18
(無彩色な彼女と極彩色の彼)



車に乗り込んですぐに手渡された鍵を、玄関の鍵穴に差し込んでほっと息を吐く。
アパートの階段を登るのにも、私を歩かせまいと抱きかかえようとする(しかも横抱き)尽八を、なんとか断ってここまで階段を登ってきたのだ。

玄関を開けると、部屋が茜に染まっている。
この部屋にはカーテンがない。
坂の上に立つこのアパートは窓の外の眺めや光を遮る物がなく、時間と共に部屋の色が変わる。
茜、そしてこれから、濃い紫と月の白い光の、夜の色に変化していくだろう。

「千春」

もう幾度となく、その声で呼ばれた名前を聞いて振り返ると、尽八が迷ったような表情で玄関の壁に寄りかかって立っている。

「どうしたの?上がって」

不思議に思って促すと、だが…、と口籠った後、では上がらせてもらう、と何故か意を決したような表情で靴を脱いだ。
綺麗な所作で靴を並べると、ワンルームの狭い部屋に入ってきて、ぽつんと置かれた小さなダイニングチェアに腰掛けた。

部屋を換気するために、からりと窓を開けると夏の湿った空気が流れ込んでくる。
振り返ると尽八がそこに座っていて、この部屋の物の無さが際立って見えた。
尽八は単体で派手というか、煌びやかで、生活感がないこの部屋がとても侘しく見える。

眩しいなぁ、と思う。

私のような色彩を持たない人間と、彼は違う。

「何も無くてごめんね。今何か…」

そう言って冷蔵庫を開けると、辛うじて2リットルのミネラルウォーターが一本入っていた。

「水しかないんだけど、水でもいい…?」
「あぁ、お構いなく」

一つしかないコップに水を注いで、小さなテーブルに置いた。
自分の分は、昼に買った同じメーカーのミネラルウォータのペットボトルがある。

「…千春、お前、どこで寝てるんだ?」
「え、クローゼットにお布団があるから、それをひいて…」
「そうか」

手持ち無沙汰でペットボトルの蓋を開けていたら、ぽつりと尽八がした質問に内心ぎくりとする。

単身者用のこのアパートには、冷蔵庫とダイニングテーブルとチェアだけは元からあって、最初はそれだけで生活していた。
寝る時は床にタオルを敷いたり、壁に寄りかかったりして寝ていたが、叔母ははが見兼ねて布団を持ってきたのだ。

私の持ち物は、財布と携帯と数枚の下着とバスタオルが2枚(タオルと下着は、ないことに気がついて慌てて買った)と、そして着替えの服が上下1着ずつだ。
ただ携帯電話はもうとっくの昔に充電が切れて使えないので、クローゼットの布団の下敷きになって置いてある。


「体調はもういいのか?」

尽八がじっと私の目を覗き込むようにして言う。

「うん、一過性のものだし、身体っていうより気持ちの問題だから」

私は思わず目を逸らして、まただ、と思う。

私はこの目に弱い。
嘘がつけなくなってしまう。
いや、嘘を吐いていなくても、何故か嘘をついているような気分になる。

それは昔から感じていたことかもしれないけれど、ここに帰ってきて、彼とよく話すようになってから強く感じるようになったことだ。

丁寧に何も言わず話を聞いてくれる尽八に、私は確かに救われているのに。
"一緒に考えよう"と言ってくれたその言葉に、背中を押されているのに。

夜空みたいに深い紫がかった黒に、星の煌めきのように光が宿るその目が、少し恐く感じることがある。

「千春。少し、話をしよう」

尽八が静かに言う。

遠くから微かに祭りの囃子が聞こえてくる。
遠くの喧騒と対照的なこの部屋の静寂が、私と尽八を包んだ。



fin