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(目眩のあとのその先に)



「彼のこと、どう思ってるんですか?」

夫のことについてそう聞いてきた彼女は、彼の会社に勤めているという女性社員だった。

「あなたが彼を大切にする気がないなら、お願いだから離婚して」

その言葉を聞いて、私は現実感のない頭で思った。

この人は彼を大切にするということがどういうことか分かっていて、その上であの人を大切に出来ると言っているのか、凄いな、と。
私にはどちらも難しい。

離婚。
結婚、という言葉と同じくらい白々しく、そして軽々しく聞こえる言葉。

何も考えずに口が、いいですよ、と動きかけて、慌てて口を手で覆った。

「…ごめんなさい。私1人では決められないです…」

私が視線を逸らして俯くと、気の強そうなその女性は、はぁ、と大仰に溜息を吐いた。

「あのねぇ…あなたは、どうなのって聞いてるの。
彼があなたみたいな、自分がない人と結婚してるなんて信じられない。
どうして、あなただったのかしら」

どうして私だったのか。
どうして彼だったのか。

何も答えられないでいるその沈黙も、責められているようで、私はまた小さく謝った。




「…か?…じょ…千春!大丈夫か?!」

薄らと目を開けると、夏の青空を背景に、尽八が焦りと恐怖の入り交じった視線を落としている。

随分と懐かしい夢を見ていた。
一瞬ここがどこか分からなくなる。
そういえば、帰って来て最初に尽八に会った日も同じようなことがあったな、とぼんやり思い出した。

「…だい、じょうぶ…尽八、お店は」
「そんな事はっ!…どうでも、いいだろう…」

ベンチに凭れる様にして地べたに座っていた私の横に、ヘタりと尽八も尻もちをついて座り込んだ。

「…私、どのくらい…?」
「…気を失っていたのは、5分ほどだよ」

そんなものか、と時間感覚の無い頭を振る。
パニック症状で息が出来なくなって、脳が酸欠状態になってブラックアウトしたのだろう。

「本館のあの女の子、ここにいなかった?」
「あぁ…彼女が電話をくれたのだよ。
尋常ではない様子でな。
今日はもう上がりだと言っていたから帰らせた」

あぁ申し訳ない、とあの怯えた顔を思い出す。
きっとさぞ恐かっただろうし、要らぬ罪悪感を背負わせてしまったかもしれない。

「…彼女に事情を説明して、謝ら、」
「千春!」

よたよたと立ち上がりかけた私の手を、尽八が掴んで引き寄せた。
すっぽりと私の身体を収めてしまう腕や胸の逞しさとは裏腹に、頼りなく小刻みに震えている身体から不安と心配が伝わってくる。

「どうして、そう、お前は…!
もう少し自分のことを大切にしてくれ…!」

頼む、と小さく呟かれた声が、耳元で切なく震えた。

「…尽八…ごめんね」

恐る恐る腕を尽八の背に回す。
トントンと、昔より一回りも二回りも大きくなったその背を叩いた。


「今日はもう帰るぞ。俺が送っていく」

暫く黙って私の肩に頭を預けていた尽八が、ぱっと顔を上げて唐突に宣言した。

「いや、悪いよ、だって店も、」
「いいや、聞かんぞ俺は。
店は応援が丁度来ているし、あと1時間程で閉まる、問題ない。
いいな、送っていくと言ったら送っていく!」

そこで待ってろ、車をとってくる!、と言って尽八は走っていった。

ここに来てからずっと尽八が私に遠慮している感じがしていたけれど、本来はこういう強引さがある子だったよな、と思い出す。

ベンチに座り直そうと立ち上がったら、ふらりと視界が歪む。

尽八の言う通り、今は休む必要があるのだろう。
自分の思う通りに、ちゃんと自分自身をコントロールできたら良いのに、と自分の不甲斐なさを悔やんで溜息を吐いた。


fin