幼馴染の女がいる。周りに流されやすい人だった。仲良くなったのは小学生の頃だ。俺は苛められがちだったが、感情的で気が強い性格だったから、やられっぱなしということはなく、その日も同じクラスのガタイのいい男児と公園で殴り合いの喧嘩をしていた。やられた分だけやり返して気が済み背を向けて去ろうとしたところ、癇癪を起こした男児が石を投げた。背を向けていたから気付かなかった。俺の近くには、他の友達と遊びに来ていた名前がいた。男児が石を投げたことに気づいた名前は、俺の背後に飛び出して、俺を庇った。石は名前の肩に当たった。幸い痣になった程度だったらしいが、俺は当時名前も知らなかった人に庇われ、その行動に幼いながらも感動してしまったのである。正義だと思った。
後に訊ねてみると名前はそんな些細なことを覚えていないと言った。あれって零くんだったっけ?と言う始末だ。名前も知らない、同じくらいの歳の男の子だったけど、危ないものは危ないし、守ろうとするのは誰だって一緒だと言ってのけた。
俺は名前が好きだった。いつだって一緒に居たかったから、中学3年生の進路相談では同じ高校を志望するようにうまく話をした。地元が同じだという理由で登下校もいつも一緒だった。下校時間がバラバラになるのが嫌で校内で部活をしなかったし、名前にも部活なんてやらないよな?と半ばお願いのように訊ねれば、うーんやらないかも、と簡単に流されてくれた。ありがたい。流されやすい人だった。
校内でも俺と名前がいつも一緒にいるのは皆が知っていて、俺がいるから名前に告白してくるような男はいなかったし、名前がいるから俺に告白してくる女はいなかった。友達に彼女を作らないのかとさりげなく訊ねられても、名前がいるから彼女はいらないと答えていた。名前に尋ねられた時は思わず、作りたいと言ったら彼女になってくれるのかと言いそうになったが、やめた。

「あのな、恋人は作る作らないじゃないだろ」
「その通りすぎて何も言えない。あまえんぼ零くんもいつのまにそんなに大人になったのやら」
「もうあまえんぼじゃないって言ってるだろ」
「でも零は未だに私にべったりじゃん」
「それはそれ、これはこれ」

俺は名前さえいればいいんだけど、名前はどうなんだろう。好きだと伝えて、恋人になれればいいけど、流されやすい名前でも丸め込むのは難しいだろう。もし断られたらどうしようと思うと、この関係を崩すのは躊躇われた。

進路調査の時期が来て、ため息をついた。俺の夢は決まっていて、行きたい大学も決まっている。だけど大学まで名前を誘導することはできないのだろうとわかっていた。ついに離れ離れになる時が来た。離れ離れと言っても、どうせ名前も都内の大学に行くだろうし、いつでも会えるだろうけれど。それすら嫌だと思っていたくらいなのに。

「えっ、都外」
「そう、この大学に決めた。AOで入れそうだし、今度決まったらお母さんと家探しに行ってくる」

名前は地方の私大に入学した。それなりに名の通った大学だったが、わざわざ東京を出て行くほどでも無いし、名前の頭だったらもっとレベルの高い都内の大学に入れたはずだ。だけどその大学に決めたと言って聞かず、俺には止める権利もなく。
俺は都内の難関大学の法学部にすんかりと入学した。名前と連絡は取っていた。暇な土日は名前のところへ遊びに行った。一人暮らしの家に泊まった時は正直ドキドキした。俺だって健全な大学生だったんだ、好きな女の家で冷静に居られるはずがなかった。俺とは違って完全に冷静な名前はすんなりと寝てしまって、俺は少し悔しくて、寝ている名前にキスをしたことがある。これは墓場まで持って行く。翌朝の態度を見るとバレてはいないだろうと安心した。

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そして俺は夢を叶えた。警察官になった。配属先が決まってからは色々な制約があり、名前とは何年も連絡を取っていない。もう俺の携帯に名前のメールアドレスも携帯電話の番号も入っていない。入っていないが、覚えている。連絡先を名前が当時から変えていなければ、俺はいつでも名前に連絡をすることができる。だけど、できない。
名前が東京を離れて10年が経った。電車に揺られながら思う。10年以上前、高校に通学するときに二人で乗っていた。今は一人だ。電車に乗るなんていつ振りだろう。いつもは車移動だから、終電なんてほぼ乗ったことがない。たまたま安室透として受けた探偵の仕事で電車を使った。
仕事に疲れたサラリーマンで車内は混み合っている。俺の前に座る男性もやつれた顔をしている。東京は忙しい。俺だって忙しい。隣に立つOLだって…

「れっ零!」
「ちがいます」

ふっと横を見た瞬間に衝撃が走った。疲れた顔のOLだと思ったら、名前の顔をしたOLだった。どういうことだ。名前は大学を卒業してそのまま近くの企業に就職したはずだ。東京にいるはずがない。なんで。慌てすぎて、思わず口からすぐに否定の言葉が出てしまった。肯定しているようなものだ。だけど名前はほっとしたような表情で「ちがいましたか、すみません」と言う。違うだろ!いや、違わない、違わないんだけど、その反応は違うだろ!思わず叫びそうになったが耐えた。変わらぬ流されやすさだと言っていいのか、これは。連絡のつかなくなった幼馴染に瓜二つ(というよりは同一人物)の男だぞ。明らかに不審な否定だっただろう、降谷零ですと言っているようなものだっただろう、どうして引き下がるんだ。いや、食いついて欲しかったわけじゃない。降谷零でしょう絶対にそうでしょうと言われても、はいそうですと認めることはできない。俺は安室透だ。名前の態度に助かったはずじゃないか。どうして名前がここにいるかはさておき、正体を知られてはならない、もう会ってはならない。俺はまだ、降谷零ではないから。
米花駅に着く。電車から降りる。扉が閉まりますとアナウンスが聞こえる。
ああだめだ、腕を伸ばしてはいけない。名前の手を引っ張ってはいけない。名前を抱きしめてはいけない。わかっている。わかっているけど、頭と体は別だ。腕の中の名前は焦っている様子だった。そりゃそうだろう、そうだよなぁ、俺もどうしようと思っているんだ。どうしよう。

「えっ待って、終電!ちょっ、」
「安室透と言います」
「通報しますよ」
「僕とあなたは初対面です」
「だからっ離して!」
「でも、好きです」

えっ

自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。俺は20年以上秘めてきた思いを、たった今告げてしまったのである。しかも、安室透として。驚いている。だけど、だけど。どうしようもなく好きだと、好きなんだと思い出してしまった今は、もう後戻りなんてできなかった。


「僕とあなたは今日初めて会った。だけど僕は…ずっとずっと昔から、名前が好きだ」


緩められた腕から抜け出した名前は、呆然と俺を見つめている。顔がみるみるうちに赤く染まっていくのが見える。名前の口が開かれる。安室透と名乗ったが、降谷零であることなんて気付いているだろう。今の言葉が、降谷零のものであることなんてわかりきっているだろう。名前は何と言うのだろうか、今更になって緊張してきて、動悸が激しくなる。



「無理です!さよなら!」



走り去っていく名前の後ろ姿を見ていた。えっ?無理?無理って何だ?どういうことだ?

米花駅の近くのコインパーキングに停めてあった車に乗り込み、自宅へ走らせる。頭が働かない。無理?無理って。そんな答えがあっていいものか。何が無理なんだ?俺が名前を好きなことが無理なのか?は?ちょっと待ってショックで死にそう。頭はぐるぐると回っている。降谷零が名前を好きなのが無理なのか、安室透が名前を好きなのが無理なのか。ていうかそもそも名前がもし本当に降谷零だと気付いていなかったら?えっそんなことあるか?いやでもその可能性しか無いだろうと思いたい。たしかに初対面の男が自分の名前を知っていて、抱きしめられて、好きだと言われたら無理ってなる。そりゃ、なる。それしかない。名前は降谷零だも気付いていない。そういうことにしよう。いやきっとそうだ、そうに違いない。
名前が東京にいることがわかった今、もう抑えきれない。俺は名前を見つけ出す。安室透は拒絶されてしまったが、まだチャンスはある。当分表立って降谷零に戻れる時は来ない。降谷零になれるまで待つなんてできない。まずは安室透として名前を手に入れる。もう無理なんて言わせない。そう心に誓った夜だった。

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