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各方面に無理を言ってやってもらったN・E・W・T試験は、全員無事にパスすることができた。連日浴びせられる罵詈雑言に涙で枕を濡らした――なんてことは、まあなかったが。不平タラタラの割にはなんだかんだでやり切るまで投げ出そうとしなかったみんなのお陰だ。さすがグリフィンドール生! とヨイショしたらシレンシオされた。
やりたいことリストを全てやりきり、やっぱり各方面に怒られたりしている内に冬を越え、あっという間に春も過ぎ、夏を迎え。
そうして私は、ホグワーツ最後の年を終えた。
✲✲✲
家に――叔父さんの家ではなく、昔から住んでいた家の方だ――帰り、まず最初にやったことは掃除だった。人が住まないと家はダメになる、とは本当にその通りで、湿気やホコリや、その他口にするのもおぞましいあれこれでひどいものだった。魔法を使ってもまるっと一日かかり、夜になる頃にはぐったりしていた。まだまだやることはあるけれど、ひとまずは終わったといっていいだろう。とりあえず住んでいく程度には整ったはず。長く溜め息を吐いて磨いたばかりのテーブルに突っ伏すと、木の香りが鼻孔を擽った。
「……静かだな」
空気の入れ替えもとうに終わったし、窓も開いている。なにより私以外誰もいない。それなのに一人だけの家の中は、ひどく息が詰まった。その証拠のように落ちた呟きは苦しげで、聞くに耐えない。もう言わないようにと、下唇をきつく噛み締める。
開け放たれた窓から、夏の薫る風が滑り込んできて、前髪を梳かすように汗の滲む額を撫でた。風に合わせて気侭に動くレースカーテンに視線を吸い寄せられる。カーテンの合間からちらちら見え隠れするのは、空っぽの無機質な夜を背後にする山だ。私は何も考えずしばらく視線を傾けて、無言のまま姿くらましをした。
最後に叔父さんと話した場所へ、無性に足を運びたくなったからだった。
なにかを期待して行ったわけじゃない。有り体に言ってしまうなら、感傷に浸りに行っただけだった。それなのに――目の前に広がった光景に私は息を呑む。雑草以外なにも生えていなかった荒野には、果ての見えないくらい大量にムネモリアの花が咲き乱れていた。あの日の記憶を写しとったような景色に、タイムスリップしたのかと勘違いしそうになる。
ガサリと茂みが揺れる音がして、弾かれたように振り返る。言葉を失った。男も私と同様に、放心したように口を薄く開けてこちらを見つめていた。
「どうして……」
掠れた声が口を滑る。呼吸も忘れて惚けていた男が、思い出したみたいに瞬きをした。
「あ――僕は、偶然通りかかった者で……」
硬い微笑みを湛えた彼は、躊躇いがちにぽつぽつと言葉を紡いだ。反応を待つような間が生まれたが、私はぴったりと口を閉じて、返事をしなかった。生温い風が黙りこくる私と彼の間を踊るように吹き抜け、足元で花びらがくるくる舞っている。
「美しいな」
「……そうですね」
独り言かと思ったがこちらを見ながら言われたので、仕方なく返事をする。さりげなく花畑の方へと顔を背けたが、素っ気ない答えが不満だったのか、返事をしてもなお視線を注がれている感覚がした。
「なんの花かは知ってる?」
「さあ」
「僕は知ってる」
そうでしょうねと内心で独りごちる。なんにもおかしいことはない。彼は私と出会う前からこの花のことを知っていたし、私も彼から教えてもらったようなものだ。花の名前自体は叔父さんから聞いたけれど。
「これは非常に希少な花で、ここまでの群生は珍しいものなんだ。僕も初めて見る――もちろん、単体ならないわけじゃなかったが。しかし、それにしてもきみは運がいいな」
「はあ……(よく喋るな〜……)」
「……ああ失礼、そういえば自己紹介がまだだった。僕はドラコ・マルフォイ。きみは?」
――これはどうしたらいいんだろう。
先程からもうずっと、私は彼への対応を考えあぐねていた。今すぐ昏倒したくなるほどの混乱を、表情には意地でもだすまいと必死で堪えていたのだ。
彼の怪我はもう完全に治った。一から関係を――友達をやり直すことに、なにも問題はないはずだ。
けれどもし、余計な関わりを持ったことで、ない記憶を刺激したことでよくないことが起こってしまったら? ムネモリアの薬の資料はただでさえ少ない。余計なリスクを犯すなど、愚の骨頂だ。
突如として迫られた選択に、凄まじい葛藤で脳が煙を上げている。頬を撫でる風に、ピリピリとした痺れのようなものを感じていた。ドラコを思うなら、取るべき行動は一択だ。けれど――それなのに、抗いようのない本心で、考えがまとまらず声が出せない。もういっそ今すぐこの場から逃げ出したい。そうだ、それが最適解じゃないか?
そう思ったけれど、しかし足の裏から深い根が生えてしまったみたいで、爪先をズラすことすらできなかった。どうするべきなのか、結局何をしたいのか、自分でも判然としなくて、思考は混迷を極めていた。
「すまない!」
「えっ……」
身動ぎもせずただ押し黙っていれば、ドラコが突然そんなことを言った。脈絡のない謝罪にたじろぐ私へ、ドラコはうっすらと頬を赤くして視線を彷徨わせた。さっきまでそれこそ鼻にかけた態度で威圧的に喋り続けていたのに。突然の態度の変化に戸惑う。
「いや、初対面なのに、僕の勢いが……怖がらせたかと。もしそうなら謝らなければ、と。そういうつもりはなくて、僕は、その……」
「……いえ、それは……別に。大丈夫、ただ驚いてただけ」
「ならよかった」
あんまり申し訳なさそうだったので憐れになって言葉を重ねる。ドラコは表情を明るくして息を吐き出した。どういう心境の変化か、取り繕うのはやめにすることにしたらしい。肩の荷が下りたようなさっぱりとした顔になっていた。
「アー、それでだな」
ドラコは仕切り直すようにぎこちなく会話を再開した。
「きみはここの近辺に住んでいるのか?」
「……まあ」
「そうか。ならこの花畑はよく?」
「よくは見ないかな」
「でも初めてではないのか」
「そうだけど……もしかして私、なにか尋問されてる?」
「違う! そんなつもりは……」
物腰の柔らかい対応は、まるでドラコではないようで、ほんの少しだけ笑いたくなった。大人になった彼は、初対面の相手へこんなふうに接するんだ。悪戯心が芽生えて揶揄うと、ドラコは慌てふためいて狼狽した。
「僕はただきみのことが知りたくて」
気落ちしたように肩を落とすドラコへ「冗談だよ」と宥める。ドラコは心底安心したとばかりに頬を緩めた。
「(ああ、本当に――別人みたい)」
話すごとに記憶の彼との乖離をいやになるほどに感じる。目の前の彼が柔らかく微笑むたび、記憶のドラコが砕けていくような気がした。
そうだ、私が知る彼も、私を知ってる彼も、もうこの世のどこにもいない。
二人で育んだ思い出も、芽生えた感情も、もう二度と決して蘇ることはないのだ。
「……私はただの通りすがりの地元民だよ」
「え?」
唐突に思い知ると同時に、もうこれ以上この人と話したくないなと強く思ってしまった。同じ空間にいたくない。声も聞きたくない、顔も見たくない――関わりたくない。これ以上私の記憶に触れてこないでほしかった。だってこのままではドラコがいなくなってしまう。もう私の中にしかいないのに。このままでは、もう逢えない彼に本当に逢えなくなってしまう。
覚えたばかりの新鮮さも上塗りされるほどの怯懦が、心を急速に蝕んでいた。
「私の事なんて知っても、あなたの得になるようなことはなにもないと思う」
「そんなことは――」
「それに私はもう帰らなきゃ。それじゃあ、さようなら」
飄々と嘯けば、彼は傷付いたような顔で呆然とした。私は作り笑顔で最後まで淡々と言い放ち、彼の隣を通り過ぎようと歩く。
「――だけど!」
けれどすぐに腕を掴まれた。つんのめって倒れかけたが、強い力で引かれて支えられる。痛いというほどではないけれど、振りほどくにはそれなりに彼としっかり向き合わなくちゃいけなさそうな力だった。
「まだなにか?」
「ぁ、いや、だから……」
うんざりした口振りで冷たく振り返れば、ドラコは動揺をやり過ごすように細かく瞬きを繰り返す。けれど最終的には、そうっと視線を私へと据え置いた。月明かりで透き通る瞳に、辺りの花々の色が圧縮されて詰め込まれたように映り込んでいる。そこにはちいさな宇宙が広がっていた。様々な色が混ざりあったそれは生まれたばかりの星雲のように美しく、目を逸らすことができなかった。
「でも僕は――きみを何度も見たような気がするから……夢の中で、なんだが」
「そんなわけない」
反射で言葉が口をついて出る。打算も何もないまっさらな否定だった。在り得ないという感情で、自身の顔がくしゃりと歪むのが分かる。
しかし私の不躾な態度にドラコは気を悪くすることはなく、ただ真摯に見つめてくるだけだった。静謐な眼に、心を映されてしまうのではないかという不思議な焦りが募って、私は逃げるように瞳を落とした。満開に咲く花の傍らで、ちいさな蕾がひっそりと揺れている。
「だ、って……私たちは初めて会う。夢かなにか知らないけれど、それが私のはずがない。そうでしょう?」
「ああ、うん、“お前”の言う通りなんだけど」
変化した二人称に、心臓が音を立てた。怯えとも期待とも分からない拍動が、皮膚の下を這って全身へ回っていくような、そんなぞわりとした感覚に襲われた。青々とした風が、浅くなった呼気を攫っていく。
「――それでも」
足元の蕾に、ふんわりと光りが灯る。結ばれていた花弁がゆるりと解かれていくのを、ただそれだけを、私はひたむきに見つめた。蕾が花となるその瞬間まで、瞬きもせずに見守った。だって、鮮やかだった花弁が、不意に磨りガラスの向こう側にあるみたいにぐちゃぐちゃに潰れていた。篠突く雨向こうのランプのように、ボヤボヤと霞んでいた。涙が瞳をいっぱいに覆っていたので、瞬きをしたら、開いたばかりの花に塩辛い雨を味あわせてしまうと思った。だから瞬きを必死に堪えた。
「僕は、ずっとお前に焦がれていたんだと思う。自分でも不思議なんだが、でも、やっぱりそうとしか思えないんだ」
なあ、と。
控えめに甘えるような呼び掛けに、縋るように弱く揺れた腕に。とうとう根負けして、時間をかけて顎を持ち上げる。その動きに合わせて、睫毛の手前で辛うじて引っかかっていた滴が、粒となって宙へと零れた。
ドラコは眦を蕩かして、不格好なはにかみを浮かべていた。泣いているみたいだと思った。単に私が泣いていたから、そう思ったというだけの話かもしれない。どっちでも、もうなんでもよかった。
「どうかきみの名前を教えてほしい」
この場には誰もいないのに、たったの二人きりなのに、ドラコは声を潜めて請うた。単なる内緒話というよりも、とても大切なことをなにより大事に伝えようとしているように聞こえた。
終わりの朝だと覚悟した。
全てを擲つ夜だと思った。
けれど私の人生は続いている。叔父曰く、答えがまだ見つからないのは、始まったばかりだからということらしい。
あまり実感はなかった。だってやっとやるべき事が全て終わって、長らく巣食っていた胸のつかえが取れたところなのだ。これから始まるなにかがあるなんて、とても想像がつかない。
そう思っていた。
「――わ」
一音だけで息が苦しくなって、一度音を止める。息を吸って、吐いて、歯を噛み締めた。
これはきっと分岐点だ。
いま私は、岐路に立っている。
どちらを選んでも、エレナ・ワイアットの新しい――これからの人生が始まる。そんな確信があった。
「わたしの、名前は――」
選んだ答えを後悔する日がいつか訪れるかもしれない。今日の全てを捨てなければならない夜もきっと来るだろう。それでもいっこうに構わなかった。
だって今の私はこんなにも満たされている。二度目の出逢いを手繰り寄せてくれた彼へ、途方もないほどの愛情を感じてしまっている。
今以上に望むものは、これ以上にもうないと思った。
「――私はエレナ。エレナ・ワイアット」
こうして私の人生は――私だけの物語は、美しい月の光る、極彩色の花の海から始まった。
向かい合う私たちの足元では、開いたばかりの始まりの花が笑うように花弁を揺らしていた。
(完)
解説や後書き等
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