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※長編夢主。時間軸は第三章と第四章の間。



「君は誰だ?胡蝶の新しい継子か?」

包帯だらけの杏寿郎がそんなことを言うので、深月は手に持っていた芋粥を床に落とした。

お盆が落ち、器が割れる音が部屋に響く。
芋粥の重みおかげで、器はそこまで飛び散らなかった。

「やだ、杏寿郎さん。冗談にしてはたちが悪いですよ」

深月はへらっと笑いながら、落とした物を片付けようと床に膝をつく。
それを見て、杏寿郎ははて、と首を傾げた。

「俺は君のことを知らない。君に名前を呼ばれる覚えもない」
「えっ……」

深月は杏寿郎の方を見る。
彼の表情は、外で見せる真顔のような笑顔で、冗談で言っているわけではないのだ、と悟った。


*****


しのぶの診断の結果、杏寿郎は記憶喪失だった。

「戦闘の影響か、そういう血鬼術を掛けられたのか、はっきりわかりませんが……おそらく前者でしょうね」

お薬ならもう飲んでいただいてますし、としのぶは杏寿郎の診療記録を見つめながら、彼の怪我から現状までを深月に説明する。



数日前、杏寿郎は任務で重傷を負った。
柱ともなれば、相対する鬼は強力で、一筋縄ではいかないこともある。

鬼は斬ったが、出血がひどいので蝶屋敷に運び込まれ、治療ついでに念のため解毒薬を飲んでもらった。

杏寿郎が今にも倒れそうで、鬼が毒や血鬼術を使ったか聞き出す余裕がなかったからだ。

その薬で、大概の血鬼術の効果は消えるはずだし、杏寿郎は頭部を怪我していた。

戦闘時の衝撃による一時的な記憶障害というのが妥当だろう、とのこと。



説明を聞き終えて、深月は納得が行かなそうな顔になる。

「じゃあ、なんで私のことだけ忘れてるんですか!しのぶさんのことは覚えてるのに!」
「最近のことは覚えてらっしゃるんですよ。あと、昔のことも。深月さんが煉獄さんと出会った頃からの数年分の記憶を失ってます。ご本人が一番混乱されてるでしょう」
「そんなあ!」

深月は半べそでしのぶにすがり付く。
用事や遠出の任務で二週間程家を開けていただけなのに、どうしてそんなことになってしまったんだ、と困惑をしのぶにぶつける。

しかし、こればかりはどうしようもないことなので、しのぶは困ったように笑いながら、深月の頭を撫でるしかなかった。

そんな二人のやり取りを、杏寿郎はじっと見つめていた。

見つめられているのに、彼の焦点が合っていないような気がして、深月はきゅっと唇を噛み締める。
今の杏寿郎の表情も仕草も、外面というか、家では見せないものだ。
これは、深月のことを赤の他人だと思っているが故だ。

「胡蝶。随分親しげに話しているが、彼女は?」
「ああ、彼女は雨宮深月さんです。煉獄さんの……」
「継子です」

しのぶの言葉を遮って、深月が短く答える。
それを聞いて、杏寿郎は「なるほど!」と深月に笑顔を向ける。

「覚えていなくてすまない!」
「いいえ」

先程まで取り乱していたのが嘘かのように、深月はにっこりと微笑んでみせた。

杏寿郎が自分のことを覚えていないなら、わざわざ婚約者だと言っても、これ以上混乱させるだけだ。
継子としてなら、側に置いてもらっても違和感は少ないだろう。

それに、しのぶは『一時的な記憶障害』と言っていたが、それがいつまでなのか、もしくは本当に一時的なことなのかはわからない。
だったら、婚約者だなんて言ってしまえば、彼を縛り付けてしまうような気がして、言い出せなかった。

「療養されるなら、お家に帰りましょう。槇寿郎様や千寿郎君が心配してますよ、きょうじゅ……」

杏寿郎のことを名前で呼び掛けて、言い直す。

「師範」

かつて、彼の継子だった蜜璃と同じ呼び方なら、彼も不快に思わないだろう、と考えたのだ。


*****


帰宅して、杏寿郎はまず深月の部屋があることに驚いていた。
それに対して、深月は『身寄りがないので世話になっている』というような説明をした。

杏寿郎はすぐに納得して、槇寿郎や千寿郎に帰宅の報告に行く。

彼らには事前に鎹烏を飛ばしておいて、杏寿郎の症状と深月が婚約者と名乗らなかった旨を伝えてあるので、口裏を合わせてくれることだろう。

案の定、戻ってきた杏寿郎に特段変わった様子はなかった。
ただ、杏寿郎の自室で荷物の整理や彼の湯浴みの準備をしている深月を見て、怪訝な顔になる。

「俺の部屋で何をしているんだ?」
「あ、お着替えの準備を……湯浴みされますよね?お背中流しましょうか?」

にこやかに答える深月に、杏寿郎は少し顔を青ざめさせる。

「俺は、継子の君にそんなことまでさせていたのか……?」

継子とはいえ、深月は女性だ。年頃も近い。
全く覚えていないが、柱という立場を利用して、彼女に無体を働いていたのかと思うと、自分のことが嫌になる。

杏寿郎の表情の変化に気付き、深月はしまった、と思った。
いつもの癖であれこれ彼の世話を焼こうとしてしまったが、婚約者でも恋人でもない異性にこんなことまでさせるのは、下心がある人間くらいだろう。

「ち、違います!師範は、私にひどいことなんてしてませんから!私が進んで、お世話を買って出ただけで!」

これはこれでどうなのだろう。自分が変態みたいじゃないか、と思ったが、言ったことは取り消せない。
深月は諸々を誤魔化すように笑って、着替えを彼に押し付ける。

「すみません、失礼しますね!お風呂の準備は出来てますので、お一人でごゆっくり!お一人で!!」

『お一人で』を必要以上に強調してから、逃げるように杏寿郎の部屋を後にした。

走り去る深月の足音が聞こえなくなってから、杏寿郎は渡された着替えを見下ろす。
それは今日着ようと思っていた寝間着で、これを彼女が迷わず選んでいたことが驚きだった。

そして、背中を流してもらいそびれたことを、心のどこかで残念だと思っている自分が居ることに気付く。

見たことないはずなのに、半襦袢に襷を掛け、髪を纏め、うなじや脚を晒している彼女が脳裏に浮かぶ。

さらには、彼女がお湯に濡れて、髪から滴が垂れ、襦袢が身体に貼り付くところまで想像してしまい、顔が熱くなるのを感じる。

(破廉恥な……!)

こんなことを考えては失礼だ、と杏寿郎は考えを振り払うように、首をぶんぶんと振った。







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