26
(欲しかったものを手に入れても)



「行こうか」
「…うん」

数週間過ごした空っぽの部屋は、やっぱり出ていく時も空っぽだった。
こうして、出ていく為だけの部屋だったみたいに。

私たち夫婦のあの家に、私は再び戻る。

ここでの仕事を辞める目処がつくまで働くことや、部屋を引き払ったりということは、させてくれるという。
それでもいいから、一旦家に戻って来て欲しいという彼の懇願を受け入れた。

尊重、してくれているのだろう。
彼なりのぎこちない優しさで。

アパートの下に待ってもらっていたタクシーに乗り込む。
駅まで、と夫が運転手に行先を告げた。
珍しく車ではなく、電車で来たらしい。
珍しいね、と言うと、いいだろたまには、と夫が照れ臭そうに笑った。

タクシーの車内で過ぎていく箱根の風景を眺めながら、昔のことを思い出した。

叔母ははに引き取られて、箱根に来た時のこと。

これから自分がどうなっていくのかわからなくて、ひどく不安で怯えていた。
泣いてしまいたいのに、緊張で涙なんて出なくて。
そんな状況でも、帰りたいと思える場所も会いたいと思える人も、何もなくただ怯えていた自分のことを、今は酷く寂しいと思う。

けれど。

離れたくない、帰りたい、と想ってしまう人ができた今の方が、ずっと苦しくて寂しい。

「帰ったら、久しぶりに食事に行こうか、2人で」

夫が手を握りながらそう言って、私は、うん、と口元だけで微笑んで言う。
今にも泣き出しそうな顔を、見られないように窓の外に目を向けたまま。





「千春!」

店に飛び込むと、綺麗に活けられた向日葵があるだけだった。

いない。
何もない。
まるで、最初からいなかったかのように。

「どこに…」

苛々と歩き回って、考えを巡らせる。

千春を迎えに来て連れて行ったとして、連れ帰るだろうが車か…。

そこではっと思い当たる。

朝、神社に来た時に路肩に止まっていたタクシー。
いつもは駅で客待ちをしているタクシーが、こんな早朝になぜこんなところに、と思ったがその時はそれ以上さして気に留めなかった。
だがもし、あれに乗って来ていたのだとしたら。

「…くそっ…!!!!」

慌てて踵を返して、自転車バイクに飛び乗る。

もしも電車で帰ろうとしているのではないとしたら、もう間に合わないだろう。
いや、電車で帰ろうとしているにしても、もう出た後かもしれない。

それでも、一か八かの賭けでも。
少しでも可能性があるのなら。
俺は。

「諦めて…たまるか!!!」

ペダルを漕ぐ足に力を込めて、進む。


fin