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(愚者の足掻きは時として)



「休憩入ります」

スタッフに一声掛けて外に出た。
暦的に見れば夏も終盤に差し掛かろうかという時期だが、まだまだ暑さが残る。

接客は案外嫌いじゃないらしい自分に驚いている。
ホールの隅からお客さんの表情を観察して、適切な行動を取ることは苦ではなかった。
人の顔色ばかり伺いながら生きてきたせいか、と思うと悪いことばかりじゃなかったと思える。

いつも他人の出方を見て、自分の在り方を図っていた。
どこまでいっても他人本意。
それで上手くいっていた。

『一緒に考えよう』

尽八のその言葉は、私の人生を丸ごとひっくり返したと言っていい。
自分で考えて決めて行動することを、言葉に出して認められたことはなかった。

考えてみれば、色々な物事の歯車が狂い出したのは私が自我を出し始めてからだった。
それが酷く苦しかったが、今思うと当たり前のことなのかもしれない。
自我と自我をぶつけあって、人はきっと一つの結論を出すのだろう。
私はそれを避けてきたし、だからこそ、それを望まない人と結婚するに至ったのではないか。

つらつらと考えながら歩いていると、いつも休憩に使っている近くの公園についた。
お決まりの席になっている木陰のベンチに視線をやると、先客がいる。
確か本館のスタッフ。
ついさっき茶寮に来て、尽八と話していた子だ。

無視するのもな…。

逡巡して結局、彼女が腰掛けている隣のベンチに座るべく近づいた。

「お疲れ様です」

声を掛けると、俯いていた顔が上がって、じっと私を見つめてくる。
赤くなった目元と潤んだ瞳を見て、泣いていたことが分かる。
掛けるべき言葉は見当たらなくて、私は目を逸らして黙ってベンチに腰掛けた。

「…千春さんって」

不意に名前を呼ばれて、驚きで肩が上がった。
ここのスタッフは尽八やその姉に倣ってか、私のことを皆下の名前で呼ぶ。
それに未だに慣れない。

彼女の方を見ると、じっと爪先を睨むようにして見たまま、何かを考えているような顔をしている。
一瞬唇を噛んだ後、彼女はゆっくりと口を開いた。

「千春さんって、尽八さんとどういう関係なんですか?」

その様子を見て、あぁこの感じ、と私はすぐに思い当たる。

これと似たような言葉を、私は別の場面で別の女性から、夫のことで聞かれたことがある。

『彼のこと、どう思ってるんですか?』

今目の前の彼女の目にも、あの時の彼女の目にも、同じ想いが透けて見える。
憎しみと怯えと、そして、“お前がいなければ”という疎ましさ。

夫のことについて聞かれた時、私はなんと答えたのだったろう。


「彼とは、幼馴染ですよ」

きっと納得しないだろうと思いながらも、私は事実をそのまま述べる。

「ただの?」

尋問のように質問を重ねる彼女に、少し身を竦ませた。

「…ただの、というのが、どういう意味なのかが分からないけれど…。
幼馴染であることは事実です」
「誤魔化さないで!」

ついに沸点に達した彼女が、大きくを声を荒げた。

「あなた、結婚してるんでしょう?
フラッと里帰りして、久しぶりに会った尽八さんに色目使ってなんなの?!
不倫なら他所でやってよ!
私、私の方がずっと…」

若く、真っ直ぐで、純粋なその心には、私はそういうふうに映るんだな、と思う。
だけどあまりに図星で、今の私にはぐうの音も出ない。
あの優しさに甘えて、尽八の特別であることに胡座をかいている私は、とても狡い。

「…ごめんなさい…」

誰に向けてという訳でもなく、ぽろりと出たのは無責任な謝罪の言葉だった。

そうだ。
夫のことで問い詰められた時も、私はこうして謝ったのだ。
誰に、何の為かも分からない謝罪を、繰り返した。

私はどうしたいんだろう。
どうなりたいんだろう。
言葉にできるくらいの想いが、今の私にはあるはずなのに。
喉の奥に引っかかって、出てこない。

「…なんっなのよっ!」

唐突に、頬に鋭い痛みが走って、熱がじわじわと広がる。

彼女が立ち上がって目の前に走ってきていて、気がついたら平手で頬を打たれていたのだ。
私は込み上げてくる痛みと恐怖に、じっと耐えていた。

じわじわと広がってくるパニックで、息ができなくなっていく。
首に手を掛けられて、少しずつ少しずつ、締め上げられていくようだ。

困惑した顔の彼女が視界に入って、すぐに落ち着くから、と言いたいのに言えず、その場に崩れ落ちる。

「千春さん!」

泣いて腫れた目が恐怖で震えているのを見て、なんとか声を掛けようとして、私の意識は途絶えた。


fin