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(無我夢中でも掴めたそれに意味がある)



『また来るよ』

時間にして数分だったが、私にとっては数時間に思えたその時間。
彼はモニターに向かって話しかけ続け、階段を誰かが登ってくる音がすると、一言囁くようにそう言い置いて立ち去っていった。

私はその場に根が生えたように動けず、立ち尽くしていた。
その場にやっと座り込んだのは、いつの間にか上がっていた雨の隙間で、祭りの花火が上がった音が聞こえてからだった。

吐き気が込み上げてきて、その場に吐いた。
胃が空っぽになるまで吐き続けて、それでも吐き気はおさまらない。
吐いて吐いて、吐くものが無くなっても、えづき続け、気がついたら空が白んでいた。

何とかその場を片付け、早朝の朝焼けの中を私は家を抜け出した。

もうほとんどパニック状態だったのだと思う。
家にいて、携帯を復活させて、叔母ははに連絡する手段だってあった筈なのに。

纏まらない頭でも、夫の車が辺りに止まっていないかを確かめる。
いないことを確かめると、私は朝の道を走った。
どこに向かっているかなんて考えず、とにかく、走った。


「あら、おはよう!早いわねぇ…って、早すぎじゃない?」

結局私が行ける場所なんて、ひとつしかなく、辿り着いたのは茶寮だった。

聞き慣れた声が聞こえて、それが尽八の姉だと認識するのに少し時間がかかる。
箒を手にして怪訝な顔でこちらを見て、その大きな目を更に見開いた。

「…ていうか、大丈夫?!
あんた顔真っ青よ!何かあった?!」

慌てて駆け寄ってきてくれた彼女に、私は震える手で縋る。
声が出せない。

「とりあえず、中に入りましょう、ね」

優しくかけられた声に、私は何度か頷くのに精一杯だった。






早朝の茶寮に、珈琲の香りが漂う。

「少し、落ち着いた?」
「…うん、ごめん。ありがとう」

綺麗な所作で珈琲を口にして、彼女がふぅと息を吐いた。

「それで、何があったか話せるかしら?」

じっと私を見つめるその目に、やっぱり姉弟だな、と思う。
偽りのない真っ直ぐな目。
私はこの目に弱い。

「…昨夜、夫が家に来たの」
「…やっぱり」

私が彼女を見ると、綺麗な形の眉を寄せた。

「あんたが、そんなことになるなんてよっぽどじゃない。
汚れた服のまま、顔真っ青で走ってきたんだから、それくらいの事があってるのは想像がつくわよ」

そう言われて、先ほどまでの自分の取り乱しようを思い出して顔が赤くなる。

吐瀉物で汚れた服のまま飛び出してきて、髪も汚れていたことに、不思議なことに全く気がついていなかった。
とにかくお風呂に入んなさい、と言われてお風呂に入らせてもらって、今、茶寮で珈琲を淹れて貰ったのだ。

迷惑をかけて申し訳なさで、頭が割れそうだ。

「あんた、この期に及んで、迷惑かけて申し訳ないとか思ってんじゃないでしょうね?」

ずばりと言われたその言葉が図星で、私はカップに視線を落とした。

「ばっか!ほんっと、ばか!!!
あのねぇ!大事な友達がこんなことになってるのに、迷惑だなんて、私が思うような人間だと思ってんの?!」

ストレートなその言葉に私は思わず顔を上げた。

「あんたも尽八も、他人に気を遣いすぎなのよ!
そういう行き過ぎた気遣いはねぇ、もう他人の為じゃないのよ。
他人のためにならない気遣いは、自分の為なのよ。
それを他人の為、みたいな顔をするのは、相手にとって失礼です!
わかった?!」

きっぱりと言い切ったその言葉が、今の私にとってはとても痛いけれど。
それをちゃんと、面と向かって言ってくれる彼女の優しさが、とても有難くて。

「…ありがとう…」
「そう!それでいいのよ!」

わかってんじゃない、とにっこり笑ったその顔が、涙で滲んだ。



fin