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(救いは唐突に訪れる)
あの日手放した手を、ずっと後悔してきた。
けれど、何を伝えるべきだったのか、正解なんて見当もつかないまま、ここまできてしまった。
それでも、今、ここに居る俺の胸には、伝えたいことがちゃんと、あるから。
正しいとか、間違い、とか、そういうことではなくて。
俺は君がー。
▽
駅に着くと夫が切符を買いに行った。
私は1人、駅の入り口に立ち懐かしい風景を眺める。
あぁ随分遠いところまで来てしまったなぁ、と今までのことを振り返った。
もしかしたら。
ふと、予感が胸を過る。
私はもう2度と、ここには戻ってこられないのかもしれない。
あの美しく整った無機質な、夫の宝箱のような、あの部屋。
私は彼の宝物として、あの部屋に保管されるのではないか。
この小さな家出は私の最後の、自由な時間だったのかも。
夫は無くなった探し物を見つけて、こうして大切に抱えて持って帰ろうとしている。
「千春?」
取り止めもなく巡らせていた思考が、夫の声と握られた手で遮られた。
不安そうな顔で私の顔を覗き込んでいる。
「…切符、買えた?」
震えそうな声を抑えて、私は微笑んで見せる。
きっと、彼をこんなにも心細くさせてしまったのは、彼がこんな顔をするようになってしまったのは、私のせいなのだろう。
彼を利用して幸せになろうとした、私の。
一度建前でも、彼の“大切”になろうとしたのに、今更それを取り上げるようなことは、きっと許されない。
「行こう」
夫が私の手をぐっと引っ張った。
「うん」
私はその手に従う。
最後にもう一度、振り返って故郷を目に焼き付けようとしたけれど、そんなことをしては歩け出せなくなりそうだったから、そのまま背を向けた。
背を、向けたのに。
「千春ーー!!!!!!!!」
懐かしい声。
どうして、こんな所に。
やめて。
決心が揺らいでしまう。
「千春、誰?」
夫の硬い声がして、顔を見ると冷ややかな目をしていた。
身体の芯まで凍えさせてしまいそうな、冷たい冷たい目。
「…幼馴染み。行きましょう。電車が来ちゃう」
「…あぁ、そうだね」
私の背後にちらりと視線を投げかけて、夫が先を歩き出した。
私は夫の背中だけを見る。
振り返らない。
きっと、これが全て丸く収まる、良い選択だと思うから。
唇を噛み締めて、切符を取り出した。
「千春!!!お前は、それで良いのか?!」
背後から大きな声が再び聞こえる。
そうやってまた、惑わせるようなことを言う。
周りのことを考えて、自分のことをやっと抑えているというのに。
我慢させてよ。
甘やかさないでよ。
そうでないと、私ー。
「俺には、千春!お前が必要だ!戻って来い!」
どうして。
いつもいつも。
尽八は、その時一番欲しい言葉をくれるんだろう。
ずっと、誰かに必要とされたかった。
いて欲しいと言って欲しかった。
無条件に愛されたかった。
小さな頃からずっと、求めていたのは。
どんなことがあっても、受け止めてくれる場所。
「っつ〜…!」
振り返って、光の先を見る。
「来い!」
汗や汚れでぼろぼろの尽八が、自信たっぷりのあの笑みを浮かべて手を広げて立っている。
涙が後から後から溢れて、私は子供のように泣きながら走った。
ほんの数メートルの距離が、遠く遠く感じた。
背後で夫が名前を呼んだけれど、駄目だった。
ごめんなさい。
私は酷い奴で、裏切り者で、きっと誰かを不幸にせずに生きるなんてことできない、最低な人間だ。
それでも、この人を幸せにしたいと、一緒に幸せになりたいと、そう願ってしまった。
辿り着いた先で、暖かい腕に抱きとめられて、心から安堵した自分に驚いた。
そうか、こんなにも。
帰りたいと切望していた場所が、私にはあったのだ。
「おかえり、千春」
そっと頭を撫でられて顔を上げたら、尽八が優しい顔で笑っていた。
「…ただいま…!」
この選んだ道を、人を、今度こそ大切にできるだろうか。
手放さずに生きていけるだろうか。
不安は今も拭えずにいるけれど。
行けるところまで、心のままに行こう。
今はそう思える。
fin