
「ってことは、まあ先輩後輩みたいなもんか。にしても万次郎も無茶振りするね。圭介が頑固なのはよく分かってるはずなのに」

 昔からそうと決めたことは譲らない子だった。私はこの先も経緯を知りたいとは思わないけれど、今回のことだって圭介は決めたことを貫き通したのだろう。あの日からずっと決めていたことを、最期まで諦めなかった。きっとそうだ。
 やりたいことを出来たならよかった。あの優しい子までただただ呪いに振り回されて全部がめちゃくちゃになってしまうのはあんまりだ。でもその最期を本人が納得しているなら、私に言えることは何もない。私が言っていいことも何もないだろう。


 さて、話すことは話したしそろそろ帰ることにするか。しんみりとしてきた思考を無理矢理打ち切ってぐっと伸びをする。千冬におつかいを任せておいてそのまま帰るのはなかなか最低な気もするが、あのおつかいもたけみっちと二人で話すために無理矢理要件を作り出したようなものだったし、ジュース一本で手打ちにして欲しい。

「そろそろ帰るね」
「えっ、千冬は……」
「ごめんねって言っておいてくれる?」

 そう言いながら歩き出してしまえば、たけみっちは困った顔をしながらも頷いてくれた。案外押しに弱いらしい。この調子で万次郎にも丸め込まれてるのかなと思うとちょっと笑える。アイツはアイツで我が強すぎるから、こういう押しに弱い友達が一人ぐらい居てもいいのかもしれない。

 そんなことを思いながら軽く手を振って背を向けたのに、「あの」と声を掛けられた。まだ何か言いたいことがあったのかと足を止めて振り返り、少し聞きにくそうにしているたけみっちに視線だけで話の続きを促した。早くしなければ千冬が戻ってきてしまう。千冬には千冬で今度ちゃんと話す機会を作ろうと思ってるから、今日のところはもう帰りたいんだけど。

「場地くんにも言われたんスけど、オレってそんなに真一郎くんに似てますか?」

 どんなことを聞かれても適当に答えて帰ってしまおうと思っていたのに、まさかの問いに一瞬息が詰まった。それを似てる似てると言われている本人が、似てると言われ続けているらしい真一郎の従妹である私に聞くのか。というかさっき何となく「似てないよ」と捉えられそうなことを言ったつもりだったんだけど、そういう含みのある言い方じゃやっぱりダメなのかな。こういうのも、恋愛と一緒でとにかく素直に言葉をぶつけるべきなのか。

 一度深呼吸をしてから、髪を耳に掛けて口角を緩める。それなりに迷った上で意を決して聞いてくれたであろうたけみっちには悪いけど、その問いに対する答えはもう出ているのだ。

「私の知ってる真一郎には全然似てない」

 そう言ってあげれば、そうなのかとばかりにたけみっちが表情を驚きに染めたのが面白かった。だから「でも」と言葉を続ける。

「万次郎と圭介の知ってる真一郎には似てるのかも」
「……真一郎くんってもしかして二人いたり……?」
「しないしない! 一人しかいなかったよ」

 この子結構面白い子だな。笑いが込み上げてくるのを抑えきれなくて、慌てて唇を噛んだけどニヤけるのは誤魔化せなかった。


 二人ってそんな、流石に「佐野真一郎」という人間が二人存在しているなんてことはなかった。万次郎やエマにとって良い兄で、圭介や春千夜にとっても優しくて憧れのお兄さんで、私にとっては年甲斐のないクソガキ。そのどれもが全部、「佐野真一郎」という一人の人が同時に持ち合わせた側面のひとつだっただけだ。その全部が両立してしまっただけのこと。

 思い出すのも辛いし言葉にすれば認めてしまうようで嫌だけど、たけみっちの面白さに免じてヒントっぽいものもあげるか。私の勘がちゃんと働いていて万次郎と圭介も盲目になっているわけでないなら、この子は多分真一郎に近い子ではあるんだし。

 よく分かりませんという顔をしているたけみっちに近付いて、腰を曲げるようにしてわざと下からその目を覗き込む。近距離に異性がいることに慣れていないのか軽く仰け反ったところも面白い。でもやっぱり真一郎には似ていない。

「真一郎はね、私たちには優しくない人だった。それにアンタみたいに『諦めたくない』なんて言ってくれなかった」

 私の言葉に何がそんなに意外なのかたけみっちは目を見開く。この子の驚いた表情ばっかり見てる気がするなと思ったけれど、それ以外の表情は「一番大事な人」に見せてあげればいい。きっと、いるんだろう。

 近付けていた顔を離し、たけみっちに背を向ける。万次郎に存在を示唆されたときには会いたくなくてたまらなかったのに、この数十分で結構この子のことを気に入ってしまった。私も単純だ。振り返る。

「だから私は決めたの」
「……」
「ふふ」
「…………な、何を?」
「それはたけみっちが当ててみて! 真一郎ならきっと当てられない。だからもし私が決めたことをアンタが当てられたなら、アンタが真一郎とは違うっていう答えにもなる。ね、いいでしょ?」

 返事は聞かずに歩き出す。私から話すつもりは一切ない。誰にだって話していないことなのだ。まあもしかしたら春千夜あたりは察してるかもしれないけど、問い詰められなければ知られているか知られていないかは分からない。シュレディンガーの猫ならぬシュレディンガーの真実ってやつ。
 たけみっちが答えに辿り着くのが先か、私が成し遂げるのが先か。怒った春千夜に刺されることも考慮した方がいいかもしれない。私がイザナくんに捨てられて再起不能になる可能性ももちろんある。

 ともかく、そういうことだ。初対面の子に持ち掛ける勝負ではないけど、圭介が「似ている」と思ったというたけみっちならいい勝負になりそうな予感がしたから、私はその予感に従うことにした。


 この子を通して、真一郎が私たちには見せてくれなかった何かを知りたかった。

ふたつおりのひとひら