好きなのです、全て、全て

 あれ、と思ったのはいつもの待ち合わせ場所にイザナくんが居なかったからだった。

 気圧が低くない時とか気分が良い時とかに、イザナくんは駅まで私を迎えに来てくれる。今日は昼のうちに「駅」とメールが来ていたから、それはつまり迎えに来てくれると言うことだと思って浮かれてたんだけど、違ったんだろうか。
 ひとまずその場で立ち止まって辺りを見渡す。以前迎えに来てくれた時には綺麗なお姉さんに逆ナンされていてヒヤヒヤしたのだ。今回もそのケースである可能性は高い。そうなったらサッと割り込んでパッとイザナくんと腕を組んで正妻アピールしなきゃ。まだ正妻になれてないけど。

 正妻アピールのイメトレをしながらキョロキョロしていれば、正面から歩いてくる金髪金縁メガネの日サロに通ってそうな男の子と目が合った。そして目を逸らされる。
 目が合う瞬間にサッと目を逸らすのが逆にわざとらしくて知り合いかなと思ったけれど、私の知り合いにあんな子はいない気がする。でも、あの視線は明らかに私を知ってる人が向けてくるものだった気もする。どっちが正解だ。

 もしも知り合いだったら。一度会った人の顔は忘れない自信があったのに、ちょっとそれが折れてしまう。万次郎のチームの滅多に会わない子たちの顔もそれなりに覚えているぐらいだけど、それじゃ足りないのかもしれない。


 一度目が合ったあとは私のいる方を一切見ずに駅に入っていった男の子の背を見つめしばらく悩んでいたけれど、聞き慣れた大好きな声に名前を呼ばれて全部吹っ飛んだ。我ながらつくづく単純な女だとは思うが、好きだという気持ちを抑えることは難しい。
 声のした方に勢い良く顔を向ければ、やっぱりイザナくんがいる。ちょっと離れたところに立っていたので駆け寄って、真っ先に「逆ナンされてない?」と聞けば呆れた顔で額を小突かれた。されてないらしい。良かった。

 先週の日曜日ぶりの好きな人との逢瀬に緩む頬を抑えきれず、それでもせめて取り繕おうぐらいはしようと両手で抑えていれば呆れ顔になったイザナくんが徐に口を開く。

「お前は?」
「え? なに?」
「だから、お前は誰にも声掛けられなかったか」
「私? そんな、全然。さっき来たとこだし」
「へえ」

 突然何を聞いてくるのかと思って慌てて答えたけれど、聞いておいてつれない態度である。 まあそんなところも大好きなんだけどね。

 逆ナンしてくるお姉さんたちを追い払う機会がなかったけど、せめてイメトレの成果だけでも見せておこうかとイザナくんの腕に自分の腕を絡めてみる。振り払われなかったので好きにしていいらしい。肩に擦り寄って、ついでに手も握っておいた。
 それでもなんにも言わないので余程機嫌がいいのかなと思って肩に預けていた顔を上げてみれば、イザナくんはそもそも私を見ていなかった。駅の方をじっと見ている。もしやタイプの人でもいたのかと私もそちらに目を向けたが、それらしき人はいない。

 どうしたんだろうか。もう一度イザナくんを見上げれば、イザナくんも私の方に視線を移してくれた。相変わらず宝石なんかとは比べ物にならないほどに鮮やかな瞳をしている。その目に見つめられるとどんな悩みも消えてしまうのだから恋とは不思議だ。

「気になる人でもいた?」
「金髪でメガネ掛けた奴、見たか」

 質問に質問で返されちゃった。いや、気になる人はいるのかという質問に特定の人を探す質問を返すってことは答えてるということになるのか? ちょっと疑問に思いつつも頷いて返す。

「イザナくんと同じぐらいの身長の男の子なら見たよ。私のこと見てた気がしたから気になってたんだけど、もしかしてイザナくんの知り合いだった?」

 なら見られていたのも納得かもしれない。私ってこれでも結構イザナくんのお仲間にも認知されてて有名なのだ。イザナくんには自分が会わせたやつ以外に声を掛けられても返事するなって言われてるけど、横浜をうろちょろしてるとよくそういう視線を感じる。なんなら地元を歩いていても「アイツってあの不死身のイザナの……」みたいな声が聞こえることもある。不死身のイザナって通り名、かっこいいよね。
 好きな人がかっこいい通り名で呼ばれてるとなんだか嬉しくなるなあと呑気に考えながらイザナくんを見て、少し驚く。イザナくんに紹介してもらった人以外が私のことを知っているのはなにも今に始まったことではないので、それなら別にいいかなと個人的には思っていたのだけどイザナくんはそうは思っていないようだった。ちょっと嫌そうな顔をしている。

「もしかして知り合いじゃなかった……?」
「オレもさっき声掛けられた」
「えーっ、それ逆ナンされたって言わない⁉︎」
「言わねーだろ。男だぞ」
「男の子でも突然声掛けてきたんでしょ⁉︎ ダメダメ、そんなのダメ。変なこと言われなかった?」
「変なこと……」
「言われたんだ!」

 うぎゃーっと叫んで腕に力を込めれば嫌そうな顔をされたけど、そんなことで怯むような私じゃない。イザナくんに近寄る虫を排除しなくては。私の未来の旦那さんに変なこと吹き込まないで欲しい。

 ここまでしても振り払われないのをいいことにイザナくんの肩に擦り寄りながら、どこかで冷静な私が「どこまで聞いていいものか」と思案している。イザナくんだって年下の女に何でもかんでも聞かれて良い思いになるわけがないし、踏み込みすぎて嫌な顔をされたり拒絶されたりしたら私が辛くなる。でも心配だ。イザナくんは思い詰めるところがある。


 頼って欲しいと言葉で言うことは簡単だし、頼るように促すことも簡単だ。私はそれをイザナくんに出来る。イザナくんも私をそういうことをする人だと思ってくれてるはず。
 だからといって、じゃあイザナくんがそれを望んでいるのかと言われると私にはなにも分からなくなる。イザナくんが人を上手く頼れないのも、人に心を許せないのも、誰かを信じられないのも、一朝一夕で解決できるような問題じゃない。そんなイザナくんに頼って欲しいと迫って、それで無理矢理私を頼ってもらったところで意味なんてあるのか。


 どんどん暗い方向に向いていく思考に思わずため息をつけば、ぐっと頭に手を乗せられた。そのまま声を上げるよりも早く、髪を乱暴に掻き回される。慌てて頭を振り回した。

「ぐちゃぐちゃになる! ぐちゃぐちゃになる!」
「元々こんなもんだったろ」
「そんなことないよ! イザナくんに会うのに髪ぐちゃぐちゃのまま来るわけないでしょ」
「……」
「……なんか恥ずかしいから今のなし……」

 イザナくんが黙るから恥ずかしくなっちゃったじゃないか。私がネガティブになってることを察して別のことを考えられるようにしてくれたんだろうけどちょっとやり方が手荒かったし、その後無言になるのは酷い。私じゃなかったら多分怒ってるよ。

 見上げた先でなんとも言えない顔をしているイザナくんに気恥しさを感じながらも、顔を見ていなければマシかもと思い至ってその肩に頬を寄せた。手触りのいい髪が私の頬にあたって揺れ、イザナくんの香りがする。お泊まりする日はこの綺麗な銀髪を乾かすのは私だけの仕事になるのだ。そうして触れることを無条件で許してもらえるのは嬉しい。


 七年前、出会った頃ならこんなに近付くことはおろか、名前を呼んで話すことすら出来なかった。あの頃のイザナくんは私のことを見もしなかったし、いないものとして扱われるばかりだったし、私はそういう扱いをされてもイザナくんを見ていられるだけで幸せだった。それが今では欲深くなってしまったものだ。どう考えたって望みすぎている。

 それでも、こうしてイザナくんが拒まないでいてくれる間は望んでもいいだろうか。イザナくんに拒まれればそれで終わってしまう私の決意を、イザナくんが拒まないでいてくれる間は、このままでいたい。

「さっきの子に何言われたのか聞いてもいい?」

 イザナくんは何も答えない。でも無理矢理握っていただけの手に少しだけ力が込められて、握り返された。

「……じゃあ聞かないでおく。話したくなったらいつでも聞くからね」

 どんなに悲しい話だって、苦しいことだって、聞いている私ですら泣きたくなるようなことだって、逃げずに聞く。イザナくんの言葉から逃げたりはない。私は絶対にイザナくんと向き合うことを諦めたりなんてしない。したくない。

 たった一人でずっと悩んで迷って頭を抱えてそうしようと決めたのだ。あの日、他ならぬ自分自身に誓った。私はアイツとは違う。あんな酷い男とは違う。

 湧き上がる怒りとも恨みとも言えない気持ちに無理矢理蓋をする。夢はとっくに終わったはずなのに、いつまで経っても忘れられないあの男。その何もかもを早く忘れてしまいたかった。この忘れたいという感情すらも、消えて無くなればいいのに。


 肩に頬を預けたまま、イザナくんにだけ聞こえるように声を潜めて名前を呼ぶ。少しでもその心に響くように。前を向けるように。

「イザナくんにはやりたいことをやって欲しい。……私だって自分のしたいことをしてるし」

 余計なことまで言いそうになったので自分を引き合いに出しておちゃらけてみせる。イザナくんは一度息を吸ってから、答えるように私の名前を呼んでくれた。そうして感情を乗せない静かな声で話し出す。

「……そろそろ動くことにした」
「うん」
「アイツらに声を掛けてチームを作る」
「……うん」
「それで…………マイキーとケリを付ける」
「…………それはイザナくんのやりたいこと?」

 何も答えずにもっと強く握られた手を一度握り返してから解き、その背に腕を回す。抱き締め返してはくれない。だけど拒んでもくれない。ただ、そばにいることを許してくれる。それだけで良かった。


 あの男の子に何か言われたのだろうとは思う。それがどんな形であろうとイザナくんの背を押したのだろうとも。その先に待つのが光か闇かなんてことはあの子も、そしてイザナくんも興味がないのだ。イザナくんに関しては進んでいるのか戻っているのかなんて分からなくても、それでも足を動かすしかない。

 この二年間ずっと前を向けず、それどころか五年近く苦しみ続けてきたイザナくんが結論を出そうとしていることを喜ぶべきか、その先を案じるべきなのか。イザナくんを信じて慕う気持ちと不安に思う気持ちが同じだけ私の中にはある。

 もうこれ以上傷付かないで欲しい。悲しみを無視しないで欲しい。苦しみを選ばないで欲しい。あの酷い男の、真一郎の呪いに囚われないで欲しい。
 その思いを込めてイザナくんの背に回した腕に力を込める。どんな痛みや悲しみや苦しみからも、私はイザナくんを守りたい。七年前の冬のあの日と欠片も変わらない、この世の何よりも美しい人。私の生きる意味。あなたがあなた自身を傷付けるのをもうこれ以上見たくない。言葉にすることの出来ない気持ちが、こうして抱き締めるだけで全部伝わってくれればいいのに。

「それがイザナくんのやりたいことなら、私はついていくよ」
「……それがお前のしたいこと?」
「そう。イザナくんのそばでやりたいことをやってるイザナくんを見てることが、私のしたいこと」

 そうして、イザナくんがイザナくんのやりたいことをやって生きていってくれること。それこそが私の望みだ。

 肩に寄せていた顔を上げて、私よりも大きな背中から腕を離す。そのままイザナくんを見上げたら思っていたよりも難しい顔をしていて少しだけ笑えた。笑われたことにムッとしたイザナくんにまた髪をぐちゃぐちゃにされる予感がしたから、それよりも早く僅かに持ち上げられたその手を引いて歩き出す。

 この手も大好きだ。勝手に私の目覚まし時計を止めるところとか、嫌いなものを残すところとか、怒ってしまうこともたくさんある。だけどそれも引っ括めてイザナくんの全てが大好き。

「帰ろう、イザナくん」

 ほんの少しだけ手を握り返してくれるところも、眩しそうに目を細めるところも、何も言わずに隣に並んでくれるところも、全部が好きだ。

ふたつおりのひとひら