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(宵闇で翳りゆく部屋に)



「では、俺は帰るとしよう」

そう言って、尽八はかたりと席を立って帰って行ってしまった。
私は玄関に鍵をかけて、遠ざかっていく足音を聞く。

がらんとした部屋に、まだ彼の余韻が残っている。

ぐしゃぐしゃに歪んだ自分の顔を見られなくて良かった、という安堵と、追いかけて縋って泣いて泣いて甘えてしまいたい気持ちとが、胸をぐるぐると巡る。

本音を言葉にしてしまうのが、ずっと怖かった。

『私はいらない子供なの?』

心の中にいる子供の私がそう問いかけてきて、大人の私はいつもきっぱりと言い切ってきた。

『そうよ。だって貴方の側には貴方を本当に必要とする人なんていないじゃない』

そう言い切れることが大人であることだと思った。
いやいやと泣きじゃくる子供の私に、諦めなさい、とずっと言い聞かせてきた。

きっと夫との間に子供を望んだのは、子供を愛することで自分を愛したかったからではないかと思う。
そう思うと、本当に、私の為に犠牲になるようなその子が、この世に生まれてきてくれなくて良かったと、心底安堵すると同時に自分が怖くなる。

自分の幸せの為に、誰かの命を、人生を使おうとするなんて。
私は、なんて酷い奴なんだろうか。

尽八への私の気持ちは、でも、同じことなのではないか。
彼が、“俺の我儘”と言ってくれたそれは優しさで、私は今度こそ誰かを犠牲にしてしまうのではないか。
そう思うと、怖くて堪らない。
それなのに。
こんなにも強く、私は想ってしまう。

私は尽八が好きだ。
ずっと、もうそれは遠い昔から。
本当は、離れたくなかった。
彼を私だけの人にしたくて、私を彼だけの人にして欲しかった。
だけどそう言える自信が、私にはなかったのだ。
そして、結局私は夫に逃げた。

夫と出会って結婚して、私は確かに彼を愛したし、あの幸せな時間は確かにあったと思う。
大切にしようと、夫のことを思った気持ちは嘘じゃない。
夫は夫なりに、私のことを想ってくれていたのだろうと、今になってみれば分かる。

けれど、燻らせたまま放置したその気持ちは、ちっとも無くなってしまわなかったことを、再び尽八に会って知ってしまった。
むしろ、尽八への果たせなかった想いを、夫を使って果たそうとしたのではないか。

苦しい。
壊れてしまいそうだ。
自己嫌悪と後悔と、ずっと抱えてきた葛藤と欲望が、綯い交ぜになってぐちゃぐちゃになる。



ピンポンー。

不意に玄関チャイムが鳴って、肩を揺らした。

誰だろう、叔母おかあさんかな。

酷い顔をしている。
今はこの顔で人前に出られない。

そっと移動して、モニターで来客の姿を確認した私は、思わず声を上げそうになった。
慌てて震える手で口を押さえる。
血の気が引いていくのが分かる。

「おーい。千春?いないのか?開けてくれ」

モニターから、玄関の扉越しから、もう暫く聞いていなかった声が聞こえた。

夫だ。

他所行きの笑顔を貼り付けた夫が、立っている。



fin