17
(青年は無知の知を知る)
俺は腹を立てている。
そうだ本当は、ずっと最初から俺はー。
「すいません、田中さんを送っていくので、あとを頼みたいのですが」
応援の2人に許可を求めると、はい…、と困惑したような返事が返ってきた。
有無を言わさないような雰囲気を出しているのは、自分でも理解している。
だが。
知ったものか。
そもそも2人で回していたのだ、まして閉店間際の客の少ない時間帯。
人員としては2人で充分。
それに、回せる程度のことはもう引き継ぎがあっている筈だ。
彼女のロッカーを開けると、扉に家の鍵らしきものがかかっている。
中にはハンガーにかかった、替えの黒いシャツとチノパンが一枚ずつ。
それだけだ。
「…何もないな」
独り言を呟やいて、鍵だけを握った。
「千春」
公園に戻ると、彼女はベンチに座ってぼんやりと空を見ていた。
名前を呼ぶと、立ち上がろうとしてふらつくので、慌てて近寄る。
「…っと…。無理をするな」
「あ、うん、ごめん…」
俯く彼女の頬に落ちた、睫毛の影を見つめる。
「さて、行こうか」
「…へ、え、えあぁぁ?!」
「ふ、はっはっは!なんだ、面白い声だな、千春」
笑いながら、でも、不意に泣きそうになった。
決して腕力に自信があるわけではない俺でも、簡単に抱き上げられるくらいの体重。
胸の中で慌ててもがいて、胸を押し返すその力も弱い。
ここまで、こんなふうになっても、どうして。
堪らなくなって抱きかかえる腕に力を込めたら、観念したのか動きが止まった。
彼女の身体が熱いのが分かる。
顔を覆った両手の隙間から漏れた、お願いだから下ろして、という消え入りそうな呟きを聞く。
それを聞いても尚、俺は腕の力を緩めるつもりはない。
「…大丈夫、心配いらんよ。誰も見ていない。
駐車場に停めてある車まで、すまないが少し辛抱してくれ」
声にならない呻きを上げている彼女を見て、強引だったかと若干の後悔が過ぎるが、仕方がないではないか、と半ば開き直って歩き出した。
こうでもしないと、きっと彼女は誰かを頼ることはない。
俺は腹を立てているのだ。
こんなことになってでも、頼ろうとしない彼女に。
それに、彼女を頼らせない環境に。
そして何よりも、彼女が頼れる存在に、結局未だなれない俺自身に。
ゆっくり待っていようと思った。
気持ちが整うまではと。
だが、悠長にそんなことを言っている場合ではないではないか。
現にこうして、この幾日かの間にも徐々に目の前で弱っていっているのに。
知っていた。
郷里に帰ってきても、少しも彼女の気が休まっていないことを。
頑張り続け、人に気を遣い、懸命に戦いながら徐々に疲弊していっていることも。
ちゃんと、俺は、知っていた。
彼女の想いを、頑張りを、尊重したいと、思ったのだ。
俺も、そして、彼女の周りの人間も。
だが果たして、その頑張りの方向性は、本当に意味あるものなのだろうか。
この人は自分で自分を傷つける辛い道を、何故か選んで進んでしまう人ではないのか。
それをただ、見ているだけでいいのか。
答えのない問いが頭をぐるぐる回る。
腕の中の彼女からキンモクセイの香りが舞って、ドツボにハマりそうだったその思考が、ふと途切れた。
彼女の想いを尊重?頑張りの方向性?ただ見ているだけでいいのか?
何だ、そのまるで、俺が彼女の数歩先を行っているかのような物言いは。
違うだろうが、勘違いしてんじゃねぇ。
いい加減格好つけるな、俺よ。
お前ただ、自分が傷つきたくねぇだけだろ。
地面を踏みしめる足に力が入って、じりっと音がした。
彼女にばかり想いを吐き出すよう促して、何が一緒に考えよう、だ。
こんなの、包みを広げるだけ広げて、あとは自分で片付けろと言っているようなものじゃないか。
過去に、しかもたった一度、身勝手な想いを伝えて玉砕したからといって、何を恐れている。
伝えるべき想いは、他に幾らだってあるだろう。
俺の想いと彼女の想いの間にある溝を、知って、目を逸らさずに認めよう。
俺たちは擦れ違い、間違い、時に意図的に、時に無意識に、傷つけ合う。
人と人が共に何かをするということは、そういうことを繰り返していくことだということを、この数年で俺は沢山のことから学んだのではないか。
恐れるな。
向き合え。
そのために、考えろ。
fin