25
(大切にするということ)
本当はずっと、知っていた、気がついていた。
こんな日がくること。
その時私が、どんな行動をとるのかも。
からり、と音がして、顔を上げると彼が立っていた。
今まさに、片付けようとしていた花鋏が手から滑り落ちる。
「やぁ、千春。探したよ」
そう言って、笑ってみせたその顔から、私は目が離せない。
「なん…で、」
「なんでって、連絡も返さないし、心配だったから迎えに来たんだよ」
目が回る。
息ができない。
酸素が回らなくなって、体から力が抜けていく。
立っていられなくなって椅子に腰掛けた。
「へぇ。いい店じゃないか。お前が接客なんてな」
夫は、なんでもないような声を出しながら店内を見て回り、正面に座る。
その間中私は膝の上でぎゅうっと拳を握りしめて、背中を伝う嫌な汗の感覚を感じていた。
まさか、ここに来るとは思っていなかった。
昨夜来たことで、家はもう知られていることは分かっていたけれど。
今夜、家に帰るかどうか、そんなことを考えていた所に現れた彼は、私にとっては脅威以外の何者でもない。
逃げ出したい。
怖い。
嫌だ。
黒い点がびっしりと心を埋めつくして、黒く、黒く、染め上げていく。
「…なぁ。そんな怯えた顔するなよ」
ぽつりと溢れたその呟きに、私はびくりと肩を振るわせた。
「ここに来て思ったよ。
俺たち、まともな思い出がないなって」
尚も続く夫の呟きを聞く。
夫との思い出。
営んできた生活の記憶は沢山あるけれど、特別な思い出は確かに言われてみればない。
結婚式もしていないから、本当に私たちは、戸籍上の取り決めを交わした時点から、急に家族として暮らしていくことになったのだ。
「でもきっと、ここには、お前にとっての思い出が沢山あるんだろうなって。
そう思うと、恐くなった。
千春を取られてしまうような気がして」
その思いがけない言葉に、私は目を見開いた。
どうして。
なんで。
今更、そんなことを、そんな声で言うの。
ゆっくりと顔を上げると、彼が泣きそうな顔で私を見ていて、その視線に絡め取られる。
こんな風に真正面から視線を交わしたことが、今まであっただろうか。
「お前がいなくなって、1人になって、色々考えてた。
それで、その…今までのこと、すまなかったと思ってる。
ちゃんとやり直して、お前と残りの人生を生きていきたい。
だから、頼むよ。戻ってきてくれるよな?俺の側に」
これからもずっと、そう呟くように小さな声で言って夫が黙った。
あぁこの人は。
私は思う。
この人は、私だ。
傍にあった物は、人は、あまりに当たり前で。
無くなってしまうなんて、考えもしなくて。
理不尽さにも、耐えてくれることに慣れてしまった。
そして今。
失いかけているモノを、必死で手繰り寄せようと、心細さに崩れそうな心を保とうとして、相手に縋りつこうとしている。
寂しい。
苦しい。
そうだ、この人は一。
この人を、こんなふうにしてしまったのは。
「…帰ろう、千春」
伸びてきた手が、頬に触れた。
頼りなく震えるその手は、私にとってもう脅威ではなかったけれど。
それはとても、振り払うことのできない、子供のような。
fin