03
(ノスタルジアと呼ぶには、未だ青い)



彼女は青白い顔をして死んだように眠っている。
額にかかった前髪を指でそっと払った。

たった。
たった数年だ。
千春が寮に会いに来たあの最後の日に別れてから。
何十年も経った訳ではない。
それなのに。

「…一体何があればそうなるんだ、千春。俺は…」

俺はそんなふうにボロボロにさせるために、お前を見送ったわけじゃない。

そう言いかけて口をつぐんだ。

もしそうだったとして、あの時俺が引き止められただろうか。
彼女を守ってやれただろうか。

口先だけの虚勢で一体彼女に何ができたというのだろう。

「ん…ぅ…」

眠っていた彼女の睫毛が震えて、ゆっくりと目が開いた。
ぼんやりと天井を見つめた後ゆっくり視線が俺に向く。

「…久し、ぶりだな」

なんと言っていいのか分からず、出てきたのは陳腐な挨拶で。
なんとか笑ってみせたけれどきっと、情けない顔をしているに違いない。

「尽八…」

その口で、その声で、呼ばれる自分の名を、あれから何度記憶の中で反芻しただろう。

「千春…」

思わず昔のように躊躇なく手を伸ばす。

「っつ…!」

俺の手が届く前に、彼女が身を竦めて全身を強張らせた。
布団の上で小さく縮こまるその姿を見て、俺は伸ばしかけた手を引っ込める。

あぁなんてことだろう。
誰がこんな。
違う、俺だ。
もっと早くにどうにかできたはずだろう。
なんでだ。
どうして、地元に帰ってこない彼女を姉が心配していた時に迎えに行かなかった。
異変はあったはずだ。
それなのに俺は、また拒絶されることが怖いなんて、彼女が他の男と仲睦まじくしている姿を見るのが嫌だなんて、そんなクソみたいな理由で。

「尽八…?」

そっと呼びかけられてハッと我にかえると、握りしめて血の気が引いた拳が目に入った。
手の力を緩めて息を吸って、再度彼女に目を向ける。

「あぁ、すまんな。懐かしくて…」
「…そっか…」

目が合うと、千春はふっと目を逸らした。
頬に睫毛の影が落ちる。

この横顔が好きだった。
だけどもう、今となっては昔彼女にどう接していたか酷く曖昧になってしまった。

「その…大丈夫か?」
「あ…うん。ごめんね、心配かけて…」
「いやそれはいいんだが…ちゃんと眠れてないんじゃないか?」
「眠れないのは、今に始まったことじゃないから…。
倒れたのはそれが原因じゃないから、大丈夫、もう平気」
「待て待て。今日はもう上がりでいいと言われた。ゆっくり休め」

立ち上がろうとする彼女を慌てて引き止めると、上がり…、と呟いてストンと再び布団の上に座った。

「…迷惑かけちゃった…申し訳ないなぁ」

ぽつりと呟いたその表情は憔悴しきっていて、俺はなんと声をかけていいか分からない。
こんな表情のこんな彼女、俺は知らない。





「着替え、ここに置くぞ」
「ありがとう」

衣擦れの音がいやに大きく聞こえて、襖の向こう側で彼女が着替えているのがわかる。
変にざわつく心臓を見て見ぬふりをするために口を開いた。

「サイズは良さそうか?」
「うん、ちょうどいいみたい」

今日は家に泊まっていくように姉から本人が直接言われていたようだし、俺にも姉が千春を帰すなと重々言ってきていたので、帰ろうとする彼女をなんとか引き止めたのだ。

「入っても?」
「あ、うん、どうぞ」

襖を開けると浴衣に着替えた千春が、所在なさげに立っていた。

「夕飯準備したら起こすから、それまで休んでおけ」
「ご家族は…?」
「ご家族って他人行儀だな。千春にとっても家族みたいなものだろう?
夕飯は各自だよ。
今日は俺ももう上がりだから、一緒に食おう」
「一緒に…」
「ほらほら。もういいから、とにかく寝ておけ」

少しでも沢山休んで欲しくて促すと、彼女は素直に布団に横になった。

「暑くないか?」
「うん」
「俺はその辺にいるから、何かあったらいつでも呼んでくれ」
「わかった」

薄い瞼がそっと閉じられていく。

「千春」
「ん…?」

唇の隙間から小さな歯が覗いた。

少しだけ、触ってもいいか?

そう言いかけてやめた。
そのまま歯止めが効かなくなりそうだったからか、触れたら壊れてしまいそうだったからか。

「いや…。おかえり」

パタンと襖を閉めて廊下を歩いて、2階に上がる階段に腰掛け、項垂れる。

「最低だな」

自分の言葉が自分に刺さって酷く苦しい。

遠くでカナカナと蜩が鳴いている。
あぁ帰ってきたんだな俺も彼女も、とぼんやりと考えて懐かしい空気を吸い込んだ。

fin