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杏寿郎が帰ってきてから、数日が経った。

彼の記憶は戻らないが、怪我は回復に向かっていた。
最初は記憶の中より成長している千寿郎に驚いていた杏寿郎だが、それにもすっかり慣れている。

彼が療養している間、深月は今まで通り任務に励んでいた。
『婚約者』だと名乗らなかったことを後悔しながら。

(杏寿郎さんが家に居るのに、何もできない……!)

深月は昼餉の支度をしつつ、大きな溜め息を吐く。

杏寿郎は柱になってからはかなりの激務で、かつての槇寿郎のように休みなど滅多にない。

その杏寿郎がここ数日家に居る。
深月も遠出の任務がないので、毎日帰ってこれる。

だというのに、今の彼らの関係は『師弟』だ。
褥を共にするどころか、手を繋ぐことすらできない。

いや、『婚約者』だと名乗っていたところで、記憶のない杏寿郎が深月に手を出すとは思えないが。

それでも、後悔せずにはいられなかった。
はしたないとわかっていても、杏寿郎を視界の端に捉えては悶々としてしまう。

深月はいつの間にか、彼の怪我だけでなく記憶の回復も願うようになった。


*****


深月の願いは半分叶って、杏寿郎は怪我だけ回復した。
しのぶの診察も定期的に受けているが、記憶は戻らないままだ。

それでも、杏寿郎は任務に復帰することになり、今日はその初日だ。
残念ながら、深月は同じ任務に着けなかった。
こればかりは指令によるので仕方がない。

杏寿郎も記憶を失っているだけで、戦闘の感覚は体が覚えているだろう。
当主も彼の状態は把握しているので、そんなに心配する程でもないはずだ。

ないはず、だが。

深月はどうしても杏寿郎のことが心配になって、任務帰りに彼の担当地区へと走った。
この目で彼の無事を見るまで安心できなかった。

まだ薄暗い月明かりの下で、見慣れた髪と羽織を見つける。どちらも炎を思わせる色合いで、杏寿郎のものだ。

「よかった!しは……」

深月は、ここ最近で言い慣れた「師範」という呼び名を口にしようとしたが、途中でそれを止める。
同時に、足も徐々に遅くなり、最終的に止まってしまう。

「杏寿郎さん……?」

小さく呟いたのは、彼が記憶を失う前の呼び名だった。

だが、それに返事はない。

杏寿郎は深月に背中を向けていて、彼の向かい側には一人の可愛らしい女性隊士が居た。深月の記憶が正しければ、彼女は深月より年下で階級もいくつか下だったはずだ。
彼らは何やら話していて、急に女性隊士の声が大きくなり、深月の耳にもその内容が届く。

「ずっと……ずっとお慕いしておりました!煉獄さん!」

そう言って、彼女は杏寿郎に飛び付く。

そして、そのまま背伸びして、杏寿郎に顔を近付けた。

「えっ……あれ……?」

深月は顔をひきつらせる。
彼女の位置からはよく見えないが、どう考えても女性隊士が杏寿郎に接吻している。

杏寿郎は、嫌なら避けられたはずだ。
だが、彼は女性隊士の抱擁も接吻も避けなかったし、拒否しているようにも見えなかった。

彼も満更ではないということか。

(私のこと覚えてないし、あの子可愛いし……そうだよね。杏寿郎さんだって男の人だし、可愛い女の子は好きだよね。煉獄家の跡継ぎだし)

深月はくるりと踵を返し、足早にその場を去る。
彼女の瞳には、今にも溢れんばかりの涙が溜まっていた。

心のどこかで、杏寿郎は記憶を失っても、自分を好いてくれると思っていた。記憶もそのうち戻ってくれるようにと願っていた。
でも、そうじゃないのだ。杏寿郎は、自分のことを全く覚えていなくて、継子としか思ってなくて、他に好い人が出来ても何らおかしくないのだ。

そんなことを考えて、深月の目に溜まった涙は溢れる。

きっと、このまま彼に執着してしまっては、彼の人生を振り回すことになる。
自分はまだ彼との結婚を決意できないでいるし、あの女性隊士がすぐにでも煉獄家に嫁ぐなら、その方がいいのではないか、と思った。

彼女が家庭に入ってくれれば、槇寿郎も文句はあるまい。

きっと、彼の記憶が戻ることなんか期待せずに、身を引くべきなのだろう。それが一番なのだろう、と思った。

でも、すぐに諦めきれない程度には、深月の心は杏寿郎でいっぱいだった。


*****


深月が杏寿郎を見つける少し前。

任務も無事終わり、杏寿郎は家へ帰ろうと思った。
早く帰って、問題なかったと、深月や千寿郎に伝えよう、と。

しかし、任務を共にした女性隊士が、不意に声を掛けてきた。何やら話があるらしい。

彼女はなかなか本題に入らず、杏寿郎との思い出を語り始めた。

任務で助けてもらったこと。
何度か町で会ったこと。

杏寿郎はどれも覚えがなく、記憶を失っていることを説明した。

すると、彼女はぱっと表情を明るくさせた。

自分の記憶喪失がそんなに嬉しいものなのか、と杏寿郎が不思議に思っていると、彼女は急に大きく息を吸った。

「ずっと……ずっとお慕いしておりました!」

その告白は予想外で、杏寿郎は一瞬硬直する。
その隙をついて、女性隊士は彼に飛び付いてきた。

背中に腕を回され、胸の膨らみを押し付けられる。

杏寿郎は慌てて引き剥がそうと思ったが、その感触に覚えがあるような気がして、結局動けなかった。
多少の違和感はあるが、自分はこの感触を知っている気がした。

ふと、女性隊士が顔を近付けてくる。
それはさすがにまずいと思ったが、杏寿郎の頭に二つのことが思い浮かぶ。

一つは、接吻の感触にも覚えがあれば、何かを思い出すかもしれない、ということ。

もう一つは、女性に恥をかかせてはいけない、ということ。

杏寿郎は目を見開いたまま、彼女の口付けを受け入れた。

数秒後、唇が離れる。

女性隊士は、うっとりとした表情で杏寿郎を見つめたあと、「これからよろしくお願いします」と言って去っていった。

彼女の気配が完全になくなってから、杏寿郎は首を傾げた。

接吻の感触にも覚えがあったが、これにもやはり違和感があった。

それだけでなく、罪悪感というかなんというか、とにかくとんでもないことをしてしまったという感覚が強く胸に残って、鼓動が速くなる。

これはときめきの類いではない。
後悔や恐怖といった負の感情だ。

自分が恐怖という感情を持ち合わせていることに驚きつつ、杏寿郎は無意識に袖で口元を拭った。







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